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飯 能

"飯能まつり"

 

 11月3日(月)に、飯能市を訪問しました。飯能市は、武州埼玉の南西部に位置し、県立奥武蔵自然公園の玄関口にあたり、川越、入間、青梅の各都市とともに、首都近郊 の活気みなぎる都市に発展しております。奥武蔵へと通じる飯能付近一帯の丘陵には、 四季を通じ、手軽に遊べる家族向きハイキングコースが沢山ありますし、少し脚を延ば して、西武線か国道299号で正丸峠を越えて、秩父方面への探索も楽しめます。毎年師 走初めの秩父の夜祭りは、京都、高山とともに日本の3大曳山まつりの一つになってま す。

 正午過ぎに飯能駅に到着し、駅前通りに出ました。さすが首都近郊の街とい う雰囲気を直ぐに感じました。祭り当日とは云え、まず人出の数の多いことでした。川 越祭りの時の川越の駅頭と同じでした。人口600万人の埼玉県の南部で、都心に乗り 入れている私鉄の沿線の都市であればのことかも知れませんね。そして、街並がやはり 都心の町並みに似てます。うまく説明できませんが、店舗な構えが洒落ていて、歩道に 面して喫茶店があり、デパートの突き出し縦看板が街路にマッチして、そして若い人が 多いことなどからかも知れません。

 歩道一杯の人達を割けるようにして、正午ス タートの山車パレードが行われている大通りへと急ぎました。祭りの10日ほど前に、 飯能市役所商工観光課へ電話で依頼して、送って貰った飯能まつりのパンフレットが大 変、役に立ちました。川越の時もそうでしたが、自分たちの町の伝統まつりに対する思 い入れというか、誇りを持っているからなのか、飯能の皆さんの祭りへの取り組みが真 剣なことがパンフレットの内容、作り方で直ぐに判ります。誠に親切、丁寧に書いてあ ります。

 大通りへ行く途中、パンフレットにあった"おまつり広場へ立ち寄って見ました。広 場には子供達を含めて大勢の人だかりでした。段ボール紙の迷路遊びやゲームなどに、 大人も混じって、賑やかにやってました。居ばやしの屋台が背中合わせに幾つもできて いて、盛んに山車囃子を演奏してました。丁度、昼飯時でしたので、居ばやしを見物し ながら、並べられていた椅子に掛けて、家族や仲間と弁当を拡げいた人が多かったです 。露天の人も忙しそうでした。大きな纏(まとい)と長い梯子(はしご)を担いで、大勢 の男衆が広場に入ってきました。鳶職(とびしょく)衆の梯子の芸があるようでしたが 、時間がないのでそれは見物しないで、山車の巡行が始まってるであろう大通りへと急 ぎました。

  

河原町の山車(左)と、二丁目の山車(右)

 事前に貰った飯能祭りのパンフレット"山車まっぷ"にもあった様に、大通りでは既に 、巡行が始まってました。順番もキチンと決まっていて、総台数10台の山車は、今年 の当番町である双柳(なみやなぎ)町が先頭で、一、二、三丁目の三台に続いて、河原 町、宮本町、原町、前田、柳原、中山と、各町の山車が、大通りを東飯能駅方向へ進行 しました。東町交差点を過ぎ、NTTの角を右折した通りで全山車が休憩して、午後3時過 ぎからの駅前通りでの引き合わせの時刻に合わせて、休憩後各山車は順次、出発して行 きました。

 屋台と呼ぶのか、山車と呼ぶのかの議論は止めにした いが、その道の研究者のお話でも、江戸時代の関係文献には"山車(だし)"という字句 は、何処にも出てこないそうです。これは、小生の推察ですが、中世から、近世の 江戸時代迄の長い間、祭りの際、引き出された飾り物、練り物などは、それぞれの名で 呼ばれていたと思われます。静岡の掛塚の山車は、飯能の山車とよく似てます。この山車見聞録の ページで既にご紹介しました岸和田の"だんじり"も、佐原のジャンボな人形の山車も飯 能の山車と同じ平屋台の形です。日本各地の祭り屋台は千差万別でしたが、基本形は平 らな形の平屋台(ひらやたい)で、当時の呼び方も"やたい"などと云ってたのではない かと想像します。

  先般、川越市の博物館で開催されていた川越氷川祭礼の企画展で展示されていた「川越 氷川祭礼絵馬」に、数人の囃子連中が乗った台車に一本柱を建てて、その柱の上に高欄 が付き、作り物を乗せた車を、祭り衣装を着た大勢の町民が曳く絵がありました。作り 物は、人形や鳥、太鼓などで、精巧に作られている様子でした。写真で知ったのですが 、八王子型人形屋台は、丁度、飯能の山車の屋根の真ん中に柱を建てて、その柱の頂上 に人形の座を設けて、人形を飾った形です。何かこの絵馬の絵に似た感じがします。

 笛、太鼓の囃子と舞踊を見せる屋台が、次第に「飾られた突き出た出し物」も備 える屋台に変形していったものを"山車"と呼び始めたのではないでしょうか。山車の呼 び名が当時の文献に無いとすると、まだ少数派(マイナー)な呼び名であったのでしょ う。江戸の天下祭りで、ほぼ形が定まって神田祭りの江戸型の山車を"だし"と呼び慣れ て行って、特に明治以降になって、江戸以外の各地にあった屋台も江戸での呼び名にひ きずられて、"だし"と呼ぶようになったのではないかなと、小生は思ってますが、皆様 は、どう考えられますか。今現在、屋台と呼ぶほうが小数派になってます。

 今回 の飯能まつりで、飯能の山車(飯能まつりのパンフレットも、屋台でなく山車と記述し てます)を実際に見学して、距離的にも飯能に大変近い川越の江戸型山車とは全く違っ た姿、形の山車を眼の前にして、これほど祭りの外観(ハード)は異なるのに、祭り囃 子(ソフト)のリズム、旋律は酷似していて、囃子台での舞踊も殆ど同じであることに 奇異な驚きを感じました。文化の伝播やその保存継承ということは、距離だけでなく、 地勢や政治統治といった複雑な要因での背景が強く影響していると思うと、なかなか面 白いですね。そして、簡単には、結論は出せるものでないことも、充分判りました。

 休憩地を出発した山車は、東銀座通りを駅前通り方向に向かって進みました。先 頭の当番町の双柳の山車が、東銀座通りと駅前通りの交差点で、次ぎに続く山車を出迎 える形で駐車します。当番町の山車責任者達が横一列に並んで出迎えの挨拶をする前を 、9台の山車が交差点を次ぎ次ぎと右折して、駅前通りの所定の場所に横一列に並び始 めました。祭りのハイライトですので、詰めかけた観衆が車道迄溢れ出し、交差点に近 づい来た山車を見ようと、どっと車道に出てくる観衆を押し返そうとする警察官の警笛 が耳に痛い程でした。又、歩行者天国ではないので、一般車は遮断されてますが、バス とタクシーは通行してますので、車が交差点に近づくと同じ様に警官の制止の甲高い笛 が鳴り響き、山車の囃子の音と合わさって、騒然とした雰囲気になるのには、いささか 閉口しました。折角の山車祭りですので、完全な歩行者天国にするとかの改善策を検討 して貰いたい。

 川越が江戸型の大型の山車とはいえ、囃子台の広さを比べると、 飯能の平(ひら)屋台式の山車の方が随分広いようです。そのせいか、飯能の舞いの方 が、動きも大きく、従って迫力があるように思えました。各山車とも、白狐(天狐)、 獅子、鬼、恵比須大黒等の舞いを精力的に披露してくれました。それぞれの面と衣装に は伝統の重みを感じる、好いものが使われていると思いました。中でも、天狐の舞いは 印象に残りました。緩急を入れた機敏な動作で、観ていて、思わず引き付けられてしま います。忍者が身を隠す時に使う煙幕みたいに、沢山の細い糸のような紙テープの幕を 観衆に、一瞬の内に投げつける様は誠に見事でした。どんな仕掛けになっているのか判 りませんが、すばらしく、楽しい演出をして呉れて、感謝感激でした。

 

 

 飯能の山車は、彩色も控えめで、檜などの材料の素地に彫刻を、それもゴテゴテする のでなく、あっさりとした彫りで、漆や金箔は殆ど使わず、飾り金具も極めて控えめで 、山車全体をスッキリした感じに仕上げてます。その地の山車の特徴であり、長い伝統 に添ったものが貴重です。頂いたパンフレットの内容ですと、今年の当番町の双柳の山 車は、平成3年に完成したもので、7年目の今年、初の当番町を務めたのだそうです。 同じく、パンフレットに、双柳の囃子には次の様な解説がありましたので、引用して紹 介します。尚、小生が当日の山車の巡行時に録音した双柳の山車 囃子の一部を紹介します。RealAudio 3.0 176BK. 1.5分。双柳の囃子の流派は、 入間市新久より伝授され、一旦途絶えてしまい、入間市仏子より習い直したといわれて いる神田大橋流。その後、大正中期に一丁目に伝授した。戦前、戦中、戦後に渡り青年 団によって囃子連として、続けられて来たが、昭和49年に双柳囃子連保存会と改称、伝 統芸能の継承と青少年の健全育成に努め、現在に至っている。昭和59年 、関東郷土芸 能おはやしコンクールにて、「雨乞いの情景」で、金賞受賞。平成6年には、埼玉県よ りシラコバト賞を受賞した。

 飯能の山車まつりで、特筆すべきことがあります。それは、山車まつりの演出です。 山車巡行に参加している人達のことです。それも、太鼓や笛を吹いたり、踊ったりなど して囃子台にいる人でなく、綱を引いたり、梶を執ったり、先頭に立って町名の入った 造花の花傘を持って進む人や、手古舞い姿が、大変可愛いい小学1年位の女の子達など や、全ての人達です。良く規律が執れてました。どの山車もそうですから、飯能の山車 運営の組織がしっかりしているからかも知れません。

 先ずひとつは、祭りの晴れ 着を各町とも、全員がしっかりと着用していることでした。お揃いの長着に長襦袢の片 肌脱ぎ、色あでやかな半天、帯の締め方、手拭いの仕方等、流石、東京に近い為か、江 戸町人の粋な姿を再現してくれるかのような、男女とも品のある格調高い素敵な祭り衣 装を着ていました。ふたつめは、各町とも青年男女の人数が多いのは、とても頼もしい ことです。自然と伝統芸能が継承される素地が出来ていることです。決めた衣装を必ず 着て、大勢の人が祭りに参加することで、山車祭りは最高に盛り上がります。

 絵 図、「川越氷川祭礼絵馬」には、天下祭りの江戸神田祭りで、お揃いの笠や衣装で着飾 った大勢の町人が、山車や屋台を引いている様子が描かれてます。今も昔も、祭りの楽 しみ方は変わらないと思います。しっかりした衣装を着れば、自然と気持ちも引き締ま り、だらだらした様子にはなりません。当日の巡行で、原町のおとなの女性、若い人達 でしたが、全員で、囃子にあわせて大きい声を出しておられたのは、本当に好かったと 思います。しかし、ほかの町の皆さんからは聴けなかったのは、残念でした。ひとつだ け、苦言を申して置きます。

 飯能の10台の山車の内、河原町は完全な江戸型の山車でした。原町と前田は、唐破 風屋根付の囃子台で、後部は江戸型の階層式になっており、最上部の座には、原町は神 武天皇、前田は太鼓が鎮座してました。この2町以外の山車は、同じタイプの平屋台式 の山車でした。パンフレットに依りますと、前田、柳原、中山、そして双柳の各町の山 車は昭和、それも終戦後に作られたものです。尚、原町の車輪は、巡行中に、車輪が車 軸に軋む音がしてましたが、平安朝の牛車が同じように軋みをだしていたそうですから 、情緒があるなぁと、思いました。


双柳町の山車です。 今年の当番町の双柳の山車は、平成3年に完成、7 年目の今年、初の当番町を務めたのだそうです。同じく、パンフレットに、双柳の囃子 には次の様な解説がありましたので、引用して紹介します。双柳町の囃子の流派は、入 間市新久より伝授され、一旦途絶えてしまい、入間市仏子より習い直したといわれてい る神田大橋流。昭和49年に双柳囃子連保存会発足。伝統芸能の継承と青少年の健全育成 に努め、現在に至っている。昭和59年 、関東郷土芸能おはやしコンクールにて、「雨 乞いの情景」で、金賞受賞。平成6年には、埼玉県よりシラコバト賞を受賞した。
柳原町の山車です。 昭和22年、当町の棟梁荒木文吉、島田仁三が建造し た屋台。平成2年に屋根を改修、ドン帳の新調に始まり、毎年彫刻を各所に充填してい る。本年は車軸、心棒を新調。重厚華麗になった屋台と威勢の良い若手囃子連に注目を 。 「平成9年 飯能まつり、山車まっぷ 飯能まつり協賛会 」より 引用。
三丁目の山車です。
加藤清正の人形を乗せた八王子人形屋台だったものを、大正御大典祭(大正4年) に、現在の平屋台に改造(棟梁、清水左吉)、幟の柱を材料にしたという。 平成6年 に、舞台左右の柱を新調、補強している。「平成9年 飯能まつり、山車まっぷ 飯能 まつり協賛会 」より 引用。
手古舞い姿が、大変 可愛いい小学1年生位の女の子達。

 先頭に立つ着物姿の男性が雰囲気を盛り立て て、粋です。列の先頭で、町名の入った大きな花傘を持った人も立派です。この様に、 山車巡行を盛り立てようとして、全員の歩調が揃った歩き方など、山車周辺の環境、 雰囲気作りに色々と配慮している様子が伺えました。飯能まつりの素晴らしいところで す。

飯能の山車で、前後輪とも 同寸の四輪固定式ものは原町だけだったと記憶してますが、外にあったかどうか。その ほかは、後輪は大きく、小さい前輪を両端に固定した車軸を操作して、進行方向を変え る方式になってます。
 
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