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祝! 西暦2010年は、高崎の市制施行110周年なんです!
 平成22年 8月7日(土)、8日(日)"高崎山車まつり"


次に掲載しました祭りポスターと、山車を出場させる町名(山車町)、駅前通りの集合、もてない広場での集結式の山車の配置図はともに、7月15日号の「広報高崎」と一緒に市民各戸へ配布された高崎まつりのリーフレットから複写しました。


わぁ〜壮観な眺めだぁ〜! 山車が整然と並びました!

38基の山車の一斉整列は「高崎山車まつり」初日の7日(土)に、JR高崎駅西口の駅前通りで実施されました。昭和20年から始まったわが国の戦後復興の中で、高崎市も駅前通りの拡張と路線の変更を進め、駅前通りが今の様に車道は片側2車線で、電柱電線の地中化で歩道も倍の広さになったのも昨年のことでした。西口駅前で、駅前通りと交差する東二条通りも拡幅されて、バスや車の迂回が可能になったことで、駅前通りに多くの山車が整列できる様になったのです。

時間を区切ったとは云え、山車の巡行と整列の為に駅前通りを全面交通止めにしたのは今回が初めてです。そして、14時から16時の僅か2時間の中で、38基もの山車が駅前通りに入り、整列後に撤収するということが守れたのは、事前検討を重ね、入りと撤収を東地区と南地区が駅寄りの東二条通りを使い、北地区と中央地区が市役所寄りの田町通りを使うという様に山車を分散させたことが混雑を防ぎ、スムースな山車の整列と撤収が出来たのです。


「高崎まつり」の引き立て役はやはり山車です。高崎の市街地で、田町、本町、石原町などは丁目毎に複数の山車を所持しますので、総数で38基の山車が動きます。北地区と中央地区、東地区と南地区の2班に別れて、隔年の輪番制で「高崎山車まつり」として、「高崎まつり」に参加してます。平成22年の今年は市制施行100周年だった10年前と同様に、総数全ての山車を出場させて、「高崎まつり」を盛り上げました。

下図をクリックしますと、縮小された図が出ます。その図にマウスを当てますと、マウスポイントが丸+に変わりますので、もう一度クリックしますと、最初の図の2倍の図に拡大されますので、小文字が読み易くなります。戻る時はマウスポイントが丸−になりますから、クリックして下さい。最後は左上の←で元の画面に戻ります。



わぁ〜凄い!駅前に38基もの山車が整然と並びました!
画像をクリックしますと、拡大します。左上の←で元の画面に戻ります。

改札口を出て、駅のプロムナードを西口方向に真っ直ぐ進むとペデストレニアンデッキに出ます。正面に市役所のビルが見えます。デッキの階段で地面に降りますと、市役所を背にした駅前通りなります。山車が道路に並び始めてます。

 東二条通りの近畿日本ツーリスト前に待機していた東地区の山車は、14時に駅前通りに入り、道路右側に山車が並び始めてます。同様に東二条通りのワシントンホテル前に待機していた南地区の山車も駅前通りに入り、道路左側に並び始めました。

ワシントンホテル角から、石原町下一を先頭に石原町の4丁の4基の山車に続き、南地区の山車が並びます。

駅前通りの近畿日本ツーリスト角から高砂町の山車をトップに東地区の山車が並びます。

南町の山車人形の官公は東京神田の山車鉄と呼ばれた山本鉄五郎の作と云われてます。

東地区6番目の北通町の山車人形は新田義貞で、刀剣を海に投げ入れる有名な場面を現しております。

左端の山車は管理者の住む町の成田町です。高崎の山車の中でも小振りです。勾欄や欄間、向拝柱、唐破風屋根と鬼板・懸魚は彫刻をしたままの白地で、ニス塗りです。飾り金具も無い地味な山車ですが、山車人形は本庄市の米福久の作の素盞鳴尊で、山車とともに町民には愛されてます。

右端の山車は連雀町です。連雀町は隔年の山車出場を3回休んでました。理由は市街地の真ん中の町で夜間人口が極端に少なく、囃子衆や引き手衆が集まらず、山車の存続が危ぶまれましたが、町の有力者が一念発起して出場に漕ぎ着けました。山車倉も同時に今年、建て直しました。

北地区と中央地区の山車は市役所寄りの田町通りを使って、駅前通りから集結式が行われる「もてなし広場」へと巡行を開始しました。駅前通りから撤収では、北地区の巡行隊列の順番では本来は一番最後の本町三丁目が先頭になって巡行しましたので、末広町の次に成田町が続いてます。

東地区と南地区の山車は駅寄りの東二条通りを使って、駅前通りから集結式が行われる「もてなし広場」へと巡行を開始しました。東地区は正規の巡行順番に従って、高砂町が先頭になって、巡行を開始しました。南地区も東地区と同様に、正規の巡行順番の石原町下一が先頭でした。



 <お知らせです!>

 ご覧頂きましたこの「高崎山車まつり」の高崎西口駅前通りの山車の静止画像の10枚は、高崎市石原町にお住まいの鈴木 晃氏から、ご提供頂いた画像です。
わぁ〜壮観だぁ!38基もの山車が広場に整然と並んだ!

38基の山車の集結式は「高崎山車まつり」初日の7日(土)に、音楽センター前の「もてなし広場」で実施されました。

次表の高崎山車まつり出場町名の、@並榎町、A住吉町 と、町名を順次をクリックしますと、山車の画像と解説のページにリンクします。出場38基の山車の由緒をご覧になって下さい。リンクした山車解説のページの左上隅の←をクリックして、本ページにお戻り下さい。    <お願いですが、リンクしました山車解説のページの下の欄外の「戻る」と表示されている4個のアイコンは、全て無視して、クリックはしないで下さい>

「もてなし広場」の集結式のステージです。高崎市長、高崎山車まつり保存会会長、同実行委員長から祝辞が述べられました。全市民の参加により、伝統ある貴重な「高崎山車まつり」の継続・保存を誓い合いました。

松浦市長から、2時間という短い時間内に、38基もの多くの山車が駅前通りに整然と入・退出し、整列した様子に大感激をしたと、関係者の事前の打ち合わせと実行力に大賛辞が述べられました。


<山車のビデオ動画をどうぞ!>

左の「もてなし広場」の画像をクリックしますと、駅前から「もてなし広場」までの北地区の山車の巡行の一部と、広場での38基の山車の整列と終結式の様子のビデオ画像がご覧下になれます。
プレイヤーの右上の×をクリックして、このページにお戻り下さい。

尚、以下の画像は拡大はしません。管理者が撮影したビデオ画像からスチールしたものですので、画質が劣化しております。


高崎山車まつりの巡行をYou Tubeの動画でご覧下さい!

画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はhenporaiさんです。http://www.youtube.com/user/henporai


画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はytgunma1さんです。http://www.youtube.com/user/ytgunma1


画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はraive123さんです。http://www.youtube.com/user/raive123


画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はraive123さんです。http://www.youtube.com/user/raive123


画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はytgunma1さんです。http://www.youtube.com/user/ytgunma1



画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はootoneさんです。http://www.youtube.com/user/ootone


画像投稿サイトのYou Tubeから転載。投稿者はootoneさんです。http://www.youtube.com/user/ootone

 
1世紀年前の市制施行への動きをご覧下さい。
西暦2010年は、高崎市の市制施行110周年です。 西暦1900年(明治33年)に市制を施行したのは、高崎のほかに福岡県の小倉市がありましたが 同市は後に、門司や八幡などと合併して北九州市になったことから、西暦2010年に市制施行110周年を迎えるのは、日本全国でも高崎市だけです。 人口2万5千人以上の町が市に成れるとする「市制」が定められてのは、1889年(明治22年)だそうです。明治24年には人口条件を満たした高崎は、明治27年、町議会で、町会議員岡田謹吾から市制施行の建議が出され、準備委員会が置かれ、市制推進に乗り出しが、その年に日清戦争が始まり、推進活動は頓挫。西暦1900年(明治33年)1月、「市制施行稟請書」を内務省へ提出した。高崎が関東地方の要衝にあり、産業・経済・交通などをはじめとし、あらゆる面で都市機能を備え、市制施行に充分な資格ありとした請願が認められ、内務省から「明治33年4月1日ヨリ市制ヲ施行ス」の告示が出されました。この時、人口3万2千467人で、戸数5千924戸でした。市制施行後に開かれた市議会で、3人の市長候補が推薦され、国がこのうち1人を市長に決めました。初代市長は矢島八郎でした。高崎広報96/11/15号「たかさき100年」を参照。\n";
市制施行110周年を迎えて、高崎市長 松浦幸雄のご挨拶

 2010年4月1日、わたしたちのまち高崎市は、市制110周年を迎えました。1900年の市制施行以来、本市は近隣町村との合併を重ねながら着実な発展を続け、今では人口37万5000人、面積460平方`の群馬県最大の都市となりました。そして、来年4月には中核市に移行する予定です。2010年は、次の10年、さらに次の未来へと大きく飛躍するステップの年であり、高崎の新たな都市創造への出発点となります。今後とも「交流と創造」をテーマに、多くの人が集まる北関東・北信越の中心都市を目指すとともに、市民一人ひとりが輝き、さまざまな生き方ができる希望に満ちた「市民のまち」、一人ひとりが「私たちみんなの都市」と思える高崎を創っていきたい考えてます。「高崎広報2010.4/15号より」抜粋。

 


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