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平成29年8月5日(土)、6日(日) 第43回 "高崎山車まつり" です!
市制施行100周年記念のシンボルとキャラクター 左:市民公募キャラクター入選作「だるまるくん」 高橋こずえさん(中尾町)作。特産品「高崎だるま」をベースに、未来にはばたく天使の翼や100周年をあらわした「100」が描かれている。
右:市制100周年事業の理念、テーマをもとに、シンボルマークを制定。二つの円は100年の単位「00」と「共生」、そして新しい生命の誕生を。上方へ向かって拡がる年輪は、未来に向かって元気よく躍進することを表しています。デザイン 大木紀元氏 (高崎市発行、たかさき広報より抜粋)。

 この"市制施行100周年高崎まつり見聞録"は、前半で市制施行後100年を経過した今の高崎市の街並みの様子を紹介します。外観の美観に囚われるのではありませんが、地方の中堅都市の発展した証として、快適な市民生活が楽しめる街造りを目指して取り組んでこられた、多くの高崎市民の努力の成果の一端をご披露したいとの想いからです。

 今の高崎市の街並みの様子をご紹介することは、西暦1900年(明治33年)の高崎市の誕生から、この100年の間に、高崎市の発展の為に、いろいろと尽くしてくれた先人、諸先輩のご努力に深甚より感謝し、お報いすることになると、私は考えたからです。この地で生を受けてより今日まで、地元高崎市から数々のお世話を受けて、生活してこられたことへの私の感謝の気持ちを表現したかったからです。

 高崎市で生活し、他所へお移りなられた方々、高崎の学校で学んだ後、大学生や、社会人として、全国に散らっばって勉学や仕事に、元気で活躍されておられる方々に、市制後100年経った今の高崎の様子をご覧になって頂き、高崎を想い起こされるキッカケになればと、思っております。この一年に行われる数々の祝祭行事を取材して、この市制施行後 100歳となった"我が愛する街(まち)" 高崎を紹介します。

 祝祭行事の中心となる今年の「高崎まつり」は大規模になります。山車38台、神輿100基の出場も予定されてます。

 その模様は、逐次 この「100周年記念高崎まつり見聞録」でご紹介します。

わぁ〜、すごい眺め!市制100周年を迎えた高崎市中心街の航空写真

撮影 平成11年7月
画像提供 東京建物不動産販売株式会社   

 国道354号の本町付近の上空あたりから、南方面を俯瞰した画像です。画像右下端の木立の所のビルが高崎郵便局、その上が高松中学校、その上がJT日本たばこ、地域医療センターと続き、その上の丸い屋根が高崎シティギャラリー、画像手前に戻って、道路を隔てて高崎郵便局の反対側は姉妹公園で、ビルの上にマイクロウエーブのアンテナ塔があるビルがNTT東日本、亀の形に見える広場が「もてなし広場」、その上が群馬音楽センターで、後ろの高層ビルが市役所です。画像中央の縦につながる木立は、旧高崎城の濠(市民は"お掘り"と呼ぶ)の淵のソメイヨシノの桜並木です。並木の右側から川迄の区域一帯が高崎城址です。川は烏(からす)川で、川に平行した直ぐ脇に国道17号が走ります。右上奥の丘陵が高崎観音山です。手前の橋が聖石橋、奥(下流)の橋が城南大橋です。画像の左の天蓋のある道路が中央銀座通りで、その道のずっと先に城南野球場が見えます。

 市制施行100周年を迎えた高崎市の都市景観を記録に残したい との一存で、この画像の所有者である東京建物不動産販売株式会社さんへ画像の提供のお願いを致したところ、即、高崎市の市制施行100周年記念のお祝いとして提供しましょう との快諾がございました。個人では撮影できない貴重な航空写真です。高崎市民のひとりとして、東京建物さんのご厚意に感謝申し上げます。

1世紀年前の市制施行への動き Java Script で、ご覧頂きます
市制施行100周年奉祝の西暦2000年を迎えて、高崎市長のご挨拶

 新ミレミアムのスタートの西暦2000年が、高崎市制が施行されて100周年という記念すべき節目の年となるとは、一世紀前に、市制施行実現にご尽力下さった当時の為政者、諸先輩のご賢察とご努力に、心から感謝と拍手をお送りします。唯単なる巡り合わせとだけでは思えない、100年後を予想した粋な取り計らいがあったと思うと、高崎に住む幸せを感じます。松浦高崎市長は、2000年の年頭の挨拶で、次の様に述べております。

「私たちのまち高崎市は、20世紀が開かれようとしていた1900年(明治33年)に市制を施行し、近代都市としての歩みをスタートさせました。以来百年間、『人・もの・情報・文化の行き交う交流都市』として、着実に発展してまいりました」 「世界に開かれた地球市民の都市(まち)としていくために、これまでの百年を振り返り、私たちのまちの歴史や先人の偉業を再認識し、新しい高崎を想像するための出発点と考えています。『未来・げんき・高崎100年』をテーマに多彩な記念行事を展開し、まさに高崎のまち全体が『地球市民』のステージとなる一年間となります。24万市民をはじめ、高崎にゆかりのある全ての人々が高崎に集い、百周年事業に参加し、さまざまな発見、出会い、交流をすることにより、新しい高崎の風と光を生み出していければと願っています。そして、女性が安心して子供を産み育てられ、お年寄りがいつまでも元気で暮らせるまちづくりを目指し、子供達の未来に、常に夢と希望の持てる高崎を引き継いでいくため、全力を注いでまいります。高崎広報2k/1/1号より」

 最後の子供の未来や年寄りの暮らしに触れられたことがら(赤文字)は、市政の重点施策として、強力に推進下さる様、お願いします。準年寄りの作者からも、重ねてお願いします(^_^)。

「たかさき100年」の歩みは、どんなものだったのか・・・。

 高崎市が発行してます刊行物のひとつに、毎月1日と15日の2回発行される高崎広報があります。市制施行以降の高崎がどんな過程を経て、今に至ったかの、そんな高崎の歴史を紹介する「たかさき100年」の連載が、平成8年(1996年)11月15日号の高崎広報から始まり、既に、2000年1月1日号で76回目になってます。作者も、毎号の背表紙面の連載を、内容によっては幼かった頃の自分を思い出しながら、楽しく読んでおりました。高崎市民であれば、こどもも、おとなも知って置くべきものばかりですが、市民以外の方々には、よその都市(まち)ことですので、ここでの紹介は致しませんが、もし、どんな内容かご覧なりたい方は、高崎市のホームページの「たかさき100年」をクリック下さい。しかし、この100年間の高崎の歴史の中で、作者の私にとって、一番印象深いのは、"群響"の存在であり、その群響の生誕を紹介した映画"ここに泉あり"の存在でした。沸き上がる歓喜の合唱で迎えた映画のエンディングの情景が、ニキビはなやかな15歳の中3生であった当時の私の胸に強烈に迫って来たのを今でも、はっきり思い出します。私の人生で、感動というものを知った、初めての経験でした。日本中の皆様に、我がまち、高崎のことは全てお知らせしたいのですが、それは叶わぬこと。ですが、この群馬交響楽団の存在だけは、どうしても、皆さんに知って置いて欲しいなぁ、との私の願いで、広報の「たかさき100年」の中の出来事のベスト1位に推薦します。広報の内容をそのまま、ここに掲載し、皆様に、高崎の歴史とひとつとして、記憶に留めて頂けたら、高崎一市民の私として、大変嬉しく思います。

  • 市民オーケストラと映画"ここに泉あり"

     昭和20年(1945年)11月、敗戦直後の荒廃した世相のなかで高崎市民オーケストラが誕生しました。戦前から音楽活動をしていた丸山勝広が中心となり、戦後の荒んだ 心を音楽で癒し、生活に潤いのある文化国家を目指して結成され、井上房一郎(白衣観音像を造った井上安三郎の息子)が会長になりました。指揮者には、井上の仲人・画家有島生馬の甥、山本直忠を招きました。直忠の長男の直純は当時12歳でした。練習場は、東小学校の正門脇の消防団の二階でした。昭和21年3月10日、第一回定期演奏会を市立女学校の講堂で開催。18人の楽員によるモーツアルトのセレナーデの演奏や原智恵子のピアノ独奏・大谷洌子(きよこ)のソプラノ独唱などでした。群馬会館での第2回定期演奏会の前橋公演から、「群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)と改称した。昭和22年に本格的活動を目指してプロの交響楽団になりましたが、経営は困難でした。音楽の普及と資金確保の為、「移動音楽教室」を始めました。「オーケストラって、何ですか」と問われる中で、丸山は協力校を求めて奔走しました。「移動音楽教室」では、当時大学生であった小沢征璽もしばしば指揮をとりました。

     昭和27年、高崎出身の映画プロデューサー市川喜一が群響の苦悩と情熱の活動に着目して映画化を企画、丸山の手記をもとに水木洋子が脚本を執筆し、映画「ここに泉あり」が製作されました。監督は今井 正、音楽は団伊玖磨、出演は岸 恵子、小林桂樹、岡田英次、加藤大介らでした。独立プロの為、制作費はわずかで、「お弁当はおにぎり2個に沢庵二切れの切なさ」と、岸は回想しています。市民の積極的な協力により、映画は昭和30年2月に封切られ、全国で3百万人を超える観客に感動を与え、群響発展の大きなきっかけとなりました。昭和34年、「旅する楽団」として、小学校六年の国語教科書で扱われ、高崎は「音楽のあるまち」として、知られるようになりました。(広報たかさき NO.1010号より)

  • 群馬音楽センター

     昭和31年(1956年)6月、群馬フィルハーモニーオーケストラ(群馬交響楽団)の音楽活動が注目され、全国で初めて群馬県が「音楽モデル県」として文部省から指定されました。これを期に「高崎に音楽センターを」の動きが高まり、直ちに高崎青年会議所が「音楽センター設立促進大会」を主催しました。翌年四月に、音楽センター建設促進委員会事務局を開設、12月には住谷市長を委員長とする「音楽センター建設委員会」が結成され、行政・市民一体となった建設運動が展開されました。昭和34年市議会で、2億5,900万円の音楽センター建設案が可決されました。市財政が苦しく寄付金1億円を募り、うち3,000万円市内一世帯平均約1,200円の募金によることとしました。

     建設場所は、高松町の旧兵舎を転用した引揚者住宅高松寮の跡地に決定、設計は群響初代会長に就任した井上房一郎と親交のあったアントニン・レーモンドに依頼しました。レーモンドはチェコ生まれの建築家で、大正8年旧帝国ホテル建設のため、アメリカの建築家ライトとともに来日、戦前戦後の44年間を日本で活躍しました。設計にあたって、寄付をした市民の意志を尊重して末永く利用される施設であること、城址という環境と共生すること、音楽のほか演劇や集会など多彩な催しに対応できることなどを考慮、設計変更を2回行い、心血を注いだ斬新な力作でした。昭和34年9月に着工し、36年(1961年)7月最終的総工費3億3,500万円で竣工しました。1961年を記念して、1960の座席と1つのステージとしました。画像をクリックしますと、拡大します。

     昭和36年7月18日、市制施行60周年、水道建設50周年と併せて、音楽センター落成式典が盛大に行われました。特に、7月20日から6日間、市内全世帯から一人づつ約3万人を招待し、高崎出身の花柳徳兵衛の舞踊団や貝谷八百子バレー団の公演を開催しました。音楽センター前にある碑「時の市民之を建つ」から、音楽を愛し地方文化の振興を願った当時の人々の熱い思いが忍ばれます。(広報たかさき NO.1019号より)

  • 群響を扱ったHP

    @財団法人群馬交響楽団

    A「群馬交響楽団の演奏を聴いて (〜99.11.20)定期演奏会レポート」 高崎在住の大塚道明氏のHP

    B高関 健  群響音楽監督のプロフィール   

 市制施行100周年の祝う行事に積極的に参加し、活力のある高崎を、ひとりでも、多くの人達にお伝えすることを目的にして、今年の数々の奉祝イベントのなかから、お祭りや伝統芸能に関するもの中心にした新情報を、「市制100周年高崎まつり山車見聞録」として、随時追加発信していきたいと思ってますので、今後もどうか、このページを覗きに来て下さい。

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