栃木 鹿沼市"鹿沼秋まつり"
10月10日(土)、11日(日)
鹿沼は、江戸、東京から北へおよそ100Kmの距離に位置し、南は宇都宮に接するとともに、日光と隣接する西北部には奥深い山々が連なっています。また、黒川などの街中をを流れる川は、緑と清流に囲まれた快適な住環境になってます。
江戸時代始めに、群馬高崎宿で中山道から分岐して、日光東照宮へと京都の朝廷からの勅使が通った「日光例弊使街道」が整備され、宿場町として栄えました。なかでも、商業が発展して、特に麻や木綿、木材などの取り引きは賑わい、近郷の商品流通の中心地となりました。 「さつき」が演芸用の"鹿沼土"とともに有名で、いまでも全国に出荷され、家庭園芸家に沢山愛用されてます。現在は「鹿沼土」「さつき」以外にも「木工」「建具」「イチゴ」が盛んです。
江戸初期に、この地方を襲った干ばつの大飢饉の際、民を救ったとする鹿沼宿の今宮神社の秋祭りが始まり、付け祭りの曳きものとして簡単な踊り屋台が奉納されたの最初だそうです。そして、見る人を釘付けするほどの緻密繊細な彫刻で、ひぐらし門といわれた日光東照宮の造営の木工職人の技や心意気が伝統として残っていた為か、その後の江戸中期以降、下野(しもつけ、栃木県)の各地で、独特の形態である彫刻で飾った屋台が産み出され、白木、彩色の彫刻で飾られた数多くの彫刻屋台が作られ、今に至っておるのだそうです。
現在も、交通の要所でもあり、高速道路は東北自動車道、鉄道では、JR鹿沼駅で、JR日光線[宇都宮〜日光]、 新鹿沼駅では東武日光線[浅草〜日光・鬼怒川・川治・会津高原]と首都圏からのアクセスも便利です。
10月11日の日曜日は、前日の体育の日に続いて、朝から秋晴れの絶好の祭り日となりました。これまでも、山車祭り見物で出掛ける時の乗り物は、なるべく電車などを使う様にしてます。今では、山車や屋台の巡行が神社の付け祭りとは云え、祭りそのもんが既に市民、住民の楽しいイベントして定着してます。ほとんどの祭礼が開催地の市や町の行事として、運営されてます。
町の活性化や過疎対策など動機も様々かも知れませんが、祭りを大切な地元の行事として、市や町を挙げて取り組む形が定着しました。当然、市や町の表玄関としての、JR、私鉄の駅前は祭りの垂れ幕や飾り付けで、いつもとは違った華やかな気分が漂い、居囃子の笛太鼓の音を奏でたりして、訪れた人達を祭りの雰囲気で出迎えてくれるのは、最高のもてなしと感謝してます。それから、今では各地とも、駅で大概、案内パンフレットを配布してくれるので、祭り見聞にはありがたい、うれしい資料です。ですから、距離の遠近に関係なく、できるでけ電車、バスで祭り見物に出掛ける様にしております。
作者の住む群馬県高崎市と、お隣の栃木県小山市との間にはJR両毛線が走ってます。両毛とは、群馬、栃木の国名の古称が、上毛野(かみつけの)と、下毛野(しもつけの)であったので、二つを総称した時の呼称が両毛である、と広辞苑に載ってます。単線のローカル線ですが電車です。朝、6時過ぎの両毛線始発電車に乗り、小山でJR宇都宮線に乗り換え、宇都宮でJR日光線に乗ればすぐに、鹿沼です。
降り立った鹿沼駅舎の前の観光看板には、かわいい屋台のイラスト画と"彫刻のまち、鹿沼宿"の文字が踊ってました。駅頭で「鹿沼秋祭り」のA4とB4サイズの裏表カラー印刷の祭り案内チラシの配布を受けました。A4チラシの表紙には、金色や珠色などで彩色された彫刻がびっしりはめ込まれた豪華な彩色彫刻漆塗屋台の写真が載ってました。うわぁ〜、凄いなと思わず叫んだ程でした。"こりゃぁ、早く現物を見たいなぁ" との気持ちに駆られました。
鹿沼駅前のロータリー脇に、既に屋台が7台が二列に向かい合う形で並んでおりました。ですが、さっき貰った案内チラシの表紙の様な彩色された彫刻屋台ではなく、白木のままの彫刻の屋台でした。
巡行前のミーティングだったのか、それぞれの屋台の屋根の上に6、7人の法被、前掛け、地下足袋姿の若衆が乗って、それも胸に白布を巻いて、髪をたくし上げた若い女性が多かったのですが、全員が起立して、組頭らしき人の話を聴いてました。話が済むと、屋台の周囲にいる梃子の人や屋根の若者が一斉に威勢よく手締め(20KB 45秒)をして、屋台の番をする人が残って、解散しました。午後の巡行まで休憩の様子でした。そこで、ゆっくりと屋台に近づいて、見学をしました。
屋台の町名をメモしながら、カメラで外観や、彫刻を撮影しました。鹿沼駅周辺の町内の屋台でして、上野町(うわのまち)、府中町、府所町(ふどころちょう)、府所本町、朝日町、上田町(かみたまち)、文化橋町の屋台でした。
彫刻は屋根の鬼板と、その下の懸魚の彫刻がどれも、大きく見事な彫刻でして、屋台の象徴になっておるのが分かります。後で、気が付いたのですが、一部の例外(仲町、中田町、麻苧町)を除き、白木造りの屋台は新しく、昭和以降に造られ屋台でした。彩色や漆塗りの彫刻屋台は、江戸期から明治時代に造られたのですが、直ぐに彩色はしないで、後から、年月を掛けて、彩色、漆塗りを加えていったのだそうです。鹿沼ばかりでなく、下野の国(栃木)の彫刻屋台はどの時代に造られたとしても、最初は全てが彫刻はじめ屋台全体が、素材のままの、白木造りの屋台であったということになります。
鹿沼市街の中心部は、東側のJR日光線と西側を走る東武日光線とで、丁度、挟まれた感じの地勢になってます。JR鹿沼駅前から西へ向かう国道293号を歩き出しました。貰った案内チラシで、このまま進めば突き当たりが市役所で、すぐそばに今宮神社がある筈だ。幸い晴天で、さわやかな秋の風情を感じながら、歩道を暫く歩きますと橋になりました。駅からここまでの間は、人通りも少なく、お祭り日としては以外に静かだなぁ、と思ったほどでした。
欄干に府中橋と記された橋を渡ると、前方に繁華街が拡がって来ました。橋を渡る前と随分違った雰囲気となって、道路の両側の飾り付けも多くなって、市制50周年記念の鹿沼秋祭りを祝うという横断幕が何本も張り出されてました。中心街は、人通りも多くなって来ましたが、案内チラシでは、鹿沼全屋台の「巡回パレード」は、午後2時からとなってますから、余り混まぬ内に屋台の様子を見学しようと、最初に今宮神社へと向かいました。
駅頭で貰った祭りチラシのB4版の説明の中に、「今宮神社付け祭り及び神社御輿巡幸習俗」が載ってました。それによりますと、慶長十三年(1608年)は、大干ばつで、氏子や近郷の人々が今宮神社に集まり、雨乞いの祭りを三日三晩続けたところ、霊験あらたかに激しい雷雨がおこったそうです。
願いを叶えてくれたこの日と翌日の二日間を、今宮神社の宵祭り、例祭として祝ったのだそうです。その祭りの付け祭りとして、踊り屋台を奉納していたが、文政、天保の改革での華美風俗禁止令で、屋台の全面を彫刻で飾るようになったことが、鹿沼の彫刻屋台の伝統となったのだそうです。御輿巡幸が加わったのは、明治になってからだそうです。
神社を出て、歩行者専用の"お祭りロード"を南に進むと前方に屋台の姿が見えてきました。午後2時過ぎからの屋台巡行迄は、屋台は各氏子町内で休憩中の様子でしたから、屋台をすぐ近くで見学できるチャンスですので、小走りでその屋台へ向かいました。
"わぁ〜!凄く、綺麗な屋台だなぁ!" 石橋町の屋台でした。屋台の周りをぐるぐる廻りながら、指を触れるわけにはいきませんが、眼をそばに近づけて、彫刻の様子見たり、少し離れて、外観全体を見たりしました。なるほどなぁ、立派な屋台だなぁと驚くばかりでした。彫りの見事さと、彩色の見事さの両方でもって、現在見られる鹿沼一華麗な屋台と云われておるのも、むべなるかなの思いでした。 屋根の鬼板や懸魚の鮮やかな彩りで彩色された金鶏鳥と菊の彫刻、左右前側面の飾り脇障子や高欄下、車隠しなどに施された小鳥や菊水の繊細でやわらかな花鳥彫りの数々は、彩色もまことに鮮やかで、華麗さも極致の見事な眺めでした。屋台の後ろ鬼板、後ろ懸魚の彫刻も、前部に劣らず豪華でした。屋台背面はびっしりと菊と鳥の彫りもので埋まってました。
鳥居跡町(とりいどちょう)の屋台の正面です。前から三分の一の所が格子戸で仕切られていて、前の部分は踊り場の舞台となっていて、その後ろ側がお囃子の楽屋になってます。大太鼓が1個、締め太鼓2個備えられています。囃子手は起立の姿勢で太鼓を叩きます。鹿沼の彫刻屋台は皆、この形式でした。
笛と鉦が伴奏します。 早いテンポの軽妙な囃子です。埼玉の川越、飯能方面の山車囃子によく似てます。巡行パレードの際、全部の屋台が同じこの囃子を演奏しておりました。
鳥居跡町のお囃子118KB 60秒、石橋町のお囃子118KB 60秒の二つをお聴き下さい。
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