Sory,Japanese only.


このページでは、Real Audio プレイヤー3.0で、実際のお囃子を聴いて頂きます。プレイヤーをお持ちでない方は、このバナーをクリックして下さい。

群馬 高崎市

"高崎まつり"

8月1日(土)、2日(日)


 高崎市は、関東平野の西北部に位置し、昔も、今も江戸、東京から中部、北陸方面への交通の中継地になっており、その賑わいは江戸時代に「お江戸みたけりゃ高崎田町」といわれた程で、北関東で1、2位を誇る商業都市として、発展して来ております。

 文字通りの拙作で恐縮ですが、このホームページの作者が生まれ、育った町ですので、高崎の紹介を若干、させて下さい。

 この春、新市庁舎がオープンしました。人口24万人の地方都市しては、少し"デカ過ぎないの"と、陰口も耳にしたほどのモダンな21階建ての庁舎です。今、建設中の県庁新庁舎が竣工するまでは、県内で一番"のっぽ"の建物です。

 関越、上信越の高速自動車道、上越新幹線と長野行き新幹線にJRの従来線が3線、私鉄が1線と交通手段の揃った交通の要所で、京浜の太平洋側、新潟や北陸の日本海側への両方面へ等距離で結ばれてます。昨今は、大都会を離れ、地方のローカルな環境で生活したいと考える人達が増えて、朝の新幹線は上り京浜方面の通勤客で常に満席です。

 高崎は、山間部から離れた平野部になりますので、冬季、日本海を渡って来た大陸の冷たい風は、上信越の山間部に雪を降らせた後、冷たい乾いた空っ風(からっかぜ)となって平野部へドット吹き降りてきて、郊外の田畑の砂を巻き上げ、黄塵が空を覆うこともあります。強い空っ風の吹く時は、必ず晴天ですが、気温が下がり、大変寒くなります。ですが、ここ数年は暖冬です。

 冬期は、快晴が続き、雪は殆ど降りません。でも、初春の3月頃、太平洋岸に低気圧が発生すると、東京周辺と一緒に雪が降りますが、これは里雪といって、春近しのシグナルで、子供は喜んで雪ダルマを作ったりします。しかし、今年の春は桜が満開の時に里雪がたくさん降って、驚きましたが、春から異常気象続きなんですね。

 しかし、晴天が続く冬日は、野外の仕事には好都合で、昔から畑仕事や養蚕などで、夏冬問わず一年中、外で良く働くご婦人の内助の功が目立って、"かかぁ殿下と空っ風"といわれておりましたが、昨今は様子が少し違ってきましたかな。

 また反対に、太平洋高気圧が張り出す夏の内陸性の蒸し暑さは、時にはサウナ並のこともあります。でも、この年間の季節の寒暖の差の厳しいことで、却って、生活にメリハリが出て、好いことだと、私は思ってます。冬のスキーやスノボー、新緑や紅葉時の散策、上信越の山や尾瀬の登山、一足の近かさで温泉が無数、東京も近く、老若問わず誰でもが楽しめる住み易い所です。

 冬の空っ風の強さを象徴してますのが、新市庁舎の構造です。この強い風の通り抜けがし易いように、風の通り道の北から南の方向へ市庁舎を長く伸ばして、風がぶつかる建物の面を極端に薄くした細長い楕円形になってます。各階の平面図を見ると、大きな船の形を思わせる珍しい構造です。
 これだら、市役所へ出入りする市民が、強いビル風に悩まされることはないでしょう。

 今年の高崎まつりのセレモニーは、お披露目も兼ねて、この新庁舎の玄関前で実施されました。



 高崎まつりの由来

  高崎の祭礼ですが、明治維新前迄は高崎藩の城主の菩提寺の頼政神社(現存してます)の祭礼として、城主の肝いりで、町民参加の賑やかな祭りが行われたいたそうです。明治になってからは、廃藩で頼政神社の祭礼は廃れてしまったのですが、江戸型山車が各町内で作られ、主に正月の道祖神(どうそじん)まつりなどで、町中を曳行されていたそうです。

 高崎は交通の要所でもあったので、商人の活躍があって、自町の山車をより豪華にする風潮もあって、また路面電車や電線の出現で、山車を小型に作り直す必要もあったりして、大正期を中心に昭和初期に掛けて、各町の山車が次々と作られました。それが、現在の総数36台の山車となって、今に引き継がれています。

 昭和20年の敗戦後、商店街の復興を 願って、八坂神社(現、高崎神社)の高崎祇園商業祭が昭和30年代まで行われていましたが、暫くしてこの祇園祭は立ち消えしてしまいました。その後は、高崎市には中心的な祭礼が無く、正月の道祖神祭りの時、客寄せに商店街の山車が出される位でした。しかし、市制実施記念の年には各町の山車が一斉に曳行されました。でも、市制記念ですから5年とか、10年のサイクルでしかなく、その間は、多くの山車がでる祭りはなっかたのです。

 高度成長の時代になって、市民の生活にもゆとりが出て、また市役所も市の商工業の振興を叫ぶようになって、祭りを毎年やってみようという総意が整って、昭和50年(1975年)市制75周年記念 祭りから、「高崎ふるさと祭り」と祭りの呼称を決めて、毎年8月の中旬の土、日の2日間(第6回から、第一の土、日)とし、市民総参加の手づくりの祭りがスタートしました。昭和60年の第11回祭りから、名称が「高崎まつり」と変更されました。

 従って、これまで山車見聞録で御紹介しました日本各地の山車まつりには、針綱神社、神前神社、八坂神社などと、例えそれが名目的だけでも祭礼の拠り所があるのですが、高崎の場合は、神様抜きの祭礼と申し上げた方が正しいです。ですから、祭り初日に神社境内に集合した山車が神殿前で山車囃子の奉納をしたり、旅所へ出掛ける祭神が乗った神輿に随行するなんてことはありません。その代わりに、市役所前でのセレモニーが賑やかに挙行されるのです。 

 宗教色の無い地域イベント型 の祭りだからこその、さながら文化祭や運動会の開会式を思い起こさせる、底抜けに明 るいセレモニーに、毎年なります。

 駅前から、市役所迄の
オープニング パレード

 祭り初日の昼過ぎ、晴天の高崎の夏空に"ド、ど〜ん!" と、花火が数発鳴りました。午後一時からの祭りパレードスタートの合図です。普段の日に昼間あがる花火は、高崎競馬開催中の知らせですがね(^o^) 。今年のオープニングセレモニーは、市役所新庁舎の玄関前に設置されたステージで行われました。近くに階段式のチャンとしたセレモニー会場があり、臨時ステージも要らないのに、敢えて市役所玄関前で祭り開催セレモニーを行うのは、新庁舎のお披露目の意味もあってのことでしょう。

画像をクリックしますと拡大します。ブラウザーの←で、お戻り下さい。

 





 駅前通り(ワシントンホテル前、このホテルの前の歩道に高崎の山車の絵が貼ってあります)から、市役所前まで市長や来賓、祭り実行委員が先頭になってのパレードです。

 練達した豪快な頼政太鼓の響きに迎えられてパレード隊がセレモニーが行われる市役所前に到着しました。市長からのお祭り開催の挨拶(50BK 25秒)、来賓の祝辞が始まると、祭りと云うより運動会かと錯覚します(^o^)。

 地方都市の祭りの一つやり方で、「高崎方式」と呼ばれるのは、一枚百円のワッペンを市民に買って貰って、市中の会社企業からの提供品で、空くじなしの大福引き大会が行われてます。

 今は、¥100ショップでも、え!これが百円!と思うものが買える時代ですから、ポケットティシュ 1個では文句が出ましょうから、第一回の高崎まつり(当初は高崎ふるさと祭り)から今回迄、ずっとこの福引き大会が続いております秘訣は、賞品調達が上手なのだなと勝手に想像してます。

 24回迄のワッペンの旗、24本が吹奏楽団の演奏の中、ステージ前に並ぶと、セレモニーも最高潮です。今年のワッペンをデザインした草野麻衣さんという中学三年生の女の子へ、市長から入賞のお祝い品の贈呈です。祭り実行委員長からのお祭り開会宣言で、さぁっ!高崎まつりの開始だ!頑張ろう!(^o^)

 
"そ〜れ!"みこしだ!ワッショイ!わっしょい!

 








 

 パレードが行われた駅前通りは、既に掛け声と歓声の中で、企業みこし、子供みこしが、盛り上がってました。普段はデスクワークや機械仕事のベテランさん達が、なれない御神輿担ぎで戸惑いもあったでしょうが、気合いが入った掛け声と、軽やかな足並みは見事なものでした。もう全く定着した感じなのが、御輿に乗る元気な娘さん達の姿です。

 胸に巻いた白の晒しも凛々しく、手にする扇子を振って足元の殿御を"もっとやれ!、もっとやれ!"と煽る美形の姿態を、上目で仰ぐ殿方達の眼は血走しり、飛散する汗と、打ち掛けられる水で全身をびしょ濡れにして、前後左右に摺り足でもみ合う殿方の姿は、見ていても大変愉快で興奮します。でも、あれほど活躍すれば、2、3日は腰が立たぬのでは、と余分な心配をしてしまいました (^o^) 。

 みこしコンクールの審査員には、一般市民も参加して、歩道の天幕の中で次々と目の前で、跳躍を繰り広げる御輿の採点に忙しそうでした。駅前通りの地元ローカル放送のFM高崎のスタジオから、目の前のみこしコンクールの実況が、通りに据え付けられたスピーカーから大きな声で流され、いやが上にも祭りの雰囲気を掻き立てておりました。祭りも情報メディアの世界にじゃんじゃんと取り入れられ、変化して行くのでしょう。モバイル通信機器で祭り現場から、即、インターネット公開なんてことは、時間の問題でしょうね。

 続きを、下の"次ぎへ"をクリックして御覧下さい。


次ぎへ
このページの頭へ戻る
"山車の見聞録"へ戻る
トップページへ戻る