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八王子

"八王子まつり"

 東京都八王子市のホームページのプロフィールで、八王子市を次ぎの様に紹介しております。

「八王子市は、東京都心から西へ約40Km、新宿から電車で約40分の距離に位置しています。地形はおおむね盆地状で、北・西・南は海抜200mから800mほどの丘陵地帯に囲まれ、東は関東平野に続いています。大正6年の市制施行から80年を経た現在は、人口50万人の多摩地区の中核都市として、21の大学を抱えた学園都市として、発展を続けています。八王子市には、21の大学・短期大学・国立高専があり、11万人を超える学生が学んでいる全国でも有数の学園都市です。」

 右図は、「マピオン首都圏広域路線図」の一部分を参照した八王子周辺のJR路線図です。
 8月2日、東京都八王子市を訪問しました。「八王子まつり」の開催日が、私の住む高崎のまつりと毎年同じなのです。今年こそは八王子へ行こうと計画して、7月31日から三日間の八王子まつりの最終日の8月2日の午後の訪問となりました。高崎から八高線に乗って、八王子駅に午後3時に入りました。駅舎が大手のデパートとなっているからか、改札口を出ますと、広いコンコースは、特売品が山と積まれた展示台が列をなしており、その廻りに沢山の人だかりが出来てました。

 駅舎内の大勢の人達全てがお祭り見物の人でないでしょうが、新宿や池袋駅の様な賑わいで、流石、東京都下多摩地区の多数の市町の中で、トップの中核都市と呼ばれる八王子市の貫禄を感じました。 早速、駅頭でまつりのパンフレットを貰って見ましたら、既に、昼の山車の巡行は終わりで、夜の曳行を待つしかありませんでした。

 駅前に出ると、駅舎を取り囲む様に立ち並ぶビル群は夏の太陽に輝いて、眩しいほどでした。一瞬、東京都心のターミナル駅前と見間違えるほどでした。すると、すぐに軽やかな囃子の音が聞こえてきました。見ますと目の前のビルの角に居囃しのステージがあって、盛んにお囃子と、お多福面の踊りが演じられてました。川越や飯能の山車囃子と同じで、締太鼓(小太鼓)が2、大太鼓が1、笛が1、鉦が1の囃子に合わせて、舞を披露しておりました。

 八王子は、江戸時代以降、甲州街道や、今の国道16号線に添った陸路で、甲斐から関西方面そして、武州埼玉から千葉、茨城へと関東の西、北、東部と交流の拠点になっていたそうです。川越が江戸の北の守りであれば、幕府領(直轄地)であった八王子は幕府の西の砦でした。交流を通じ、地理的にもそれほど遠くない川越や八王子が中心となった江戸周辺の山車祭り文化圏とも云えるものが当時、既にあったと考えられます。

 パンフレットの案内図を見ながら駅前から、甲州街道に向かって歩き出しました。駅舎の壁に垂れ下がった八王子祭りの大きな垂れ幕、街路に張られた祭りの飾りや旗で祭りの雰囲気も上々の中、日曜日の祭りで近隣からの人出も多いのか、街路は大勢の人達が行き交ってました。道の角々には、交通整理の警察官がおりましたが、側に止めてあったパトカーのドアに警視庁と書かれていたを見たとき、あぁ、ここは東京なんだ、と思わず叫んでしまいました。

 少し歩くと午後の山車巡行を終えた山車が道脇に駐車してました。
宮下町の屋台でした。停車中でも、屋台正面でお囃子の演奏と、お多福の舞が盛んに行われておりました。屋台の幅は一間180cm、長さ二間360cm、屋根棟高二間程の大きさで、唐破風の屋根の中央部から後部に掛けて、高欄を廻した人形座あります。

 八王子の山車(又は、屋台)は、外観が三通りあります。江戸の後期の祭礼から登場したといわれる屋根付き一本柱山車は、土台に四本柱を立て、破風屋根を載せ、屋根の中央に穴を明け、そこを通すように土台から一本柱が立てられて、柱の尖端に台座が設けられ、人形などが飾られた山車だそうです。

 この屋根付き一本柱山車の流れを受け継いだ形式で、六本柱に屋根を載せ、前部が囃子台、後部が楽屋部分となる飾り屋台に一本柱を立てた形式が、初期の八王子型屋台だったそうです。

一本柱形式でありながら、高欄付きの人形台座を屋根に設けたのが、この宮本の屋台の形式です。この形式の山車(屋台)を、八王子では「単層唐破風一本柱後建て人形山車」と、呼んでおります。今回の訪問ではこの形式の山車は、この宮本町のものだけしか見る機会がありませんでした。

 江戸末期頃になると、江戸天下祭りの曳き物は、鉾台型の山車が主流になりました。鉾台型の山車というのは二輪の土台(江戸以外では人が曳くため四輪か三輪)上を、前面を囃子台にして、後ろを鉾台にしたものです。鉾台には一重式と二重式が作られたのです。鉾台の部分には幕を吊っていました。一重式では両側と背面、二重式では上の鉾の四面に幕を吊ったわけです。やがて、囃子台には唐破風屋根が付き、鉾台山車の形式が関東周辺に広まったのです。

 当然、八王子へもこの鉾台型が伝わったのですが、八王子ではこの鉾台の幕の部分を全て彫刻で埋め尽くしたのです。これが八王子山車の第2の形式で、八王子の山車形式の主流となったのです。鉾台が二重のもの、三重のものがあります。画像は、横山町三丁目の山車です。単層唐破風一本柱形式も、鉾台形式も頂上に人形が載せられて初めて完全な姿となるわけです。しかし、今では八王子の山車、屋台は全て、人形を載せずに曳行されておりました。画をクリックしますと、別角度の画になります。

 お祭りのメイン会場となっている歩行者専用の甲州街道は、人で一杯でした。車道のあちこでは、関東連合太鼓の各部隊が勇壮な太鼓の連弾の披露の真っ最中でした。

 その歩道に面した東京相和銀行八王子支店内の一隅に、横山町三丁目の山車の人形が鎮座しておりました。織田信長公の凛々しい人形です。"横三"の山車が平成6年に"復元"され、人形を"新車"の鉾の上に載せて、曳行したときの様子のポスターがガラス窓に張られて陳列されてました。実際にこのような立派な山車人形があるのに、人形が載った完全な山車の姿を、ポスターだけで見るしかないのは、誰しも不本意に感じるのではないでしょうか。

 山車巡行ルートの整備と、街の美観の一層の向上に役立つ電線の地中化を早く実現して、一本柱の人形山車や人形を載せた鉾台山車が楽に運行出来るように、街路の環境を改善して欲しいものです。

 八王子の第3の山車形式は堂宮(どうみや)型の山車です。私が夜の山車巡行の時に見ました次の2台が堂宮形式の山車でした。堂宮形式とは、山車の後部の単層、重層の鉾台の屋根が入母屋造りの山車のことです。

 三崎町の山車は八王子市指定有形文化財です。前部囃子台は屋根が唐破風、後部楽屋は単層構造で、入母屋四つ棟造りの屋根が特徴です。左右両側は半花頭窓を付し、欄間上、左右と背面の三方に黒漆塗りの端が反り上がっている刎高欄(はねこうらん)を巡らし、正面唐破風屋根の鬼板や懸魚、左右の脇障子、楽屋左右の腰板などに多種の彫刻が施されてます。

 元横町の山車は八王子市指定有形文化財です。前部囃子台は屋根が唐破風、後部楽屋は二層構造で、下層は左右に花頭窓を設け、正面と左右の三方に擬宝珠高欄を巡らす。二層の境は、左右、背面三方に漆塗り刎高欄を巡らしてます。彫刻は多種の作品で、豪華です。三崎、元横両町とも画をクリックしますと、拡大します。

 普段馴染みのない花頭窓(かとうまど)とは、寺などで主に用いられる炎の形をした窓のことです。火(か)は火災の通じるので、花の文字を使います。半花頭窓は、窓の枠が下まで届かずに途中でおわっている花頭窓のこと。画は宮下町の屋台の花頭窓です。

 
 八王子の山車は人形などを載せていないとお話ししましたが、例外がありました。中町の山車には、"諫鼓鶏(かんこどり)"と呼ばれる翼を左右に拡げた白い鳥が、鉾台の天辺に載っておりました。

 天下祭りと呼ばれた江戸の天王祭りや神田祭りでは、大伝馬町が「鶏」を、南伝馬町が「猿」を江戸初期から後期に至る迄、山車の飾りとして終始一貫守り続けて、一度として他の飾りは使わなかったそうです。ですので、常に巡行の一番、二番を行く特権を持っており、「鶏」と「猿」として二つ一組のような存在になっていました。大伝馬町は鶏と太鼓を対にして飾ったので、諫鼓鶏と呼んだのでしょう。祭り研究者の記述によりますと、天王祭では鶏は班入り羽(ふいりばね 地の色と違った色がまだらにまじっている羽)、神田祭りでは白羽であったそうです。十二支の順番は「さるとり」ですので、最初の頃は一番が猿でしたが、将軍様の命で、元和の頃から鶏が一番になったそうです。猿は、秀吉か(^o^)  画をクリックしますと、拡大します。

 山車の彫刻など装飾物を細かく観察するのには、山車の昼間の巡行時が一番でした。八王子山車の特徴の彫刻を来年は、昼間、じっくり観察して、レポートしたいと思います。

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