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埼玉 熊谷市

"熊谷うちわ祭"

7月20日(祝)、21日(火)、22日(水)


 熊谷市は、関東平野の西部、武州埼玉県の中央部で、東京都心から64kmに位置する人口16万の都市です。中世より交易の中継地と栄え、江戸時代以降は、江戸と京都上信越を結ぶ街道の中山道の宿場町として、物流の拠点として熊谷は発展してきたのです。従って、明治初頭には他の地域に先んじて、東京上野と熊谷間の鉄道が開通してます。

 東京発の上越新幹線ですと、大宮駅の次の停車駅が熊谷です。車の場合ですと、京浜方面からは、東京外環高速道経由か環八の一般道経由で関越自動車道に乗り、甲斐や信濃方面からの方は、上信越自動車道に乗られ、藤岡JCで関越自動車道に入っていただいて、ともに花園インターICで降りれば熊谷です。

 暫く前ですが、仕事で何度か熊谷は訪問してましたが、散策気分で駅周辺の中心街を歩いたのは、今度が初めてでした。浦和、大宮と肩を並べる埼玉の中心都市としての町造りが進んでいて、街路も綺麗で、活気が感じられる街でした。

 そんな街の中で、川の流れを見つけたとき、思わず "わぁっ、きれいだなぁ" と、叫んでしまいました。真っ直ぐな道路の中央部分を流れる幅が3メーターほどの堀川でしたが、文字通りの清流でした。その流れは誠に清らかで、水量も豊富で、両側の街路樹と、粋な造りの両側の商店街とマッチして、その景観は、大変見事でした。都会の街の中を楚々と流れるこの川の名前が、駅で貰った祭りの案内チラシに「星川」となってました。名と実が見事に一致していて、すばらしいと思いました。

 この「星川」の由来については、熊谷市のホームページに詳しく紹介されてますので、後でじっくりご覧下さい。 

“熊谷うちわ祭”とは?

 駅で貰った祭り案内チラシに、「熊谷うちわ祭の由来」と、題しての説明があります。それによりますと、この祭りは市内鎌倉町にある八坂神社の祭礼で、八坂神社は、文禄年間(1592〜)京都の八坂神社を勧請(かんじょう 神仏の分霊を請じ迎えて祭ること)し、市内鎌倉町にある愛宕神社に合祀された神社で、京都八坂神社の末社にあたるのだそうです。あの山鉾で有名な京都八坂神社の祇園祭りは、平安時代に疫病退散の祈願で始まった祭礼だそうです。

 以下、祭り案内チラシの内容を紹介します。熊谷祭りの記録が文書に出たのは、江戸時代の寛延3年(1750年)であって、その年、4月に町民から宿場役人に嘆願書が出て、今まで各神社毎に別々に行っていた祭りを各町内で、町人の運営で一斉に行うことが、許可になった。各町から総代、祭事係、年番町から大総代が選ばれ、祭りの一切の責任を負いますが、これは、もと神社で行っていた名残を伝えているものです。

 その頃の祭事係は、役人と同じ権限を持ち、ご用番とも呼ばれた名誉職で、旧家でないとなれなかったそうです。この記述からわかることは、町民の手で行われる様になったいろいろな祭礼の中のひとつが、熊谷八坂神社の祇園祭りであり、この祭礼が特に盛大に行われる様になって、今の熊谷うちわ祭の前身になったということです。そして、今でも山車や屋台を出す町内では、総代などの役割分担が組織されておるそうです。

 江戸時代の交易物流の要衝として繁栄していた当時の熊谷の祭礼ですから、盛大に行われたと想像できます。祭りの日、参勤交代の行列も交通止めに遭い、しかたなく街道の中山道でなく、荒川堤を往来しなくてはならず、「八坂神社のお祭りには、大名も一歩遠ざかって通った」と、当時の町民は得意げに語り合ったといわれてます。

 天保時代(1830〜)が祭りの中興といわれ、この祭りの日、各戸で赤飯を炊いて疫病除けをしました。商店では祭りの期間中、買い物客に赤飯をふるまったところから、熊谷の「赤飯ふるまい」は、祭りの名物になりました。

 うちわ祭りの起こりは、この手数の掛かる赤飯の代わりに、泉屋横町の料亭「泉州」の主人が江戸から買い入れた"渋うちわ"を、お客にふるまったところ、大変な評判になり、後、各商店でも赤飯の代わりにうちわを出したため、誰云うことなく、"買い物は、熊谷のうちわ祭の日"といわれるようになったのだそうです。こうした疫病退散祈願に始まったこの祭りも、いつしか五穀豊穣、商売繁盛をも祈願する祭りとなりました。

“熊谷うちわ祭の行事”


 市民に "水と緑と鯉と彫刻のプロムナード星川彫刻通り" と呼ばれております星川の流れる道路に「お祭り広場」があります。広場といっても実際は、交通信号機のある広い道路の交差点です。この場所が、熊谷うちわ祭のイベント会場として、毎年使われている交差点ですから、名前が「お祭り広場」となったのでしょう。粋な命名と、感心しました。
熊谷うちわ祭りが、深く市民に親しまれておる証拠です。

 お祭り広場の脇に"お仮屋"が設置されてました。これは、祭り初日の早朝、市内鎌倉町の八坂神社に多数の関係者が集まり、"渡御祭"が行われたのです。各町の若頭100人が白丁姿(はくちょうすがた 神事などで物を運ぶときの白の衣裳)となって、八坂神社の祭神が乗った神輿を担いで、各町内を巡行した後、神輿をお仮屋に安置したのです。祭りの期間中、八坂神社の祭神が、旅所のお仮屋に鎮座なさるわけです。

 お仮屋の正面奥に神輿が安置されてます。数人の巫女さんが賽銭奉納の参拝者に団扇(うちわ)を渡してました。祭り最終日の午後11時半過ぎになると、お仮屋で"還御祭"が始まります。お仮屋に鎮座していた祭神が、神輿に乗って本宮の八坂神社へお戻りになるのです。

“熊谷うちわ祭の山車 屋台とお囃子”

 熊谷図書館で、熊谷うちわ祭の資料を捜したところ、幸いにも、「熊谷祇園祭稿」という本が見つかりました。自費出版の書籍で、巻頭の推薦者の言葉によりますと、著者の重竹賢一氏は、熊谷市で歯科医院をなさっておられた方で、歯科医師会々長、青年会議所理事長などの要職の中、祭りを愛され、第二本町区の相談役として活躍し、昭和59年の熊谷うちわ祭の大総代を務められた方です。

 「熊谷祇園祭稿」の中で、熊谷の山車についての記述がありましたので、ご紹介します。

<明治24年に、第2本町区が神田から山車を購入してから、各町内で山車、屋台を次々と新調して、熊谷の祇園祭りは、神輿祭りから山車祭りに変貌した。そして、5ヶ町のみで行われていた神事関係も、終戦後より8ヶ町の合議の上で、その都度、年番町大総代を選び、その総指揮のもとで執行されるようになった。加えて、荒川区指揮下の伊勢町、仲町に付属する桜町、さらに応援助っ人として、石原、本石の2台の屋台が参加して、合計12台の山車 屋台が祭りの主役となった。それ以来、熊谷うちわ祭の中日の巡行祭、最終日のお祭り広場での年番送り、山車屋台の"引き合わせ、 叩き合い"など、勇壮な熊谷囃子の渦中で、我々お祭りっ子は、血を湧き還らせるのです>

と、紹介してます。熊谷うちわ祭をこよなく愛した著者の気概が胸に迫ってきます。

 今回のお祭り訪問は、最終日でしたので、最終日は、山車の巡行は午後6時からでして、生憎、午後から小雨が時々降る天気となってしまい、待機中の屋台や山車に雨具が架けられ、特に、山車は人形の載る上層の楼を下に降ろしてしまってましたので、山車の完全な姿の撮影ができませんでした。山車の象徴である人形の姿をしっかりと撮れるように、来年は、祭り中日の昼間の山車巡行祭を観覧します。

 残念なことでしたが、午後8時頃から雨が本降りとなり、身体ばかりでなく、カメラがひどく濡れてしまうので、お祭り広場でのお祭りフィナーレイベントの観覧は諦めざるを得ませんでした。なかでも、銀座区の山車に遭遇できず、それと、本石の屋台は観覧した記憶はあるのですが、結局この2台は何も撮影できなかったことが、残念でした。又、夜の山車の撮影の難しいこともよく、わかりました。雨の中、お祭りは続けられた様です。

熊谷の山車、屋台の画像は、平成11年7月20日(海の日)の熊谷うちわ祭りの初日に熊谷を訪問して、撮影したものを別ページの「熊谷うちわ祭り追録版」で紹介してますので、ここをクリックして、ご覧下さい。

 市役所近くに待機中の本町三四(第二本町区)の山車です。前述の「熊谷祇園祭稿」の著者は、この区の総代を務めたそうです。著者の記述に、明治24年に、神田から購入したとあります。江戸型山車というわけです。前に突き出た二本の楫棒の間に、前輪がある3輪の山車です。今回見聞した熊谷の山車と屋台は、全て3輪式でした。

 最近見聞した群馬 藤岡市の屋台も、熊谷の隣りの深谷市の屋台も3輪でした。この山車形式だけでなく熊谷の山車囃子が、深谷は勿論、藤岡の隣りの群馬県伊勢崎市郊外の尾島町の囃子にも、よく似てました。

 同じく本町三四(第二本町区)山車の後ろ姿です。総体黒漆塗り、唐破風屋根、せり上げ式の2重鉾台の優美で、品格のある江戸型山車でした。小雨が時々降る天気でしたので、雨除けシートで覆われ、上の層楼はセリ下げられていて、人形も見えませんでした。
 関東山車祭りの研究家の作美陽一氏の著書、大江戸天下祭り(河出書房新社)によりますと、天保年間(1830〜1844)の末頃、せり出し装置が考案され、それまで一層の鉾台であった山車が、2重の鉾台を持った山車に変身していった。明治期には、2重鉾台型山車が江戸山車の標準形態として発展し、今日(こんにち)単に、「江戸型山車」と云えば、この2重鉾台山車のことを指す様になったのです。 



 天保年間に造られたといわれるこの"本二"(本町三四の呼び名)の山車は、江戸天下祭りにも参加したかも知れません。熊谷うちわ祭で、最初に取り入れられた曳き物で、熊谷まつりの顔的存在になっておるようです。年代物にしては、補修が充分されているのでしょう、傷、汚れもなく綺麗な山車でした。


 弥生町の屋台です。熊谷の12台のお祭り曳き物の内、7台は屋台です。熊谷の屋台に共通する形式で、総体の長さが3m 前後で、大きさは中型の部類です。6本柱で支えられている立派な唐破風屋根、蛙股、懸魚の彫刻は、柱から欄間へと続く彫刻と一対となって見事な仕上がりです。屋根や囃子台の勾欄には飾り金具が要所に打たれております。金銀箔のきんきらきんの華美さはありませんが、均整のとれた形のよい屋台です。車輪が大きく、車台も高いので、スタイルの好いチョット気取ったご婦人のイメージで、好感がもてます。

 屋台の屋根を支える前、中、後の6本の柱の中央の2本柱は、襖でなく幕で締め切り、後ろ両側面と後部に幕を吊して、後部の四面を囲って楽屋(現在は、控え室です。お囃子は、山車の前部で演奏してます。)にしてます。江戸屋台の特徴が出ています。
 左右だけでなく後部にも手摺り勾欄が廻してあり、その上、後部の手摺り勾欄が一段と高くなってますのは、江戸型の鉾台型山車に見られる特徴ですので、屋台を造る時に江戸型山車の構造を取り入れたものと推察できます。群馬藤岡型山車がこの熊谷山車形式とそっくりです。但し、藤岡型は、楽屋部分を幕ではなく御簾と障子で囲ってます。

“さぁ!山車 屋台の「曳き合わせ、叩き合いだ」!

 


 午後6時、交通規制が始まって歩行者天国になった国道17号を中心に、人波をかき分けるように、山車、屋台が現れてきました。八木橋デパート前の交差点に集まったのは、仲町とそのパートナーの桜町、荒川区とそのパートナーの伊勢町、弥生町、そして、上の画像の左端になって隠れてしまったので、下に紹介した鎌倉区の6台の山車と屋台でした。
 この様に、あちこちの街角で「曳き合わせ、叩き合い」をしながらお祭り広場に向かうのだそうです。

“わぁ〜,驚いた!凄い叩き合いだ!

 

......

 午後6時前は、何もやらずに留守居番がおるだけの待機中の山車、屋台と、お囃子をしていた山車があっても、叩き具合から練習中と思われる子供が演奏しているぐらいで、本格的な山車囃子を聴けるのは、夜の曳き廻しからとは思っておりました。唯、練習の囃子の音が、三日前に聴いたばかりの藤岡の囃子に似ているなぁ、と思ってはおりましたが。午後6時過ぎになると、八木橋前の四つ角は、観衆がぞくぞくと詰めかけて来ました。

 暫くすると、交差点の四方の道から、屋台の囃子の音が迫って来ました。曳き方、楫方、囃子方衆が、それぞれの町区毎のお揃いの祭り半天、腹掛け、もも引きなど、そして草鞋(わらじ)履きで、頭には捻り鉢巻きといった粋な祭り支度で、元気な掛け声を出しあいながら、意気揚々と屋台、山車を曳いて、交差点に入って来ました。予め、決められておる位置に屋台を誘導しますが、既に道一杯の観衆を除けさせることが大変でした。でも、3輪式で、更に一輪の前輪が可動するので、屋台の方向転換が簡単に出来るのには、なるほどと感心しました。

 円弧状に並んだ6台の屋台、山車のお囃子が一斉に始まりました。開始の合図で始まった叩き合いですから、単独で囃して居るときよりは、最初から力が入ります。そばで初め聴いた私は、正直申し上げて、凄まじい囃子の叩き方と、囃子の音にびっくりしてしいました。囃子手は、屈強な若い男衆が大半でしたが、女性もおりました。屋台、山車とも囃子台の向かって右側に、欄間から直径が30センチほどの大きな鉦が3個、吊り下げられてます。反対側は、大太鼓の後ろに同じ形の鉦が1個、吊り下げられてます。

 この鉦の音が凄まじいのです。囃子方には笛もおりましたが、側で聴いていても笛の音は全然耳に届きませんでした。囃子方の手慣れたバチさばきと、アクションは、大変見応えのあるものでした。熊谷囃子は、今回が初体験でしたのでその凄まじいまでのお囃子に私は、たじたじとしてしまった面もありますが、何であれほどなのかと、疑問も感じたので、翌日、熊谷市役所に山車囃子について尋ねましたところ、図書館に良い本があると教えられ、早速、読ませて貰ったのが、冒頭、御紹介しました「熊谷祇園祭稿」でした。

 この本の中で、熊谷の山車囃子についての記述がありましたので、次ぎに紹介します。

 <本三四では、初め上之成田方面にあったヒョットコ囃子の連中に、囃子方を頼み、数年経って、小太鼓を3個にするようになって、肥塚の囃子連中を頼む様になった。
 本一二が明治30年に、山車を新調して、囃子方を岡の下郷(現、岡部町)の囃子連中に頼み、あの賑やかな世良田(せらだ)囃子を叩いたので、各町もこぞって、深谷周辺の囃子連中に頼むようになり、自然と全部が世良田囃子になってしまったようです。>
 <勇壮にして、賑やかな囃子なので、祭りの三日目に全町の屋台山車を一ヶ所に集合させての「曳きかわせ、叩き合い」が、熊谷祭りのクライマックスと云える。昔は、夜通し叩き合いました。他の囃子に連れ込まれて、叩き方が乱れた方が先に、屋台を曳き出すと云うことです。>

 明治23年に、本三四が神田から山車を購入した後、明治30年に、本一二が山車を新調したが、山車囃子が出来る者が未だ熊谷にはおりませんでしたので、近くの埼玉県岡部町の囃子連中に熊谷へ出張して貰って、祭りの山車囃子を演奏して貰った。岡部や、その周辺の深谷の囃子は、群馬県尾島町世良田から伝授された山車囃子だったので、岡部や深谷から囃子の応援を貰っていた熊谷の各町の山車囃子が、皆、世良田囃子になってしまった、と云うことです。

 図書館で、この記事を読んだのは、7月25日でした。25、26日がこの世良田の祇園祭りであることは承知してましたので、熊谷図書館からの帰りに早速、世良田に向かいました。世良田は群馬と埼玉の県境に近い群馬県伊勢崎市の東側郊外にある尾島町にある地名です。徳川家と深い縁もあり、新田義貞の出身地の群馬県新田町とも隣り町で、群馬県央の文化の先進地区です。従って、祭り文化も室町から、江戸時代と盛んに行われていた証拠に今でも、江戸時代に造られた大型の屋台が数台も現役で活躍してます。世良田の八坂神社の祇園祭の25、26日に、町内を山車が曳行されてます。

 幸い、世良田の八坂神社の境内で、四基の居囃子が演奏されるタイミングでした。そして、夕方6時から居囃子が次々と始まって、その囃子を聴き始めた途端に、おやぁっと! 我が耳を疑う程に、熊谷の囃子と全くといっても良いほど、そっくりなのです。いやぁ、驚きました。世良田の山車囃子も、熊谷と同様の直径が四、五〇センチもありそうな大きな鉦を吊して、かんかん叩くのには驚きました。

 「熊谷祇園祭稿」の著者の重竹氏も本の中で述べてますが、八坂神社の御祭神は、須佐之男命で、<この神は、荒々しく強い神様であるため、祭りが威勢よく荒れる程よい、と云われている。それは、その勢いによって、疫病を退散させると、信じられているからだ。>と、述べてます。 熊谷うちわ祭も、この世良田の祇園まつりも八坂神社のお祭りです。その縁も大きかったのか、山車囃子も昔に伝授された時のまま、今日迄継承しておる熊谷の皆さんに感謝したい気持ちになりました。

 それにしても、あの鉦の音は、いささか強すぎないでしょうか。それと、鉦の叩きかたも、昔の火事の時に鳴らされた半鐘の鐘のように、やたらとカンカンと乱打するのは、如何なものかと私は、思いました。折角の太鼓や笛の音が消し飛んでしまってます。鉦はスリがねとも言われてもおります。笛、太鼓の音とリズムとに、溶け込むような演奏の工夫がないものでしょうか。

 表の「お囃子を聴く」欄の地名をクリックしますと、お囃子が聴けます。

 二つの地区のお囃子を、並足と、叩き合い 毎で、比較してお聴き下さい。
 よく、似てます。紛れもなく、ルーツは同じと思います。

熊谷/世良田演奏区分お囃子を聴く KB/Sec
熊谷うちわ祭並足熊 谷118/60
叩き合い熊 谷176/90
世良田祇園祭並足世良田118/60
叩き合い世良田176/90

 今回の熊谷うちわ祭は、アフター5の観覧でしたので、明るいなかでの山車の撮影が出来なかったことと、生憎の雨天が災いして、祭りのフィナァーレが観覧出来なかったことが、心残りでした。しかし、勇壮なお囃子が、言い方を換えれば、聞き慣れない人には荒々しくて、奇異な囃子の様に思われるかも知れないのですが、それが盛んに今でも演奏されていることは、人々の生活文化の中で、そのお囃子が永年支持されて来た証拠であり、大切にされているからこそ、子、孫へと継承され、しっかり根付いて行くのだということが、よくわかりました。

 


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