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"さぁ〜、いよいよ山車のお出ましだ!"
 

平成10年 第24回高崎まつり

出場の山車と山車巡行路のご案内

 高崎の市域は、南北に走るJR線で東西に別れてます。西側が旧市街です。

 高崎では、昭和60年(1985年)の高崎祭りから、総数36台の山車保有町内を南、東、北、中央の4地区に分け、南、東の2地区と北、中央の2地区が大きな2つのグループとなって、隔年の輪番で山車を出すことになりました。

 平成10年の第24回高崎まつりでは、東、南の2地区町が、総数19台の山車を出しました。

8月1日の初日と、翌日の2日の文字をクリックしますと高崎駅西口側市街図の山車の巡行路にジャンプします。初日 2日

 山車の巡行路の地図上では、簡略してありますので、目立ちませんが、各町内から最初の集合場所迄の実際の距離は大きな違いがあります。例えば、南地区の石原町下一、下二の2町は、高崎市街の西側で、国道18号と、高崎南部で利根川と合流する烏川を横切って来なければならないのです。一般の車も通る普通の道路を通って来るのですから、集合場所に近い町と比べると、2時間近くも早く出発せねばならないのです。しかし、この2町内は昭和40年代なって、急速に発展した町で、昭和58年、平成元年にそれぞれ新造した山車です。従って、山車祭りの取り組み姿勢が、旧市街の町とは比較できぬ程、積極的に見えます。

 初日、東地区の8台の山車は、高崎の中心通りの田町通りの群銀前へ午後3時、南地区の11台の山車は、西口駅前通り新町交差点から駅前ワシントンホテル前迄の通りに、駅に向かって右側に午後5時までに集合し、同時に整列しました。
 東地区の8台の山車は、午後3時過ぎに集合場所を出発して、中央銀座通り、さくらばし通り、お堀端通り、音楽センター前から、シンフォニーロードに入り、午後5時過ぎには、新町交差点手前に整列しました。午後6時の全19台の山車の巡行出発式までの待機時間中は、整列した山車は、山車囃子を演奏し、東地区の何台かの山車は、新町交差点で円形に並んで、ひっかわせ(囃子の叩き合い)を演じておりました。

 観客は駅前通りに整列した山車を一台一台鑑賞したり、写真やビデオ撮りをしたり、山車の前で記念写真を撮ったり、普段は味わえない華やいだ好い雰囲気でした。 幸い、一日中晴天に恵まれ、歩行者だけの広い道に、山車囃子を奏でる19台の山車が整列した風景は、すばらしい眺望でした。祭りが近づくにつれ、この眺めを見たくて、楽しみにしておりました。それこそ、幼い時から、山車を追いかけ、山車祭りが楽しみであったことを思い出し、子供時代の郷愁がいろいろと、胸中に湧いて来て無性に過ぎしことが懐かしくなったりします。胸にジーンと来ることもあります。そんな"ぼーっ"とした"感慨の瞬間"が、何ものにも代え難い貴重なものに、私には思えるのです。

 午後6時、豪華な飾りで彩られた神像を戴いて、電線の地中化で広々とした空間に、思い切って背を伸ばした19台の豪華絢爛な山車は、この春オープンしたばかりの新庁舎を背景にして整列をし、笑顔の高崎市長の晴れがましい音頭で、出発式は、シャンしゃんと、無事終了しました。各地区の山車は、囃子衆もベテランに代わって、囃子も一段と響きを高め、ほんのりと夕闇が迫る中、後半の巡行に出発しました。

"夜の闇に浮かぶ幽玄な世界"
"さぁ〜、いよいよ夜の山車だ!"
 

 東地区の山車8台は、午後3時に集合場所から駅前の整列場所へ移動する際に、市中の中心繁華街の隊列巡行を済ませてましたが、南地区の11台は、個々に駅前の集合場所へ集まっただけで、未だ隊列巡行はしておりませんでした。出発式の後、南地区の山車が先に隊列を作って、先頭の@石原町下一から、明々と提灯やアップライト照明の点灯をして、隊列番号に従って出発し、最後は東地区のR田町の山車迄の合計19台が、田町通りを北に向かう隊列巡行が始まったのです。

 東地区の山車が動き始めたときは、既に陽もとっぷり暮れて、夜のとばりの中、輝く照明に浮かび上がった山車は、昼間では見られない陰陽がハッキリ出て、幽玄味が漂って来ます。特に神像の姿、唐破風屋根の鬼板や懸魚、向拝柱の彫刻が鮮やかに照らし出され、うん、すごいなぁ、と思わず感嘆したくなります。

 東地区の山車は、昼間に中心繁華街の巡行を済ませてましたから、夜の巡行は整列場所を出て、田町通りを真っ直ぐ進むだけです。午後9時の巡行打ち上げ迄には2時間近くも時間の余裕あります。東地区先頭のK高砂町からR田町の8台は、田町通りの東洋信託銀行の前から、道幅一杯の4列縦隊の2段の形式に整列し、行進は止めてお囃子の競演となりました。暫く休憩の後、巡行再開ですが、行進は僅かで、すぐ近くの次ぎの富士銀行角の交差点では4台づつの2組が向き合い、囃子の叩き合いが始まりました。昼間の囃子手は子供が多かったのですが、夜は各山車とも熟達のベテランが太鼓のバチを握っての熱演です。叩き合い(118KB 60秒)はこの後、田町八間(はちけん)道路交差点でも行われました。ここでは、交差点の4辺の横断歩道上に2台づつ、交差点の中心に向いて並びました。高砂町と山田町、旭町と羅漢町、田町と田町四丁目、九蔵町と北通町が並んで整列しました。

 これまでの山車見聞録で御紹介しましたが、関東では山車や屋台などの祭りの曳き物への女性の参加は、もう珍しいことではなく、特に高崎では女性抜きでは祭りそのものが成り立たなくなったと、痛感します。向き合った東地区8台の山車の太鼓の囃子手は一台の山車に3、4人の太鼓の奏者が必要ですから、交代要員を含めて8台なら、7、80人の囃し手が居て欲しいわけですが、目に付いた男の囃し手は小学生5、6年生の子供が5、6人いただけで、全員女性かと思える程でした。女性は、家庭の主婦がちゃんとした祭り衣裳で、参加されてます。娘時代から囃子を楽しんで来られた女性が祭りの時に里帰りして、参加されておる人も多いかも知れません。

 ご婦人が落ち着いたバチさばきで演奏する様子は、山車を囲む観客を魅了しており、私もシャッターを切りました。高崎の山車囃子は、他と比較して、曲のテンポがゆっくりで、笛の音に合わせて太鼓が伴奏する感じですので、女性のソフトのイメージが似合うのかなぁ、と考えたりもしました。

 市街地西を流れる烏川で、午後7時半から始まった打ち上げ花火大会も佳境に入った様子で、時々西の方角から空気を震わせるような炸裂音が聴えて来ました。花火の音が立て続けに鳴り始めたのは、そろそろ終了の9時近くになったからでした。 整列した山車の後方の空に、遠く花火が上がると山車の周囲に居る人達からも歓声があがりました。

 この交差点での叩き合い(176KB 90秒)が初日の山車巡行の締めくくりになりました。北、中央と東、南の2地区で、高崎まつりの隔年毎の山車出場の当番制も定着して、今年は欠場はありませんでした。悦ばしかったことは、平成5年に貰い火の罹災を受け、過去2回欠場した下横町の山車が修復なって、今年、出場して頂いたことです。又、今までは中央地区に登録されていて昨年出場した田町1、2、3丁目の山車が今年も出場してましたが、理由を聞きましたら、今年から毎年、出場することになったのだそうです。流石、江戸が見たけりゃ高崎田町..と、云われた町の意気込みを感じます。

 午後9時、8台の山車の全役員が交差点中央に集まって、先ず、木遣り節で、本日の終了を唄いあげ、拍子木のさわやかな響きに合わせて、三々七拍子で、初日の山車巡行の無事終了を祝う手締め(137BK 70秒)が終了しました。


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