関ヶ原の戦いを経て、徳川の治世下になって、大消費地の江戸の発展と共に、江戸との有利な地の利を生かした桐生は、機業技術の革新と進歩で、益々織物業は繁盛し、桐生の町は都市形態も整えられ、次第に産業都市へと発展した。やがて、絹織物では、京都西陣と肩を並べる迄にもなったのです。
今も日本の各地のどこかで、毎日のように、祭りが行われてます。なかでも"祇園祭り"と名の付くお祭りが多いですね。京都の八坂神社の祭礼で、毎年7月に行われる京都祇園祭りの地方版と云ってもよいかも知れません。心のふるさと、日本人の京都との関わりの深さを感じさせます。
京都八坂神社の由緒を見ますと、「八坂神社の歴史は、平安建都の約150年前−斉明天皇2年(656)に、スサノヲノミコトの神霊をこの地に祀ったことにはじまります。のちに、神仏習合思想により、スサノヲノミコトは祇園精舎の守護神−牛頭(ごず)天王と一体視されました。日本神話でも知られるように、スサノヲノミコトは、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。八坂神社はながらく、「祇園社」「祇園感神院」などと称しましたが、神仏分離にともなって、明治4年(1871)「八坂神社」と改称しました」 と、解説されております。
桐生は、江戸時代のはじめより、絹織物を通じ、江戸、京都との間の人と物の往来が頻繁とあり、京や江戸の先進の文物が桐生にもたらされ、商売繁盛と生活文化の向上で生活のゆとりが生じ、住民の関心が物から心の安穏へと移り、祭礼への帰依心の高まりで、祭りの規模が盛大になっていったのは、昔も今も変わりはないと、思います。
奈良彰一氏の調査によりますと、現在の桐生市本町三丁目の市営住宅の地に衆生院という寺があったそうです。ここに、牛頭(ごず)天王を祀ったのです(従って、衆生院を天王社とも呼称した)。明治になって、本家の京都祇園社が八坂神社と改めたのを期に、祇園社の分社であった衆生院も、八坂神社と改名し、今日に至っております。江戸期を通し、京都の祇園まつりと同様に、桐生でも祇園社の祭礼の"祇園祭り"が行われていたであろうことは、容易に想像できます。
奈良氏は、桐生の祭礼記録では、明暦2年(1656)の祭礼記録が最も古いので、これを桐生祇園の起源とする と、話しておられます。ですから、桐生祇園祭りは350年という永い伝統を持った由緒あるお祭りなのです。
織物業で活気に充ちた桐生には、商売の市(いち)が立ち、市神(いちがみ)が建てられた。この市神と天王社が一緒に祭りをするようになってから、益々祭りが華やかになり、賑わうようになったのです。安政の頃には、本町一丁から六丁の屋台が建造された。経済力と文化的資質が高かった桐生には、多くの文人達が呼び寄せられ、そして輩出した。そのような土壌や気風が、祇園祭りの鉾や屋台、祇園囃子や神輿、大幟にみられるように彫刻、絵画、書など、素晴らしい祭礼芸術を創造すことになった。