東地区の山車8台は、午後3時に集合場所から駅前の整列場所へ移動する際に、市中の中心繁華街の隊列巡行を済ませてましたが、南地区の11台は、個々に駅前の集合場所へ集まっただけで、未だ隊列巡行はしておりませんでした。出発式の後、南地区の山車が先に隊列を作って、先頭の@石原町下一から、明々と提灯やアップライト照明の点灯をして、隊列番号に従って出発し、最後は東地区のR田町の山車迄の合計19台が、田町通りを北に向かう隊列巡行が始まったのです。 東地区の山車が動き始めたときは、既に陽もとっぷり暮れて、夜のとばりの中、輝く照明に浮かび上がった山車は、昼間では見られない陰陽がハッキリ出て、幽玄味が漂って来ます。特に神像の姿、唐破風屋根の鬼板や懸魚、向拝柱の彫刻が鮮やかに照らし出され、うん、すごいなぁ、と思わず感嘆したくなります。
東地区の山車は、昼間に中心繁華街の巡行を済ませてましたから、夜の巡行は整列場所を出て、田町通りを真っ直ぐ進むだけです。午後9時の巡行打ち上げ迄には2時間近くも時間の余裕あります。東地区先頭のK高砂町からR田町の8台は、田町通りの東洋信託銀行の前から、道幅一杯の4列縦隊の2段の形式に整列し、行進は止めてお囃子の競演となりました。暫く休憩の後、巡行再開ですが、行進は僅かで、すぐ近くの次ぎの富士銀行角の交差点では4台づつの2組が向き合い、囃子の叩き合いが始まりました。昼間の囃子手は子供が多かったのですが、夜は各山車とも熟達のベテランが太鼓のバチを握っての熱演です。叩き合い(118KB 60秒)はこの後、田町八間(はちけん)道路交差点でも行われました。ここでは、交差点の4辺の横断歩道上に2台づつ、交差点の中心に向いて並びました。高砂町と山田町、旭町と羅漢町、田町と田町四丁目、九蔵町と北通町が並んで整列しました。
これまでの山車見聞録で御紹介しましたが、関東では山車や屋台などの祭りの曳き物への女性の参加は、もう珍しいことではなく、特に高崎では女性抜きでは祭りそのものが成り立たなくなったと、痛感します。向き合った東地区8台の山車の太鼓の囃子手は一台の山車に3、4人の太鼓の奏者が必要ですから、交代要員を含めて8台なら、7、80人の囃し手が居て欲しいわけですが、目に付いた男の囃し手は小学生5、6年生の子供が5、6人いただけで、全員女性かと思える程でした。女性は、家庭の主婦がちゃんとした祭り衣裳で、参加されてます。娘時代から囃子を楽しんで来られた女性が祭りの時に里帰りして、参加されておる人も多いかも知れません。
ご婦人が落ち着いたバチさばきで演奏する様子は、山車を囲む観客を魅了しており、私もシャッターを切りました。高崎の山車囃子は、他と比較して、曲のテンポがゆっくりで、笛の音に合わせて太鼓が伴奏する感じですので、女性のソフトのイメージが似合うのかなぁ、と考えたりもしました。
市街地西を流れる烏川で、午後7時半から始まった打ち上げ花火大会も佳境に入った様子で、時々西の方角から空気を震わせるような炸裂音が聴えて来ました。花火の音が立て続けに鳴り始めたのは、そろそろ終了の9時近くになったからでした。 整列した山車の後方の空に、遠く花火が上がると山車の周囲に居る人達からも歓声があがりました。
この交差点での叩き合い(176KB 90秒)が初日の山車巡行の締めくくりになりました。北、中央と東、南の2地区で、高崎まつりの隔年毎の山車出場の当番制も定着して、今年は欠場はありませんでした。悦ばしかったことは、平成5年に貰い火の罹災を受け、過去2回欠場した下横町の山車が修復なって、今年、出場して頂いたことです。又、今までは中央地区に登録されていて昨年出場した田町1、2、3丁目の山車が今年も出場してましたが、理由を聞きましたら、今年から毎年、出場することになったのだそうです。流石、江戸が見たけりゃ高崎田町..と、云われた町の意気込みを感じます。
午後9時、8台の山車の全役員が交差点中央に集まって、先ず、木遣り節で、本日の終了を唄いあげ、拍子木のさわやかな響きに合わせて、三々七拍子で、初日の山車巡行の無事終了を祝う手締め(137BK 70秒)が終了しました。