このホームページで、平成28年の8月の群馬県高崎市の"高崎山車まつり"のレポートをお届け致した際に、ご紹介しました、高崎の歴史の1部、特に祭礼についての御紹介を、再びさせて下さい。 享保二年(1717 )高崎藩の第10代の城主・大河内輝貞(てるさだ)が、先祖の平安時代の源頼政の霊を祭った頼政神社の社殿を、城内(今の高崎公園の烏川左岸)に建て、10代輝貞から19代輝声(てるな)に渡って、高崎藩城主・大河内松平家の氏神を祭る正月26日頼政神社の祭礼は、武士が先導した厳粛、盛大な祭りであったという。 祭礼時に飾り屋台と言われた祭礼曳き物"飾り屋台"が、屋台小路から城内に入り、頼政神社に集合し、神社から出た神輿に続いて、城下を巡行したという祭礼の曳き物が高崎の山車のルーツです<土屋喜英氏箸「頼政神社と高崎の町人」参照>。掲載の祭礼行列の画像は、高崎市立中央図書館の新編高崎市史・資料編8近世Wの口絵の頼政神社祭礼行事の絵図からの抜粋です。絵図の曳き物の屋台は現在とはかなり異り、数人で担ぐ軽微な屋台から、飾りを高くして、屋台上に大勢の人を乗せ、数十人で曳く屋台など、その歳々で飾りを工夫して独創的な飾り屋台を、太鼓の囃子を打ちながら曳いていた。 土屋喜英氏は著書「頼政神社と高崎の町人」で、祭礼当時に町として認められていた町内が幟(のぼり)を祭礼行列に出しており、連雀町、鞘町、新町、砂賀町、下横町、田町、九蔵町、新田町、南町、新喜町、通町、檜物町、鍛冶町、赤坂町、寄合町、本紺屋町、中紺屋町、新紺屋町、羅漢町、白銀町、本町、常盤町、四ツ屋町、相生町の町名が記録されており、これらの幟に続いて、各町の飾り屋台がその美を尽くしたと記しております。これらの町が明治なってから今の山車の前身の大型の山車を各町で造る様になった。
明治二年(1869)の藩籍奉還で高崎藩が廃止となり、祭礼氏神の藩主が居なくなったので、頼政神社の祭礼は衰微し、城下の木戸も撤廃されて無くなり、各町は、これまでの飾り屋台でなく、二段の櫓と前部に囃子台を乗せた江戸型の大きな鉾台型山車を造り、正月14日の道祖神祭りに曳く様になった。明治43年(1910)に路面電車が開通し、架線で大型山車が運行困難となり、今の大きさの山車へと造り直したのです。 |