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群馬 桐生市

東の西陣 伝統の織り物の"まち" 群馬桐生に、"鉾座 "が誕生!

 本町四丁目の祇園 "鉾"って、どんなもの?

 

 鉾の主な部分の解説を、奈良彰一氏のお話と、あ-とほーる鉾座の解説書を参照して、まとめましたので、クリックしてご覧下さい。

@ 人形A 露台B 破風C 虹梁D 向拝柱
E 舞台欄間F 脇障子G 外欄間H 一本柱I 回転心棒


桐生祇園祭の由来

 関ヶ原の戦いを経て、徳川の治世下になって、大消費地の江戸の発展と共に、江戸との有利な地の利を生かした桐生は、機業技術の革新と進歩で、益々織物業は繁盛し、桐生の町は都市形態も整えられ、次第に産業都市へと発展した。やがて、絹織物では、京都西陣と肩を並べる迄にもなったのです。

  今も日本の各地のどこかで、毎日のように、祭りが行われてます。なかでも"祇園祭り"と名の付くお祭りが多いですね。京都の八坂神社の祭礼で、毎年7月に行われる京都祇園祭りの地方版と云ってもよいかも知れません。心のふるさと、日本人の京都との関わりの深さを感じさせます。

 京都八坂神社の由緒を見ますと、「八坂神社の歴史は、平安建都の約150年前−斉明天皇2年(656)に、スサノヲノミコトの神霊をこの地に祀ったことにはじまります。のちに、神仏習合思想により、スサノヲノミコトは祇園精舎の守護神−牛頭(ごず)天王と一体視されました。日本神話でも知られるように、スサノヲノミコトは、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。八坂神社はながらく、「祇園社」「祇園感神院」などと称しましたが、神仏分離にともなって、明治4年(1871)「八坂神社」と改称しました」 と、解説されております。

 桐生は、江戸時代のはじめより、絹織物を通じ、江戸、京都との間の人と物の往来が頻繁とあり、京や江戸の先進の文物が桐生にもたらされ、商売繁盛と生活文化の向上で生活のゆとりが生じ、住民の関心が物から心の安穏へと移り、祭礼への帰依心の高まりで、祭りの規模が盛大になっていったのは、昔も今も変わりはないと、思います。

 奈良彰一氏の調査によりますと、現在の桐生市本町三丁目の市営住宅の地に衆生院という寺があったそうです。ここに、牛頭(ごず)天王を祀ったのです(従って、衆生院を天王社とも呼称した)。明治になって、本家の京都祇園社が八坂神社と改めたのを期に、祇園社の分社であった衆生院も、八坂神社と改名し、今日に至っております。江戸期を通し、京都の祇園まつりと同様に、桐生でも祇園社の祭礼の"祇園祭り"が行われていたであろうことは、容易に想像できます。
奈良氏は、桐生の祭礼記録では、明暦2年(1656)の祭礼記録が最も古いので、これを桐生祇園の起源とする と、話しておられます。ですから、桐生祇園祭りは350年という永い伝統を持った由緒あるお祭りなのです。

 織物業で活気に充ちた桐生には、商売の市(いち)が立ち、市神(いちがみ)が建てられた。この市神と天王社が一緒に祭りをするようになってから、益々祭りが華やかになり、賑わうようになったのです。安政の頃には、本町一丁から六丁の屋台が建造された。経済力と文化的資質が高かった桐生には、多くの文人達が呼び寄せられ、そして輩出した。そのような土壌や気風が、祇園祭りの鉾や屋台、祇園囃子や神輿、大幟にみられるように彫刻、絵画、書など、素晴らしい祭礼芸術を創造すことになった。


今年、平成12年の桐生祇園祭の予定

 桐生市本町は 壱、弐、三、四、五、六 の6つの丁目に分かれております。現在、各丁目に"屋台"がありますので、屋台が桐生には現在、合計6基あります。屋台以外に "鉾"と呼んでおります山車が、三丁目と四丁目に各1基、計2基あります。

 毎年の祇園祭(天王祭)は、この六丁が順番で、当番町(丁)を勤めます。当番町は屋台を出します。三丁目と四丁目は屋台の外、鉾もあります。

 別表Tは、平成7年以降の当番(天王番とも呼ぶ)丁目の一覧表です。三・四丁目以外は屋台ですが、三・四丁目は、屋台か鉾のどちらかになります。車輪が、屋台と鉾は共通で一組だけですので、屋台と鉾を同時には出せません。
別表のUとVは、その年の屋台、鉾の内容です。平成8年と9年は、祇園祭りはありましたが、当番の五丁目、六丁目は、両年とも都合で屋台が出せなかった。

 今年の平成12年は、天王番の三丁目が鉾を出しますが、鉾座完成記念の四丁目も、特別に鉾を出しますので、2基の鉾が同時に観覧できます。尚、来年が天王番となる四丁目は、今年は"迎え番"といって、翌年の祭りの準備を始めます。

 奈良彰一氏からの情報ですと、平成12年の桐生祇園祭りは、8月4日(金)、
5日(土)、6日(日)
の三日間で、鉾の巡行出発時刻は、午後7時です。

別表T

当番町平成7年平成8年平成9年平成10年平成11年平成12年平成13年
丁目本町四丁目本町五丁目本町六丁目本町一丁目本町弐丁目本町三丁目本町四丁目

別表U

屋台平成7年平成8年平成9年平成10年平成11年平成12年平成13年
丁目・・・・・・・・・・・・本町一丁目本町弐丁目・・・・本町四(予)

別表V

平成7年平成8年平成9年平成10年平成11年平成12年平成13年
丁目本町四丁目・・・・・・・・・・・・・・・・本町三・四・・・・

 平成12年の桐生祇園祭りを観覧して、本町三丁目・四丁目の"鉾"の曳き廻しの様子を、この鉾座見聞録の続きとして、掲載したいと考えてます。
 尚、本ページの内容に関し、別途の情報、疑問やご指摘などがございましたら、何なりと、e-mailにて、ご連絡をお待ちいたしております。尚、作者の住所、電話番号、e-mailのアドレスは、トップページにあります。

 今回の桐生市の"あーとほーる鉾座"見聞録の作成にあたり、桐生市の祇園祭の屋台、鉾の貴重な情報を頂いた奈良彰一氏に、ここで、厚く御礼申し上げます。

 画像向かって左の方が、奈良彰一氏です。鉾の前で。


桐生祇園祭復古への大きな動き!伝統文化伝承バンク登録へ

 9月5日の各紙の群馬版に、「伝統文化伝承バンク登録へのアドバイザー会議」との見出しで、桐生は来月末、文化庁に伝統文化伝承推進事業の計画書を提出するが、提出する前に義務づけられている専門家の意見を聞くため、「伝統文化アドバイザー会議」を4日、桐生有鄰館で開き、文化庁派遣アドバイザーの西角井正大・実践女子大教授など25人が出席した。云々」の記事が載っておりました。伝統文化伝承推進事業は、国指定重要文化財の保存と活用を総合的に国が支援するのが目的で、文化庁が1997年創設したもので、この事業が適用されると、群馬県内では桐生が初めて、国の伝統文化伝承バンクに登録され、国の財政支援が受けられるのだそうです。早速、奈良さんへ電話をして見ましたら、その会議に奈良さんも出席しておりました。鉾座で見ました「からくり人形芝居」と「桐生祇園まつりの鉾と屋台」の関係者が集まったそうです。

  これより先の8月のはじめに、桐生の奈良さんから、便りがありまして、現在、「桐生八木節まつり」に併合されてしまっております桐生祇園祭りを独立した別の日に開催する運動をしておるとのことでした。この奈良さんの動きを地元新聞の桐生タイムスが取り上げて、「わたしの祭り観」のタイトルで、奈良さんのインタビュー記事が載っておりました。桐生の祇園祭りが八木節まつりと合同開催となったのには、過去にそれなりの事情があってのことでしょうが、伝統ある桐生の祇園祭りは、江戸・京都と肩を並べた先進の文化を享受していた桐生の姿を今に伝える芸術的価値の優れた鉾と屋台が現存しておりますことからして、京都の祇園祭りの地方版として、歴史的意義を持つ立派な祭礼として、後世に是非、残したいと、切に願うものですと、奈良さんにご返事を書いたのです。 奈良さんの主張の狙いは、栄光ある桐生の祇園祭りの認識が、このままだと将来、消滅してしまういう危惧の念を強く奈良さんが抱かれておるからだと、思います。単独の祇園まつりについては、それぞれの立場でいろいろと慎重論があるのでしょうが、文化財としての国のおしみ付きがあれば、見直しの機運も高まって、祇園まつり単独開催に市民の総意が傾いてくることも充分期待できるのではないでしょうか。

 この「伝統文化伝承バンク登録へのアドバイザー会議」開催のニュースは、奈良さんの主張への力強い追い風になることでしょうし、我々山車まつりフアンにとってもほんとうに嬉しいニユースです。

 7月28日の桐生タイムスに掲載された奈良彰一氏のインタビュー記事「わたしの祭り観・ごった煮は美しくない」の内容をそのまま、転載します。

----地域固有の伝統を再認識する機運が高まる中、奈良さんは桐生祇園祭りを八木節まつりから独立させるべきと主張されています。"祇園復権"でまつりは変わりますか----  祇園関係者として、いまの「統合まつり」の形が伝統のまつりであると勘違いされるのは非常に困る。もはや祇園は「八木節まつり」から分離、というより、まつり全体を改めて整理・再編する時代にきている。

 たしかに、祇園と八木節と七夕と商工祭を統合した昭和39年当時には時代的な意義があり、勇気ある決断だったろう。その当時と現代とで、どこがどう違ってきたのか、どうすれば地元の人も来街者も楽しめるまつりになるのか、もう一度議論する必要が出てきたのではないでしょうか。 私自身、以前は祭りとなれば八木節を踊っていましたよ。でも祇園を研究し始めて、これはおかしいぞと気づきはじめた。文化祭じゃないんだから、歴史も形式も内容も異なるまつりが「ごった煮」になっては、それぞれのまつりの良さを互いに打ち消し合ってしまう。統一感のないまつりは美しくないわけです。

 市外の観光客からも、同じ日に八木節の囃しと祇園囃子が同時に鳴っているのではわけが分からないという声を聞く。「桐生市最大の観光イベント」を標榜するのなら、この状況は客に対して不親切ではないか。そういう誤解を解くためにも「独立論」を唱えるんです。そもそも八木節は既にメジャーな存在。私なら「八木節フェスティバル」とかにして、八木節なら桐生という認識を全国に広めたい。そういう全国区のイベントには大スポンサーもつきやすいだろう。そうなればますます、祇園と "同居"できるはずがないじゃないですか。

 桐生祇園には、関東随一の「巨大屋台」と「鉾」があり、全国の伝統祭礼の関係者が注目しているんです。とはいえ本町四丁目で平成元年に屋台を出したころはそれほど関心をもたれなかった。それが平成7年に104年ぶりに巡行したとき、あれほど多くの人々に感動してもらい、一昨年の一丁目と昨年の二丁目が屋台を復活させると、マスコミをはじめ多くの目が祇園に向いてきた。それは何故なのか、まつり執行部はもっと考えて欲しい。

 具体的には、一、二週間ずらして祇園と八木節をやったほうがいい。問題は経費だが、八木節まつりの中で唯一公式行事として残っている「みこし渡御」が最も宗教的な行事なんだから、「宗教行事に補助金は出せない」とする市の姿勢はすでに矛盾している。むしろ宗教色の薄い「つけ祭り」としての鉾や屋台に対してのほうが、補助金は出しやすいのではないか。登山でも「撤退する勇気」が必要なように、まつり本来の美しさを取り戻すためにも、もっと議論を深めるべきだ。(奈良書店経営、53歳、宮本町二丁目在住)


2基の鉾、並び立つ 初の曳き違い"快挙"に、本町通りにどよめき

 ページ作者は8月5、6日の両日とも自分の住む市制施行100周年記念の「高崎まつり」に参加していた為に、残念ながら桐生へは行けませんでした。桐生3、4丁目の鉾の同時曳行は100余年ぶりとのことと、奈良さんから伺っていたので、見られなかったのは本当に残念でした。
 奈良さんからお送り頂いた8月7日の桐生タイムスには「百二十五年の"夢"、ここにかなう・・」との書き出しにつづいて、次のにように、6日の鉾の巡行での曳き違いの様子を報道しておりますので、そのままの内容を転載させて頂きました。読みますと「翁鉾(おきなぼこ)」と、「四丁目鉾」の2基の鉾の出会いの様子が眼の前に浮かんでくる思いが致します。

 第37回桐生八木節まつり最終日の六日、桐生祇園祭に伝わる本町三丁目町会の「翁鉾(おきなぼこ)」と、四丁目町会の「四丁目鉾」の史上初となる曳き違いが行われた。当初予定の5日が雨で順延されたこの日、舞台となった三丁目市営住宅前の本町通りは大群衆で埋め尽くされ、往年の桐生の栄華を象徴する2基の鉾が並び立つ "歴史的快挙" の瞬間には地鳴りの様な どよめき が湧き起こった。20世紀最後の夏、祇園復古の大きな波のうねりは一つのクライマックスに達した。

 十二年ぶりのお披露目となった翁鉾は1862年(文久2年)製、5年ぶりに巡行した四丁目鉾は1875年(明治8年)製で、そろい踏みするのは、1895年(明治28年)以来実に105年ぶり。曳き違いについては祇園祭の記録にないということから、現存するこの2基が完成して以来、125年の時を経て、初めて曳き違ったことになる。

 翁鉾には桐生祇園お囃子連が、四丁目鉾には地元共愛子供会出身のお囃子連が乗り、午後7時過ぎにそれぞれの町内を出発。四丁目鉾が三丁目に入ると群衆が拍手で迎え、2町会の祭典三役が正対。四丁目の坂入良一会長が「当町の鉾は有史以来初めて、本年の天王番の三丁目に表敬し、御旅所へお参りさせていただきます」などと口上を述べ、三丁目の戸田悦誠町会長が了解した。

 三丁目が囃しの叩き合いに勝ったという設定で、四丁目が囃しを中断。そして翁鉾が「八ッ社」を奏でながら午後7時38分、四丁目の左側を通過していった。その瞬間、劇場と化した通りは「オーッ」という大歓声と拍手喝采に包まれた。

「涙が出た」
 通りを埋めた観衆は「これぞ桐生」の感慨に心震わせてた。仲町一丁目の金子愛子さん(55)は「血が騒いだ。元気だった桐生を彷彿とされてくれた」。宮本町の女性(44)は「涙が出た。これぞまつり。最高の財産を市で守ってほしい。反対する人はいないと思う」。錦町二丁目の坪野茂さん(77)は「惣六丁の屋台を一度に全部出そう。桐生の景気も戻るよ」。なかには「全国制覇した桐一の選手を出迎えたときの桐生駅前みたい」と異様なほどの人波に驚く人も。

 一大行事を無事に終え、三丁目行司の山田柳太郎さんは「感無量です。まつりをやってて本当によかった」。四丁目行司の藤江篤さんは「夢だったんです。曳き違う瞬間、思わず涙が出ちゃいました」。祭典を取り仕切った二人の行司は千秋楽の挨拶でしっかり握手し、祭典の"魂"を来年に引き継いだ。21世紀の幕開け、市制80周年を迎える来年の当番町は、祇園復古の先鞭をつけた四丁目に回ってくる。

 この画像は、8月7日の桐生タイムスの一面記事に掲載された2基の鉾の曳き違いの場面の画像です。桐生タイムスさんより提供です。ご協力に感謝します。画像手前後ろ姿は翁鉾、奥のこちら向きが四丁目鉾。 



桐生三丁目の翁鉾。鉾の一層、二層とも四方幕で、
お囃子は幕内。画像は 桐生市 峰岸喜久枝氏より提供。

常設展示の「あーとほーる鉾座」から、
外へ曳き出された本町「四丁目鉾」。
画像は 桐生市 峰岸喜久枝氏より提供。

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