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かけがえのない文化遺産の山車・屋台を擁護し、継承しよう!

 隠れとは、かくれて人目につかぬこと。往時の祭礼時には盛大に奉曳されていたのに、ここのところ出番がなく、ひっそりと倉庫に眠むったままで、このまま消滅してしまうのではと、懸念される山車や屋台が皆さんの周囲にもあるのではないでしょうか。

 平成14年の年明け、小正月も終わって正月気分も薄れた頃合を待って、かねてから腹づもりになっていた高崎の埋もれた祭礼屋台を訊ねての行脚を開始した。 高崎市の郊外は、過去の町村合併で市に編入された四つの地域に分けると判りやすい。今回は、南部地域の中でも、南八幡(やわた)地区と呼ばれる根小屋町、山名町、木部町、阿久津町の四町と、東部地域の中の京目町を訊ねた。

 聴き取り調査の手掛りを各町の区長から探ろうと、市役所で教えて貰った各町の区長へ、手紙を書いた。各町とも地域を区分して、複数の区長がいますので、手紙は区長全員宛てに出したが、聴き取り調査に協力する旨の回答を頂いた区長は5名の方々でした。

 図は高崎市の旧市域と隣町村との合併で市域となった様子を示すものです。
情報地図メーカーのMapion社のホームページにリンクしてます。

 図の「南部地域」と「東部地域」の文字をクリックしますと、両地域を詳細に示すMapion社の情報地図にジャンプします。ご参考迄にご覧下さい。

南部地域の根小屋町の屋台を訊ねて


 平成14年1月26日 午前、根小屋町区長の上原さん宅へ、すぐに上原さんの案内で、根小屋町公民館を訪ねた。既に、公民館には町内の上原一夫さんと酒井尚吉さんが居られて、小生を迎えてくれたのには、恐縮の至りでした。 公民館の畳敷きの広間の壁に、それぞれ十数枚のL版の屋台の写真が入った額が二つ、掲示されていた。古写真と云うのではなく、カラーの鮮明な写真でした。3人さんの説明に拠りますと、この写真は、丁度、10年前の平成4年4月12日、この根小屋公民館が建つ白髭神社の境内で、町民総出で屋台を組み立てて、数日間、展示した時の写真でした。祭礼の為に屋台を出したというのでなく、小屋の中に在ることは知っていても、実際に屋台を見たという町民が殆ど居なくなってしまったので、一度、皆で組み立ててみようとの意見が多くなって、組み立てたとのこと。

 白髭神社は根小屋町の鎮守様です。境内に公民館と屋台倉庫があります。 白髭神社の鳥居の左の石碑の後ろ側に、屋台を収納する小屋がある。朽ちが目立つ外側のトタン壁の割には、小屋の中の柱、壁はしっかりしていた。解体した屋台の部材が収納されていた。蹄鉄のない車輪は作られた当時のままとのことで、このままでの使用は無理とおもわれるほど、痛みが進んでいた。唐破風や鬼板類は木箱に収納されていたが、極彩色で描かれている鳥や武者の絵のある襖は小屋の何処にあるのかは、確認出来なかった。

根小屋町の屋台写真。公民館に掲示の中の3枚。この画像は、クリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻る←で、お戻りください。

公民館に掲示の屋台写真を撮影した飯富 肇さんにお願いして、額と同じ写真を15枚、お借りして、複製させて貰った写真の一部です。写真で観るだけですが、大型の立派な屋台です。彩色された精緻な彫刻で飾られた大きな鬼板、懸魚を持つ唐破風は、飾り金具も打たれてほんとうに見事。なかでも特徴的なのは、屋台舞台の奥の間仕切りだけでなく、屋台側面と追い面も、幕ではなく極彩色の極楽鳥や武者の見事な絵が描かれた襖で囲われていることです。


屋台竣工の明治廿年の墨書を鬼板に発見!


 案内の3人のひとりから、正面の鬼板に屋台の作成日を記した墨書の銘があるとの話が出て、その確認を是非させて欲しいとの、小生の要請を受け入れてくれて、根小屋町の屋台小屋の中に入ることになった。埃というよりも、厚く砂が積もった部材の上に慎重に脚を乗せて、鬼板の入った木箱を小屋から、公民館の広間に運び出した。鬼板の背面に、墨書の銘が確かにありました。

 明治廿年十月二十九日 越後國三島郡尼崎町諏訪丁 生 上野國高崎駅南町四番地 住 大工 棟梁  酒井 忠吉 源 鎮賢 花押 作之

 屋台小屋の見学の後、お3人から根小屋、山名、木部、阿久津の四町からなる南八幡地区の祭礼行事の様子を聞かせて頂きました。この南八幡地域は、鎌倉期以降、当時の関東において東海道と同じ位に重要な幹線路であった鎌倉街道沿いの烏川(からすがわ)と鏑川(かぶらがわ)の合流点の地勢にあって、江戸期になって、阿久津地区は幕府の直轄地・天領になった程、稲作と畑作の集落があった。

 戦国時代、西上州を支配した武田信玄が、上州の武将を監視するために築いたと言われている根小屋城のある根小屋とは本来、兵を駐屯させておく場所を根小屋と呼んだのだそうで、根小屋という地名は全国にあり、そこには必ず城跡があります。城下町の初期の形態といわれています。根小屋の南に隣接する山名町字城山には戦国時代に築かれた山名城跡があり、山名町には文化財が多く、古代に建てられた山ノ上碑や金井沢碑、なかでも中世に活躍した山名氏ゆかりの山名八幡宮はこの南八幡(みなみやわた)地域住民の総鎮守さまで、その存在感は今でも大きなものだそうです。

 木部の地名については、中世にこの地に住んだ木部氏に由来するということで、集落の中心部には木部城跡があります。この南八幡地区は、高崎の市街中心地が江戸期に入ってから整備されるはるか以前から、文化的な経済地の様相を形づくっていたわけです。ですから、今の高崎市の中にあっても、より歴史が古い地域なのです。


南八幡の山名八幡宮と八幡まつり


 高崎市公報のページで、山名八幡宮をこう紹介してます。「社伝によると、源氏の一族新田氏の祖義重の子義範(よしのり)が山名城に居た安元年間(1175?1176)に、豊前(ぶぜん)国宇佐(うさ)八幡宮を勧請(かんじょう)して社殿を造営し、武神として崇敬したのが始めだといわれています。」「現在では子育て神社として、子どもの癇の虫を切る虫切り鎌という珍しいお守りを授けています。4月と10月の例祭には"張り子の獅子頭"が売られます。」

 


 3人が話してくれた山名八幡宮本祭の様子は次ぎの様でした。唯、この3人さんご自身も観たわけではなく、幼き時に、年寄りからの口伝を記憶しているだけのことで、祭礼の記録文献もないとの前置きでした。

 この山名八幡宮の祭礼を本祭といって、南八幡地区の一番賑やかなお祭であった。江戸期中から明治に掛けて、屋台8基が春、秋の祭礼に出動した。曳きまわし隊列の順番が決まっていて、一番、二番が阿久津の屋台。三番、四番が根小屋の屋台。五番が木部の屋台。六番、七番が山名の屋台。8番が根小屋の屋台だったそうです。根小屋が3台、山名と阿久津が各2台、木部が1台で計8台の屋台があったと伝えられている。

 この山名八幡宮に参加した屋台で、今現在残っておるのは、根小屋が1台、山名が1台、そして木部の1台で計3台だけです。本祭で8台の屋台が揃い踏みしたのは、明治末迄で、屋台は組み立てと分解にも多くの手が掛かることや、電柱の敷設、上信電車の踏切などの道路事情から、大正元年の曳き回しを最後に、その後は屋台の曳きまわしがなくなったそうです。代わりに、正月の道祖神祭りで出していた小型の道祖神屋台を八幡宮の祭礼に出すようになったのだそうです。


南部地域の山名町の屋台を訊ねて



 根小屋町の翌週、山名町の吉田昭次さん宅を訪問した。途中、根小屋町の飯富さん宅に寄り、お借りした根小屋町の屋台の写真をお返しし、お礼の挨拶をした。屋台小屋から出されたバラバラの部材が、次第に屋台へと組み立てられる一連の過程が写真に撮られていたことは、ほんとうに貴重で、幸運なことであったこと、こんなに優れた祭礼曳き山をこのまま朽ち果てさせてしまうのは余りにも、もったいないことで、屋台小屋の修復など町の保存管理を望むが、場合によったら、市の教育委員会などに働き掛けるなどして、保存に努めたいなど、有意義な話し合いが持てた。

 山名町の区長さんからの紹介された吉田昭次さんの家は、山名町の商店街でもある県道 寺尾・藤岡線に面しており、山名駅方向を示す県道の道路標識の角を曲がると山名八幡宮の参道となるT字路の直ぐ脇にあります。吉田さんは、山名町のお囃子保存会の会長さんで、毎年秋の山名八幡宮の祭礼には、保存会員と一緒になって、町の子供達にお囃子の指南をしておる方です。吉田さんは県道に面した広い自宅の敷地の半分を開放して、お囃子の練習場の小屋を提供してます。また吉田さんは事実上、屋台の保存も任されており、山名の屋台とお囃子の保存に大きな貢献をなさっておられる方です。

 山名町ではお囃子のことを「しゃぎり」と呼んでます。新潟県村上市では、山車のことを「しゃぎり」と呼ぶそうです。名古屋市の筒井町の山車まつりを見聞したときに気がついたのですが、筒井町でもお囃子のことを「しゃぎり」と呼んでいました。明治の廃藩置県迄長く高崎藩主であった大河内家の初代藩主大河内輝貞は一時、村上へ移封されて、また高崎へ戻った経緯があったそうですから、藩主が「しゃぎり」の言葉を高崎にもたらしたのかもしれません。

 今の高崎の市街地の山車囃子には無い言葉が、山名に残っているということは、その当時の高崎城下には山車や屋台の出る祭がまだなかったが、隣村の山名には平安時代末期に勧請された由緒ある山名八幡宮があって、その祭礼には屋台などの曳き物が出ていて、屋台囃子も存在していたと、想像ができます。ですから「しゃぎり」という言葉に大変興味を感じました。

 山名町の本祭り屋台   昭和60年10月13日に組み立て、八幡宮祭の15日迄、山名八幡宮境内に展示したときの写真。山名町 吉田昭次氏提供。

 吉田さんのお話をまとめますと、今、山名八幡宮の祭礼は春と秋の2回行われている。4月と10月の月なかばの15日前後に行う。秋の祭礼の時に、山名町が屋台を1基曳行するが、この屋台は、明治時代末頃迄曳行されていた屋台(地元の人たちは本祭り屋台と呼んでいる)ではなく、地元の人たちが道祖神屋台と呼んでいる小型の屋台なのです。

 道祖神屋台とは、本来は年初め小正月の14,15両日、門松や神棚飾りを焼却するドンドン焼きなどの道祖神祭りが毎年行われていたが、その時に曳きまわした小型で簡素な屋台をこう呼んでます。山名町には3基の道祖神屋台があった。

 秋の八幡宮祭は、この3基の道祖神屋台が勢揃いした賑やかな祭りが楽しめていたが、3基の内の下組の1基は老朽化して既に消滅してしまい、もう1基の道城(どうじょう)地区の屋台は屋台小屋に入れっぱなしのままで、ここ十数年間は、吉田さんところの上中組の1基だけになってしまった。


 山名町上中組の道祖神屋台。 山名町 吉田昭次氏提供。毎年、山名八幡宮の秋まつりに曳行。  


 吉田さんのお話をお聞きしていて、感じましたことは、こうやって1基だけでも毎年屋台が出せるのは、指揮官の吉田さんを中心とした山名町シャギリ保存会の存在が大きいことでした。祭りの屋台や山車が毎年なり、隔年とかに定期的に出せるのは、その町の中で誰かひとりでも、先頭だって行動してくれる人がおるか、どうかで決まるようです。山車・屋台が好きでなければと云えるかも知れませんが、同じ町の隣人同士の親睦を図るにはお祭り行事が一番です。

  演奏されるお囃子も本祭りと道祖神祭りとで、区別されてます。本祭り用のお囃子は曲目が シンベイ、スガアキ、ダラチュウ、ナイシと呼ばれる4部から成っておりますが、この曲の演奏できるのは今現在、吉田さんひとりになってしまってます。この本祭りのお囃子の笛だけの演奏の一部をお聴き下さい(4分)。ご自身が録音した吉田さん演奏の笛のカセットテープをお借りして、コピーしたものです。特異な名称のお囃子ですが、内容は江戸時代初期からあったといわれる里神楽に似た曲調で、獅子舞の囃子にも似ていると吉田さんが話しております。

 道祖神屋台のお囃子は通称、"ばかばやし"と呼ばれているサンテコ囃子です。大太鼓1、小太鼓3、大きめの鉦2、笛2〜3の演奏は、大人、子供とも大勢の人が演奏できますので、この方は心配ありません。山名の皆さんが道祖神しゃぎりと呼ぶ道祖神屋台囃子の演奏の一部を、これも吉田さんからお借りした録音テープのコピーで、お聴き下さい(4分)。

 お囃子の音声をお聴きになるには、リアルプレイヤーが必要です。ストリーミング方式のリアルプレイヤーはリアルネットワークス社(RealNetworks, Inc.)より、無償でダウンロードできます。
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 吉田さん宅の囃子練習場の掲示板。山名上・中組シャギリ保存会「屋台・囃子の伝承」の題目で、囃子と屋台の解説が記述されている。

 本祭りのお囃子は、根小屋町や木部町では演奏できる人がひとりもいないそうですから、長い伝統を持っていた山名八幡宮の屋台囃子は、録音テープが残るだけになってしまう危惧を感じます。

 お囃子を含め、伝統芸能は先輩の技を見て覚える、やりながら覚えるという体験を通じて習得し、同じことを繰り返し練習して、熟練していくしかありません。本祭りの屋台が出ないために、本祭り用のお囃子を聴くチャンスもなくなってしまってます。何もしないでおくと、自然消滅してしまいます。屋台は倉庫に保管さえしておけば、ともかく残りますが、形のないお囃子はほっておくと、完全に消滅してしまいます。後継者育成が急務と、吉田さんご自身も話されております。 


超大型の木部町の屋台


   木部町の萩原区長さんから木部の屋台の写真がお借りできた。写真の中の屋台に掲示されている「昭和55年 春、文化財400年祭」について、区長さんは町に城址が残る領主、木部氏に係わる記念行事のようなことがあったと思うが、何であったか不明とのことでしたので、市役所市史編纂室へ問い合わせしたところ、昭和55年は西暦1980年、その400年前は西暦1580年で天正8年。編纂室の資料によると翌年の天正9年に木部氏が武田氏に攻め滅ぼされたとなっているとの回答がありました。文化財400年祭とは、木部城址と何か関係がありそうです。

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 しかし、貴重な写真です。屋台の幅は根小屋、山名の本祭り屋台の倍近くで、踊り舞台の階下に囃子台を持つ背丈の高い大型の屋台です。この後の屋台の組み立てはなく、分解して収納されているそうです。豪華の破風は貫禄充分ですが、向拝柱の太さからみると屋根は軽い構造で、根小屋や山名と同様の障子紙の仕様であることがこの画像からも分かります。上部の大屋根や広い舞台物に比べ、下部の囃子台は貧弱で、梶棒もなく、屋台本体の大きさに似合わぬ小さい車輪などから想像すると、あり合わせの部材で取りあえず格好だけをつけただけの感じがします。ことによると、下部の囃子台そのものが老朽化してしまって使えないか、既に消滅してしまっておるのかも知れません。

 しかし、往年の竣工当時は、豪華な見映えある屋台であったことは間違いありません。 木部地区と阿久津地区は鏑川と烏川の合流点にあって、頻繁に洪水の被害もあったが、土地が肥沃で、財政の余裕があった地区だったそうですから、このような豪華で大きい屋台を持てたのでしょう。 阿久津町の川鍋区長さんからは、阿久津には屋台は完全に消滅していて、町には何にも残ってないし、写真もないとの回答です。尚、阿久津町は、山名八幡宮の例祭には獅子舞を毎年奉納してます。子供獅子舞が人気になってます。  


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