たかさき祭りの歴史

"引用文"です

引用文献:高崎市史民俗調査報告書第6集
「旧市域の祭りと町内会」(発行、高崎市)

  高崎の祭りに、いつから山車が登場するようになったかは、明らかではない。
しかし、頼政神社の祭礼に登場した飾り屋台を、その起源と見るならば、高崎の山車 は近世以来の歴史を持つことになる。

一地方に於いてこの様な山車を中心とした祭りが、絶えること無く続けられたことは、 稀有なことであろう。土屋老平によって、明治十五年に書かれた「更正高崎旧事記」 (昭和43年刊『高崎市史』第3刊所収)によれば、頼政神社の祭礼に旧来通りに、 飾り屋台が引き出されたのは明治2年(1869年)までであった。

当時の屋台保有町内と、それぞれの屋台に飾られていた人形は、 表24に示した通りである。山車の総数は24台であ った。
これらの飾り屋台は山車形式に近いものと思われるが、この時代のものには 、まだ梶取りは無かったと推測される。中略。
ところで、頼政神社の祭礼に引き出されなくなった後の、これらの飾り屋台がどうなっ たかは、明かではない。

しかし、おそらくはその形を変えながら、各町内で行われ ていた"道祖神(どうそじん)祭り"に、引き継がれていったものと思われる。中略。
大正末期頃まで、市域の四つ角には、多くの石造り道祖神が祀られていた。その信仰形 態が祭道祖神りであり、この祭りに花車が奉供されたのである。正月の三が日が過ぎる と、町内の子供達は家々の松飾りを集めて、松小屋をつくる。

そして、松小屋がで きると再び町内を回り、ろうそく代を集めてくる。松小屋の中では、火鉢に火を起こし て餅などを焼き、冬休みの一日を過ごすのである。やがて、子供達同志の話も尽きると 、子供達は、町の世話役や頭(かしら)などに頼んで、囃子の道具を蔵から出して貰い 、松小屋で練習を始める。七草を過ぎると学校が始まるので、小学生の低学年の児童が 帰宅する昼頃から、太鼓が鳴り出す。

そして、高学年生が帰ってきて練習に参加す ると、囃子の音色や調子は一段と整ってくる。夜になると、大人達も練習に参加し、夜 半まで高崎の街中に囃子が響きわたるのである。こうした練習は道祖神祭りの前日迄続 く。1月13日には、松小屋を解体して、荷車に積み、町外れにあるドンドン焼きが行 われる場所迄運んで行く。その道行きに引き出されるのが花車である。

この時は、 鳶の頭を中心に、町内の役員、有志、青年、女子供まで、総出であった。そして、お揃 いの法被と色手拭いの艶姿で長い行列を作り、掛け声を張り上げて、威勢良く花車を引 き回したのである。こうして、14日の早朝迄、手に手に桑の枝につけた餅や繭玉、す るめなどをかざし、賑やかな囃子に合わせて、道行きをしたのであった。中略。

道 祖神祭りが行われていた頃、引き回されていた花車を、屋台又は、道祖神屋台と称して いた。これは、馬の引く荷車を台車とした形のものであった。運送屋から荷車を借りて きて、その上に屋台の形に櫓(やぐら)を組み、周囲に幕を張り、青年達の手作りによ る人形を飾って完成したものであった。その後、屋台は新造、あるいは改装されて、山 車と呼ばれるようになった。

現存する旧市域の山車からみて、現在の形式のものは 、明治40年代から大正10年代頃までに、その基礎が形成されていったようである。

明治維新まで、高崎のマチの人々にとって最大の祭りは頼政神社(宮本町)の祭礼であ った。頼政神社は旧高崎藩主大河内家を祀る神社である。祭日の1月26日には御輿や 各町内のもつ飾り屋台が出され、「上毛第一の祭礼」(川野辺 寛『閭里(りょり)歳 時記』であったという。しかし、これは聞き取り調査の及ぶところではなく、文献によ って当時の様子を知る以外にない。明治以降は、大河内家が東京へ移ってしまったため に、頼政神社の祭礼は衰退してしまった。

高崎の祭りとして、その後の人々の記憶 に残っているのは道祖神祭りである。この道祖神祭りは小正月行事として1月13日か ら14日にかけて行われていた。この時は、正月飾りを集めて町外れでドンドン焼きが 行われていたが、それに伴って各町内では道祖神屋台が引き出されていたのである。こ の道祖神祭りは戦争の為昭和14年(1939年)頃から中止され、以後は行われなくなっ てしまった。このように戦争前の高崎では、マチをあげての大きな祭りはいずれも冬祭 りだったのである。

こうした例年の祭りの他に、特別な記念行事として人々の記憶 に残っているのが、大正天皇ならびに昭和天皇の即位式、即ち大正4年(1915年)10 月と昭和3年(1928年)11月に行われた2度の即位大典(一般には御大典と呼ばれる )である。この時は各町内から道祖神屋台や山車が引き出されたのである。それまで山 車をもたなかった町内では、この2度の大典にあわせて新しく造った例が多かったとい う。この様に高崎のマチでは、祭りは山車や御輿の出される機会として人々に意識され ていたのである。

道祖神祭りが行われなくなったことで、戦後は山車や御輿の出さ れる伝統的な行事はなくなってしまった。これに代わるものが商業的・観光的な目的で 新しくつくられた祭り、即ち高崎祇園商業祭と高崎奉納祭であった。高崎祇園商業祭は 高崎実業組合連合会の主催、高崎市、高崎商工会議所の後援で、昭和23年(1948年) 頃から同35年(1960年)頃まで行われていた。この祭りは高崎神社境内のある八坂神 社の祭礼を中心にしたもので、毎年7月8日頃から12日頃まで行われた。商店街の大 売り出しを目的にした文字通りの商業祭であった。中略。

高崎奉納祭は高崎市・高 崎商工会議所・高崎実業組合連合会の主催によるもので、毎年10月中旬の2日間、」 15、16日頃に行われていた。昭和29年(1954年)に全国から花火師を集めて「全 国煙火競技大会」を始めてから大規模なものとなった。この祭りは商業祭ではなく、烏 川畔で行われる花火大会を呼び物にした観光的な色彩の強い祭りであった。中略。この ように昭和20年代から30年代に行われた祭りは商業目的・観光目的のものであった が、その中心は神社祭礼が存在した。

これらのほかに、高崎では5年ごとに高崎市 や高崎商工会議所の記念行事を中心にした大規模な祭りが行われていた。昭和24 (1949年)年には、4月8日から12日にかけて市制50周年記念式典が挙行された。 高崎市制施行は明治33年(1900年)のことであり、本来は翌年の昭和25年(1950年)に 行われるべき記念行事であったが、戦後の早期復興を願って1年早く行われたものであ った。このときは御輿や山車がだされたほか、路面電車(東武電車)5台が花電車とし て飾られて市内を走った。中略。

昭和30年には、高崎市への5か村合併(群馬郡 新高尾村・中川村・長野村・碓氷郡八幡村・豊岡村)と高崎商工会議所60周年を記念 して、高崎まつりが開催された。「高崎まつり」の名称が使われたのはこのときが最初 である。この祭りは、群馬県護国神社例大祭を中心とした高崎奉納祭を拡大したもので 、10月13日から6日まで行われた。期間中には、農業祭・大高崎郷土展示会・工業 品展覧会・花火大会などのイベントが行われ、15、16日には獅子舞の奉納や各町内 の山車巡行も行われた。

昭和36年(1961年)には、市制60周年、水道創設50 周年、群馬音楽センター落成を記念して、式典と祝祭行事が行われた。本来は前年の 昭和35年(1960年)に行われるべき行事であったが、群馬音楽センターの落成に合わ せたため、1年遅れとなったのである。期間は7月18日から8月6日までで、祝賀パ レード・音楽センター落成記念の公演やコンサート・市政功労者物故者慰霊祭・花火大 会・市制展示会・工業製品展示会・芸能人を招いての歌謡ショー・のど自慢や民謡踊り のコンクール・文化祭・体育祭などのイベントが行われた。また、7月22、23日に は各町内の山車が旧市域を巡行した。

昭和41年(1966年)7月末には、観音山の 白衣大観音建立30周年祭に合わせて、1年遅れで市制65周年記念高崎まつりが行わ れた。このときも各町内の山車が引き出されたほか、白衣大観音開眼30周年の大法要 と山伏による柴灯護摩(さいとうごま)が行われた。この野外大護摩は昭和45年 (1970年)にも行われ、以後は観音山の恒例の催し物になった。

昭和45年(1970 年)には、市制70周年と水道創設60周年を記念して高崎まつりが行われた。期日は 7月16日から26日までであった。期間中には、仮装自動車パレード・高崎の火祭り (柴灯護摩)・花火大会・市政功労者物故者慰霊祭・納涼踊り・のど自慢など芸能会・ 子供球技大会・商工振興祭・獅子舞奉納などのイベントが行われた。この様な市の記念 行事に伴う祭りは、市の計画に基づくものであり、いうまでもなく行政主導によるもの であった。こうした行政主導の記念行事的な祭りに対し、「市民の手作りの祭り」を目 指して始められたのが高崎ふるさと祭りである。

第1回高崎ふるさと祭りは 、市制75周年にあたる昭和50年(1975年)に行われた。この年はオイルショックの 影響が深刻だったことから、市では全ての山車を行列させるような大規模の祭りは記念 行事として行わない方針であった。しかし、市民からは山車を引きたいという希望が出 ていた。丁度その頃,JC(高崎青年会議所)では、「捜そう心ふれあうコミュニティ 高崎」のスローガンのもとに、市主催の記念行事とは別に郷土芸能祭りの計画を進めて いた。そこで、この計画をきっかけとして、それまで数回続いていた作文コンクールと ともに、郷土芸能と山車巡行を中心にした祭りを市民サイドで自主的に行うことになっ た。このとき、「高崎ふるさと祭り」と名付け、市の参画も補助金もない中で、祭りを 成功させるべく中心になって奔走したのはJCの会員たちであった。JCでは、従来の 商業目的・観光目的の祭りではなく、市民の誰もが参加でき、参加した人達が連帯感を 持てるような祭りを目指して準備を進めていった。資金的に苦しい中で各町内に祭りの 趣旨を説明し、参加を呼びかけるのは大変なことだったという。中略。

この年のふ るさと祭りで行われたイベントは、子供の遊び広場、盆踊り、花火大会、山車行列郷土 芸能、群馬交響楽団の演奏会、お茶席、中高生作文コンクールであった。中略。JCで は初め、高崎ふるさと祭りは1度だけのつもりであった。しかし、手作りの祭りが好評 を博し、市民から是非来年もとの声が寄せらため、毎年祭りを続けることになった。こ うして、神仏などの信仰基盤を持たない、新しい高崎の祭りが誕生したのである。中略 。特に、山車を持たない町内が積極的の参加出来るようにダルマ御輿が工夫されたり、 個人が参加しやすいようにワイワイ広場や自由参加部門が設けられたりした。祭りの日 程については、第5回(昭和55年)迄は8月中旬の2日間(土曜、日曜)であった。 しかし、当時のイベントの一つに魚釣り大会があり、「お盆なのに殺生をするのはどう か」という批判が出たため、8月上旬に移された。資金集めについては、第二回からワ ッペンの事前販売が行われるようになった。

昭和55年(1980年)の第6回高崎ふ るさと祭りでは、市制80周年にあたるために市から補助金が出され、山車を持つ参加 町内の全てが山車を引き出すことができた。このような市民が主体的に作り上げる祭り は群馬県内外の市町村から「高崎方式」と呼ばれて注目を集め、高崎ふるさと祭りは第 10回(昭和59年)迄続いたのである。

高崎まつり 昭和60年(1985 年)に高崎ふるさと祭りは「高崎まつり」に名称変更された。それは、市制85周年に あたるのを機会に、この年から市が祭りに参画するようになったためである。そして、 それは第10回迄の高崎ふるさと祭りを引き継ぐ意味から、第一回高崎まつりではなく 、第11回高崎まつりとしてスタートした。祭りの実行委員会は高崎観光協会理事長が 務め、事務所も高崎観光協会内に置かれることになった。第13回から市の予算に高崎 まつりの補助金が計上されるようになり、資金に困ることはなくなった。中略。

市 制90周年記念の第16回高崎まつり(平成2年8月4日、5日)で行われたイベント は、前夜祭(8月3日夜)、初日のオープニングセレモニー(頼政太鼓、挨拶、テープ カットなど)、御輿(御輿コンクール、本御輿連合渡御)、自由参加広場、お祭り広場 (子供広場)、福引き大会(高崎まつりのワッペンと引き換え)、山車巡行、民謡踊り (盆踊り、伊豆長岡踊りを含む)、音と光の祭典(花火大会)、第7回高崎技能祭(職 人の技術の実演)であった。 このほかに高崎まつりの写真コンクール(10月1日〜26日)も行われた。

高崎 まつりは、その前身である高崎ふるさと祭りの性格をそのまま引き継いでおり、「観客 に見せる祭り」よりも「市民が参加して楽しむ祭り」を志向している。しかし、会場が 主に旧市域であることもあって、旧村地域の人達からは「あれはマチの中の祭りだ」と いう声が出ることがある。高崎まつり実行委員会では、福引き、自由参加広場、お祭り 広場(子どの広場)、御輿コンクールなど誰もが参加しやすいイベントを用意してこれ に対応しており、こうした面を更に拡充させていくことが今後の課題といえる。

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