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改札口を出て、駅のプロムナードを西口方向に真っ直ぐ進むとペデストレニアンデッキに出ます。正面に市役所のビルが見えます。デッキの階段で地面に降りますと、市役所を背にした駅前通りなります。山車が道路に並び始めてます。
| 東二条通りの近畿日本ツーリスト前に待機していた東地区の山車は、14時に駅前通りに入り、道路右側に山車が並び始めてます。同様に東二条通りのワシントンホテル前に待機していた南地区の山車も駅前通りに入り、道路左側に並び始めました。
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ワシントンホテル角から、石原町下一を先頭に石原町の4丁の4基の山車に続き、南地区の山車が並びます。
| 駅前通りの近畿日本ツーリスト角から高砂町の山車をトップに東地区の山車が並びます。
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南町の山車人形の官公は東京神田の山車鉄と呼ばれた山本鉄五郎の作と云われてます。
| 東地区6番目の北通町の山車人形は新田義貞で、刀剣を海に投げ入れる有名な場面を現しております。
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左端の山車は管理者の住む町の成田町です。高崎の山車の中でも小振りです。勾欄や欄間、向拝柱、唐破風屋根と鬼板・懸魚は彫刻をしたままの白地で、ニス塗りです。飾り金具も無い地味な山車ですが、山車人形は本庄市の米福久の作の素盞鳴尊で、山車とともに町民には愛されてます。
| 右端の山車は連雀町です。連雀町は隔年の山車出場を3回休んでました。理由は市街地の真ん中の町で夜間人口が極端に少なく、囃子衆や引き手衆が集まらず、山車の存続が危ぶまれましたが、町の有力者が一念発起して出場に漕ぎ着けました。山車倉も同時に今年、建て直しました。
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北地区と中央地区の山車は市役所寄りの田町通りを使って、駅前通りから集結式が行われる「もてなし広場」へと巡行を開始しました。駅前通りから撤収では、北地区の巡行隊列の順番では本来は一番最後の本町三丁目が先頭になって巡行しましたので、末広町の次に成田町が続いてます。
| 東地区と南地区の山車は駅寄りの東二条通りを使って、駅前通りから集結式が行われる「もてなし広場」へと巡行を開始しました。東地区は正規の巡行順番に従って、高砂町が先頭になって、巡行を開始しました。南地区も東地区と同様に、正規の巡行順番の石原町下一が先頭でした。
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