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 高崎市金古町の諏訪神社の祭礼は、"本祭り"と呼ばれ、4年に一度の開催になっております。平成27年は本祭りの開催の年になります。


三国街道の金古宿って、どんな所?!


   金古宿の成立

 金古宿は慶長十年(1605)頃には宿が成立したとみられる。金古宿は渋川と高崎宿の「間の宿」として発達した。宿場として本陣・問屋・旅籠屋(はたごや)を有し、交通集落としての機能を果たしていた。文政十一年(1827)には六軒の問屋、明治二年には五軒存在した。宿の南と北に木戸が設けられ、、十一町三十八間二尺(1257m)の宿を構成していた。 

 江戸時代の金古宿の様子をよく伝えているのが「諸業高名録(しょぎょうこうめいろく)」である。 

これは天保二年(1831)から十年までの間に、金古宿の天田氏の先祖の久良左右(くらぞう・倉藏)が出版したもので、約170年前の三国街道筋の広告帳で、諸国旅人のガイドブックである。「諸業高名祿」の三国道道中案内に、高崎から始まる各宿場間の道のりと共に、運賃が本馬(ほんま)・軽尻(からじり)・人足(にんそく)の三種類別に記載されている。  

高崎〜金古間は、本馬は131l文・軽尻は83文・人足は62文、金古〜渋川間は、本馬は164文・軽尻は109文・人足は76文となっている。この場合、本馬とは荷物40貫目(150kg)、軽尻とはその半分以下を馬に背負わせることをいう。人足の運ぶ荷物は五貫目以内である。

  問屋とは問屋場の業務の主宰者。江戸時代の問屋場(といやば)で、宿場で人馬の継立(つぎたて)、助郷賦課などの業務を行うとことで、駅亭、伝馬所、馬蹄ともいった。 問屋の下に助役の年寄、人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。明治元年、明治政府は問屋場を伝馬所に、責任者として、1駅あたり2名の取締役を任命、明治3年には官営の駅逓司の管轄下に置かれ、明治5年に伝馬所を含めた宿駅制度そのものが廃止された。(以上、冒頭の御休み所の山城屋の画像とも、群馬町誌 通史編 上 中世・近世・古代より引用)

 この上のMapionのロゴをクリックしますと、金古宿、現在の金古町の電子地図が出ます。現れた地図面の左隅の縦の縮尺度に触れ、丁目をクリックしますと、祭りメイン会場の"諏訪神社"の場所が表示されます。地図をスクロールしますと、金古町の周辺の地図が見られますので、先々、草津、水上、伊香保温泉など、群馬県内をお越しの際にご覧下さい。左上隅の太い←をクリックしますと、ホームページに戻ります。

 

現在の高崎市金古町は、平成18年1月23日に高崎市に隣接していた倉渕村・箕郷町・群馬町・新町が同時に、高崎市と合併をした「平成の合併」で誕生した町です。当時、世帯が1万6千世帯、人口が4万1千人であった群馬県群馬郡群馬町が高崎市と合併し、高崎市に18町の新しい町が誕生し、金古町はその一つでしたが、元々が群馬町の中心の町でしたので、元の群馬町役場が高崎市役所の群馬支所となってます。江戸時代初頭より三国街道の宿場町として賑わい、周辺の村々は農業の傍ら、助郷(すけごう)となって、金古宿の一員として宿を支えた。

高崎市に合併する前迄の群馬郡群馬町は、地域を表示・呼称するのに地域名の末尾に"区"を付けていた。行政上の区ではなく、電話局の電話番号には表示はありません。旧群馬町を構成していた18区(面積の広かった金古と足門は複数区になっているが、金古区、足門区とも一区としたカウント)は、そのままの区を町にした。足門町とか。

尚、平成23年5月1日に金古地区内での金古3区は金古町四ツ屋愛宕(あたご)へ、同じく4区は金古町土俵(どひょう)へ、27区は金古町諏訪(すわ)へ、28区は金古町王塚(おおつか)へと、呼称を変更しております。後述します諏訪神社・本祭りの山車屋台の紹介、神輿、和太鼓、手踊りの紹介の出演団体の名称に使われておりますので、御承知置き下さい。

掲示の「金古町区域図」は、金古町の群馬支所地域進興課からの提供です。諏訪神社・本祭りのメイン会場であります諏訪神社の位置を、Mapionの電子地図と照らし合わせてご覧下さい。金古町区域図の真ん中を縦に、金古宿時代の三国街道、現在の県道高崎・渋川線が描かれております。

三国街道は、新発田藩、長岡藩、村上藩などの各藩主、大名行列、佐渡奉行、新潟奉行など幕府重鎮の公用道としての往来、又、商荷物の輸送路でもあり、越後から米、酒、縮(ちぢみ)、鉛、馬などが、幕末には生糸が、前橋、伊勢崎を経て江戸・横浜に運ばれ、特に越後側からは大工、木挽(きびき・きこり)、杜氏(とうじ)らの職人、田植え、養蚕などの日雇い稼ぎ、草津・伊香保温泉などの湯治客などが往来し、時には佐渡送りの罪人も往来したりで、往来人の休息所、宿泊の宿が賑わった。

金古宿は上宿、中宿、下宿から構成され、道幅2間(2.6m)以上、高崎へ2里半、渋川へ3里10町。人馬の交代や荷物の揚げ降ろしなどを行う問屋は上宿が神保家、中宿が松岡家、下宿が羽鳥家で世襲。上宿の神保家の遺構の大門は、市指定重要文化財に指定されていて、現存しております(群馬町誌 通史編 上 中世・近世・古代より引用)。

金子町の"本祭り"って、どんな祭り曳き物が出るの?

 平成27年10月4日(日曜日)、金古町諏訪神社の本祭りが開催されました。 

金子町諏訪神社の本祭りに出場する4基の屋台の内、上宿、下宿、愛宕の3基が本格的な屋台構造の祭り曳き物です。 地元の金古町の皆さんは屋台でなく"山車(だし)"と呼んでますが、食べ物の移動式売店の屋台と区別する意味では、祭りで曳く屋台は山車と呼ぶ方がわかり易いです。

☆マウスのクリックで拡大可能にしておりますので、マウスを画像に乗せてみて下さい。画像をクリックしますと、拡大された静止画像か、ビデオ動画がご覧になれます。ページに戻るには、静止画像は左隅上の←を、動画は右隅上の×をクリックして下さい☆

クリックで拡大可能にしておりますので、マウスを画像に乗せてみて下さい。

金古町金古二区・上宿の屋台は構造上の分類からみて、平屋台に属する。一般には山車は重曹で屋台は単層とされる。山車最上層に人形や山鉾を飾り神の依代(よりしろ)として行動するが、これは京都祇園の山鉾に代表される。
屋台は「前間」と呼ばれる踊りスペースと、「後間」の飾りスペースに大別され、屋台の前間で踊りや歌舞を演じ、後間で囃子や音曲を演奏する。

上宿屋台は踊り屋台ですが、前間で踊りでなく、お囃子を演奏する。この屋台の構造は、四個の厚板の大きな車の上に枠組みされ、屋根は豪華な唐破風で、山車舞台を前間・後間の二間に区切る。 この屋台前間の広さが後間の倍ほどもあることからして、本来は踊り屋台であったことが分かる。

上宿の屋台の屋根の前、後の唐破風と中仕切りにはそれぞれ彫刻が取り付けられ、彩色が施されている。前破風の上には童子と天女像があり、後破風の上には牡丹に唐獅子が置かれている。

中仕切りの両脇は右昇り龍で、左が下り龍が刻まれ、欄間は麒麟と鳳凰である。これらの図柄は、桃山期から江戸中期頃まで最も好まれた図式だあった。上宿屋台は、金古年代記に宝暦九年(1759)とあり、現存する群馬県内の屋台のなかで最も古いものである。(高崎市中央公民館所蔵の群馬町誌 通史編 上 中・近世より抜粋)。

金古上宿屋台胴幕(部分)は、高崎市指定文化財になっております。高崎市のホームページに次の様に掲載されてます。金古上宿屋台は「金古年代記」によると宝暦九年(1758)に開始の記事があり、群馬県の屋台では最古に属するものです。四輪の上の屋台部分は前後の二間に区切られ、唐破風の屋根を載せる構造です。金古諏訪神社の祭礼の時には、きらびやかに飾り立てて、地区を巡行します。付随する彫刻なども見事で、庶民文化が盛んになる江戸中期の時代をよく物語る文化財といえます。文化財情報(金古上宿屋台) 指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財 名称:金古上宿屋台(かねこかみじゅくやたい) 指定年月日:昭和62年7月1日

金子町の諏訪神社社殿です。諏訪神社は全国に約25,000社もあるとのことで、激寒期大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走る諏訪湖の御神渡り(おみわたり)で知られる長野県の諏訪湖近くの諏訪大社が総本社です。群馬では下仁田町の諏訪神社の例大祭が知られております。

我が国で、祭礼を一年置きの隔年の開催の例は多いですが、金古町諏訪神社の本祭りの様に、四年に一回の開催の祭礼は珍しいです。それだけ町の人達の祭りへの関心が高いのか、祭り当日の諏訪神社への奉納品、飾りつけなどは、金古町土俵(どひょう)の町民が全て行ってました。

 金古町の南部の6区の2の屋台です。6区の2の位置は外の者には分かり難いですが、上宿、下宿の様な大きな屋台は無理でも、2区も祭り屋台が欲しい、じゃぁ、皆で手作りの屋台を造ろうと努力して、この屋台が誕生したのでしょう。廃車自動車の車体を台車にして、四輪タイヤの小型ながら立派な手造りの屋台に仕上げております。屋根正面の唐破風、鬼板と懸魚(けぎょ)は大変丁寧に造られております。胴幕や腰幕も揃えて、屋台全体が綺麗に仕上っております。

諏訪神社の社殿の奉納飾りつけをした土俵地区の皆さんは三頭立ちの"獅子舞"を演じます。社殿に奉納する三頭の獅子頭を抱いて、神社境内への宮入を一番手として果たした土俵の町民皆さんの祭り支度は立派でした。紋付き袴の出で立ち姿の殿方、ご婦人達、戦国時代のホラ貝の吹き手2名に従い、幟り旗を捧げる人達、社殿を飾る造花を抱く人達の行列が諏訪神社境内に入って来て、祭りの開催が告げられました。

 上宿の山車倉を出発した上宿の屋台は、常仙寺の西脇を進み、宮入をする諏訪神社へ向って曳れて行きます。画像をクリックして、巡行の様子をご覧下さい。祭り半天を着た沢山の大人、こどもの曳き手、囃子方の楽しそうな様子や、寄木造りの山車の台輪が映っておりますので、ご覧下さい。                              

この上宿の屋台の画像は、諏訪神社へ宮入する様子の動画ですので、クリックしてご覧下さい。2トン近い重量の屋台は四輪固定ですから、進む方向を変えるのが大仕事になります。進行方向を変える際には、屋台の前後の太い梶棒を左右に振って、車輪を地べたに滑らせるのですが、車輪が土に潜ってしまうので、大きなべニア板を車輪の下に敷くなどして、力任せに方向転換をさせるしかありませんが、その光景も山車まつりの面白さになっております。

 下宿の屋台は山車倉を出発して、金古町の中心街を東西に走る県道前橋・箕輪線に入り、金古小学校前を左折して、宮入する諏訪神社へと巡行しました。画像をクリックして、その様子を動画でご覧下さい。

 下宿の屋台が諏訪神社へ宮入する様子の画像です。諏訪神社の境内は広く、参道を経て正面の神社本殿に向かって巡行して、社殿に向かって左側に上宿屋台と愛宕屋台が並び、社殿から少し離れて位置する神楽殿の向って左側に下宿屋台、右側に6区の2の屋台が並びました。

 愛宕の屋台は上宿と同じ順路で、常仙寺の西脇を巡行して、宮入する諏訪神社へ向いました。青年男子の手慣れた囃子は気持良く響き、曳き手衆の整然と並んで屋台を曳行する様子は、観ていて気持ちが好かった。画像をクリックして、その様子をご覧下さい。

 愛宕の屋台が諏訪神社へ宮入する様子の画像です。参道から神社境内へ入った愛宕の屋台は上宿、下宿の屋台よりスムースに進行方向の転換が出来た様子に見えました。既に宮入を済ませて、神社本殿の脇に鎮座する上宿の屋台の隣に並びました。

金子町諏訪神社の"本祭り"って、どんなお祭りなの?

 神楽殿の向って右側に公会堂がありますが、その入り口のガラス戸に無造作に張り出されている祭り案内です。神賑行事(しんしんぎょうじ)との普段は馴染の無い言葉を使ってますが、神様への祈りと感謝の気持ちを、音曲や舞踊で示す民衆の神様への感謝の所作、行動を"神賑"と呼ぶのだろうと、このホームページの管理者は解釈します。今年、平成27年10月4日に、初めて金子町の諏訪神社本祭りを見学しながら感じたことは、人口が8千7百人、世帯数が3千5百戸の金古町で、かくも大勢の地元の人達、大人から子供の多数の町民が参加する行事が行われたことに、正直に申して、驚きを感じたからです。この金古町の皆さんの元気さを広く伝えたい気持ちで、このホームページを発信した次第です。

神賑「しんしん・かみにぎわい」とは、神社の恒例祭の時に、神殿において神職の執行する厳粛な祭典が終わった後、神楽や獅子舞い、舞楽、奉納武道、奉納相撲、競射、神輿、山車、仮装行列などさまざまな催しをするが、これらを総称して神賑行事という(長野県神社庁ホームページ参照)。

諏訪神社への祈りと感謝の気持ちを所作、行動で示す"神賑行事"の様子をご覧下さい

以下、ご紹介します画像は、マウスを乗せてクリックしますと、動画が現れますので、ご覧下さい。


諏訪神社の社殿上で、各区長、保存会長が神主から祝詞を受け、祭りの無事を祈願し、社殿正面の獅子頭3基と屋台4基への安全祈願の祝詞を奉じました。

宮入した下宿の屋台は神楽殿の向って左側に鎮座しました。真正面反対側に鎮座する上宿と愛宕の屋台が眺められる位置におります。 


"一区の太鼓" は和太鼓の演奏です。大太鼓15基、小太鼓4基、団扇太鼓5基、鉄琴と和笛などを13名の奏者が次ぎ次ぎと演奏しながら跳ねる廻る熟練した手慣れた演技は誠に見事です。なかでも男子リーダーの演奏は笑顔を絶やさず、指揮を執りながらの演奏は大変見事でした。今は和太鼓が各地で演奏されておりますが、この一区の祭り太鼓は特徴があって、異色の和太鼓だと感じました。動画の演奏時間が約10分ですので、クリックしてから、動画が立ち上がる迄に1分近く時間が掛りますが、是非ご覧下さい。 

一区の和太鼓は大人だけの演奏者ですが、この5区の和太鼓は成人の奏者はおらず、小中学生と高校生だけの16名の演奏です。大太鼓13基、小太鼓3基、しっかりと練習を重ねたことが分かるキビキビした見事な和太鼓の演奏を披露してくれてます。演奏時間は5分です。クリックしてから動画が立ち上がるまでに,20秒程の時間を要しますが是非、ご覧下さい。 一区と5区は、それぞれが大太鼓、小太鼓を所有し、ユニホームを揃え、練習場所などの保存会の活動の為の諸費用は、どうやって賄っておられるのか、伺いたいです。


金古町の西部の王塚の皆さんの演技は"八木節"です。昔から、八木節は上州名物と呼ばれる程、群馬に根付いた芸能で、木樽を叩いて、ご老体が喉を震わして、渋いシワガレ声を張り上げて"国定忠治"を唄い上げるのが八木節と理解していた管理者は、神社神楽殿に登り、三基の木樽と鼓を軽やかに叩き、マイクで唄い出したのが全員、小中学生さんでしたのには驚きました。そして神楽殿の前に広がって、4人のご婦人のリーダーに従って、手踊りを始めたのも10名程の小中学の生徒さん達。日傘をくるくる回し、笠と手拭いを使った八木節踊りを、"王塚へ、一度はお出でよ!"と、唄い、踊る姿に感心しました。 動画演奏時間、約5分です。

小中学生の八木節に続いて、同じ王塚の皆さんの出演で、ご婦人の皆さんによる踊りです。黒ズボン、赤シャツに白手袋が映えて、軽やかに踊る伴奏の民謡の内容が愉快に聞えました。"電話は何時も留守番電話、聞いちゃいけない、その話〜、出てはいけない、その電話〜、お金は絶対渡さない、送らない〜"などの、「おれ、おれ詐欺」の予防を唄った「王塚音頭」の唄の内容が大変面白く、コミック調に唄う男の唄声に合わせて、楽しそうに踊る十人ほどのご婦人の踊りです。演奏時間、約4分です。  


「子供神輿」公民館のガラス戸に貼られた<神賑行事>プログラムの最後から3番目は「神輿練(みこしねり)、1区、諏訪、5区」の3地区の表示になっておりますが、出場した子供神輿は4基です。 諏訪神社境内を二周する"神輿の練り"は、主役で担ぐ子供達に混じって、大人も興奮し叫び声を上げておりました。沢山の子供達で、小学校の運動会かと見違う様でした。
画像をクリックすると、拡大します。演奏時間、約4分です。 

<神賑行事>プログラムの冒頭は、神事の始まる前に、式場を清める露払いの獅子舞が奉納され、躍動感のある華麗な舞を披露くださいました。10名程の笛、太鼓の伴奏の皆さんは全員、お揃いの袴の着物姿で見栄えがありました。獅子舞に続いて祭り曳き物の屋台の宮入りが開始されました。神賑行事の打ち上げの獅子舞の紹介は省略させて頂きます。土俵の町の人達は、祭り当日の諏訪神社の飾りつけを全て行っておりました。動画の演奏時間、約4分です。  


<神賑行事>プログラムの最後から2番目は「屋台太鼓祭囃子競演」となっておりますが、実際は参加の4基の屋台の囃子と、一区、5区の和太鼓の"一斉の叩き合い"が行われ、平成27年の金古町諏訪神社の本祭りのフィナーレでした。その開始の音頭を執るのが、下宿の元総代長で太鼓の名手であった小此木正寿氏の太鼓演技に続いて、一斉の囃子の演奏が始まりました。動画の演奏時間、5分30秒です。 

既述しました"金子町の"本祭り"って、どんな祭り曳き物が出るの?"で、6区の2の手造り屋台を紹介しましたが、実際に管理者が6区の屋台の存在を知ったのは、祭り当日の屋台の諏訪神社宮入の時に上宿、愛宕、下宿の3基の屋台に続いて、境内に入って来た小型の屋台を観て、6区の2の屋台を知りました。巡行中の様子は観てませんでしたので、境内の神楽殿の横に鎮座した6区2の屋台の演奏を観た時に、囃子の太鼓を叩くお子さんの真剣な演奏振りに感動をしました。動画の演奏時間、2分です。

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