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中山道・倉賀野宿の祭礼の探訪記!


江戸末期、浮世絵師・渓斎英泉(けいさい えいせん)が描いた木曾街道六拾九次の倉賀野宿の烏川(からすがわ)の河岸の様子。烏川の川辺で洗濯をする女、川の中に裸で遊ぶ童、それを覗き込む遊女、川面には筏に乗る船頭、背景は榛名山の眺望。尚、渓斎 英泉とは、江戸時代末期に活躍した日本の浮世絵師です。

 この上のMapionのロゴをクリックしますと、倉賀野町の市街地の地図が出ます。地図画面の左上隅の太い←をクリックしますと、ホームページに戻ります。

地図ソフト先駆者の"マピオン"で表示された地図が倉賀野町、江戸時代の倉賀野宿です。地図の真ん中部分に、旧中山道と国道354号(京都と日光を結んだ例弊使街道)とが分離する交差点があります。その交差点に旅人に道案内をする石の常夜灯があります。

倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。かつては江戸時代、烏川を利用した舟運搬の河岸があった。江戸から倉賀野への上り荷は塩、茶、小間物、木綿、干鰯など、倉賀野から江戸への下り荷は米、大豆、たばこ、麻、など、地元の上野国(こうずけのくに)ばかりでなく、越後、信州との交易を中継する河岸の賑わいと、日光東照宮の参詣者が通る例弊使街道、京都、江戸間の中山道を通る人馬の流れ、参勤交代の大名のお通りなど、長さ11町38間(約1.2km)に及ぶ上町、中町、下町の賑わいは四季を問わず、水陸とも賑わいの途絶えることの無かったと云われた倉賀野宿でした。現在の群馬県高崎市倉賀野町にあたる。

次の手書きマップは倉賀野町の主要の道路と建物、上町、中町、下町の3基の山車・屋台の収納庫・山車倉の場所を示します。

次に掲示に戻ります。


絵図の

倉賀野町って、どんな所なのかな?

中山道沿いの倉賀野宿は、上・中・下の三町に区分され、江戸に近い方が下であり、上方寄りが上となる。江戸から高崎宿へ向う中山道が倉賀野宿の入り口に在った「下の木戸」の外側の、日光例弊使街道と分岐する追分に閻魔堂(えんまどう)が建てられ、近世には念仏堂・阿弥陀堂途呼ばれていたが、今は閻魔堂と呼ばれ、町人には親しまれている。

明治17年に鉄道(現在のJR高崎線)が開通するまでは、倉賀野宿の南の烏川(からすかわ)の河岸に集まる荷物の積み下ろし為の人馬の往来で賑わった。現在の町の中心部の中町、下町の地域は倉賀野駅の東側で、JR高崎線の線路を北の境とし、南の境を旧中山道沿いの家並みの中には、入母屋造りのウダチ(注)を構えた大きな旧家が現存しております。

注:江戸時代の民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたものもあり、装飾と防火を兼ねる。<うだつ(ウダチ)が上がらない>出世ができない。身分がぱっとしない。富裕の家でないと「うだち」を上げられなかったことから転じたといわれる(広辞苑)。

JR線路の南側に下町の氏神となる諏訪神社があり、毎年八月の祭礼に下町の山車が曳れる。

諏訪神社と並んで下町町民に崇敬を集めているの閻魔堂です。元々は本像の阿弥陀如来像を安置した阿弥陀堂と呼ばれていたが、江戸後期になって閻魔像を阿弥陀像の脇に拝して、閻魔堂と称せられる様になったという。

例弊使街道と中山道から分岐する交差する場所に、大きな卍の彫られた屋根瓦を乗せる閻魔堂が大きく眺められるその脇には、上方や江戸から日光へ向かう旅人からの浄財が寄せられことを示す石灯籠が建ってます。石灯籠の礎石には、日光参詣の途中に寄ったのであろうか、江戸両国の大相撲力士、行司の名前が彫られております。その中に、雷電玉衛門の名もあります。

 諏訪神社の祭礼は八月二十六日で、山車が町内を練り歩く。この十日前の八月十六日は閻魔堂の縁日で、この日にも山車を出す。倉賀野総鎮守である倉賀野神社の祭礼は特別な記念行事の行われるときには、昭和初期までは上、中、下、南、田屋の五台のお曳山が勢ぞろいし、倉賀野町を巡行した。現在は、太鼓連は山車保存会などの事情も町内毎に異なり、五台の曳山が勢ぞろいすることはなくなった。町内毎の神社の祭礼を中心に、倉賀野神社の祭礼や記念行事の際に曳出されるが、どの機会にも必ずというわけではなく、曳山の参加は各町内の意向に任されている。    南町と田屋町の屋台は、収納庫に保管されたままで、両町とも平成に入ってからは曳行されてない。

ご紹介物件

ご説明

閻魔堂
上の堂の画像をクリックしますと拡大します。左上隅の←で戻れます。尚、本ホームページでは、静止画像は大半がクリックで拡大可能にしておりますので、マウスを画像に乗せてみて下さい。

閻魔堂新築開眼法要クリックしますと、平成27年6月12日の開眼法要に参列した際の画像です。新装の堂内の様子をご覧ください。

堂宇の正面入り口の壁面に堂の説明板が設置されている。<阿弥陀堂 通称「閻魔堂」。この堂は日光例使街道の起点に位置し、江戸時代には「浄土宗阿弥陀堂」であったが、明治四十一年より、浄土宗九品寺跳び地境内仏堂として、存置。「寺院明細帳」より。八月十六日は本尊阿弥陀如来の開帳で、百万遍念珠繰りや露店も出て、近在からも多くの善男善女の参詣があった。平成二十六年二月の大雪で瓦損傷又建物の老朽化が酷くなり、同年九月に解体し平成二十七年五月に再建完了。再建寄進の個人名の銘記。>

上及び右の画像をクリックしますと、拡大します。閻魔堂を二又のY形交差点の中央から撮った画像です。左方向へ進むと国道354の例弊使街道となり、右方向は旧中山道で大宮、東京方向へ進みます。

閻魔堂の脇に設置されている常夜灯、ここから東照宮への十四宿二十三里の起点であり、四角の石柱には東面に南無阿弥陀仏、西面には従是右江戸左日光道と刻まれている。

常夜灯の脇に市役所教育委員会が設置した市指定史跡の掲示板です。常夜灯と石柱の説明です。

高崎市と(社)観光協会が設置した例幣使街道と常夜灯の解説看板です。閻魔堂の脇に設置されている常夜灯、ここから東照宮への十四宿二十三里余の起点であり、四角の石柱には東面に南無阿弥陀仏、西面には従是右江戸左日光道と刻まれている。

常夜灯の下から二番目の台石の四面に、びっしりと寄進者の刻名があり、当時の大相撲の関取りの雷電為右衛門、行司の木村庄之助の名もある。
雷電為右衛門(らいでん ためえもん)明和4年(1767年)- 文政8年(1825年)。常夜灯の設置時期が予想できる。

為右衛門は信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士。現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされた。ウイキぺディア参照。

  諏訪神社
下町の地域氏神。境内に下町公民館と、下町の屋台収納倉も在って地域住民の支持が高い。諏訪神社の祭礼は八月二十六日で、山車が町内を練り歩く。この十日前の八月十六日は閻魔堂の縁日で、この日にも山車を出すので、毎年、夏祭りを中心に住民活動が活発。大正天皇が皇太子の時代に本神社を参拝あったとの記念碑が建っております。

祭りを盛り上げる熱意を感じさせる行灯・あんどん式のお知らせ掲示板。素朴で微笑ましい。

  倉賀野神社
倉賀野総鎮守である倉賀野神社の祭礼は特別な記念行事の行われるときには、昭和初期までは上、中、下、南、田屋の五台のお曳山が倉賀野神社境内に勢ぞろいし、倉賀野町を巡行した。現在は、太鼓連は山車保存会などの事情も町内毎に異なり、五台の曳山が勢ぞろいすることはなくなった。南、田屋は平成になって、屋台曳は無いとの事ですが、囃子の稽古は続けて欲しいです。

上町と中町は倉賀野神社の祭礼や記念行事の際に屋台、山車を曳出するが、どの機会にも必ずというわけではなく、下町は毎年8月の諏訪神社と閻魔堂の縁日の両日に屋台を曳くが、中町は毎年7月に中町山車倉の前で、倉賀野神社の神主のお祓いとお囃子大会をする夏祭りなど、各町内の意向に任されている。上、中、下の三町の山車・屋台の揃い踏みを観たい思いです。倉賀野神社境内の神楽殿の脇に、上町の屋台倉があります。

 大山家
街道の拡幅に伴い、昭和九年(1934)に建て替えられたが、それ以前の建物と間取りを同じにした。昭和六十三年(1988)に改修し、主屋と土蔵、門そして塀や松が一体となり、中山道に沿う現在のような整った景観となっている。たかさき都市景観賞受賞。倉賀野マップより抜粋。

 矢島家
中山道に沿って町屋の佇まいを残す主屋は、二階屋根を出し桁で支えるせがい造りで、和風の伝統的な要素が感じられる。以前、主家東の下屋(げや/ 主屋の外壁に接して設けられた片流れの屋根、及びその下にある空間)には土間があり、食事をとる座敷きがあった。前述の"倉賀野町って、どんな所なのかな?" で、ご紹介した「うだち」(建物の両脇の白い壁)の掲げられた家です。倉賀野マップより抜粋。


倉賀野町の下町の屋台

巡行の様子を動画でご覧下さい


<下町の屋台> 巡行開始直後、
旧中山道を下って、例幣使街道を進む。
画像をクリックすると、拡大します。 

ビデオカメラの画像をクリックしますと、下町の屋台巡行の動画がご覧になれます。 


<下町の屋台> 例幣使街道をUターンして、閻魔堂方向へ。
画像をクリックすると、拡大します。 

ビデオカメラの画像をクリックしますと、下町の屋台巡行の動画がご覧になれます。


<下町の屋台> 旧中山道と例幣使道のY路交差点をターンして、
閻魔堂前へ出て、旧中山道を直進。
画像をクリックすると、拡大します。 

ビデオカメラの画像をクリックしますと、下町の屋台巡行の動画がご覧になれます。  


<下町の屋台> 旧中山道を東へ直進した後、Uターンして、閻魔堂前を直進し、
中町方向へ進む。
画像をクリックすると、拡大します。 

ビデオカメラの画像をクリックしますと、下町の屋台巡行の動画がご覧になれます。  


<下町の屋台>旧中山道沿いの旧家の「大黒屋」の敷地で休憩。
ご婦人の見事なお囃しが鑑賞できた。
画像をクリックすると、拡大します。 

ビデオカメラの画像をクリックしますと、下町のご婦人4人の見事なお囃子演奏の動画がご覧になれます。  


倉賀野町の上町、仲町、下町の3基の揃い踏み!画像

次の上町、中町、下町の山車・屋台の画像は、15年前に撮った画像です。
平成12年(2000年)の高崎市制施行100周年の年に行われた「高崎まつり」は、全市民挙げて、記念祝賀の行事に積極的に参加して貰うおうとの意向の現れで、普段の「高崎まつり」には参加してなかった郊外地域の山車と屋台の特別参加がありました。倉賀野町の山車と屋台で3基、我峰町(あがみね)と上小塙町(かみこばなまち)の屋台が各1基での合計5基の特別参加でした。山車・屋台は解体し、トラックでの運搬でした。


<上町の屋台>
この上町の屋台の画像は15年前に撮った画像です。中町の山車と下町の屋台と一緒に、高崎市役所前の「もてなし広場」でお囃子を演奏しておる時の画像です。下の画像は「もてなし広場」での倉賀野町の上町、仲町、下町の3基の揃い踏み!画像です。倉賀野町上町の曳山は、明治三十五年(1902)に制作されたもので、前一輪、後二輪の三輪形式の屋台である。この屋台は人形を飾らない形式のものである。 お囃子の道具として、大太鼓一つ、小太鼓四つ、笛二つ、摺り鉦二つがある。上町の屋台は、普段は倉賀野神社境内にある屋台倉に保管されている。囃子を演奏する人たちの組織として上町太鼓連がある。


<中町の山車>
この中町の屋台の画像は15年前に撮った画像です。上町と下町の屋台と一緒に、高崎市役所前の「もてなし広場」でお囃子を演奏しておる時の画像です。四輪の江戸型、前輪の梶棒(ながえ)に「免許熊谷県」の刻印が在る。明治六年(1873)から明治九年(1876)の三年間、現在の埼玉県北部地域と群馬県を併せた地域は「熊谷県」と称され、県庁は今の熊谷市であった。この熊谷県が存在した3年の間に、高崎の本町一丁目で造られた山車を、県に届け出た証拠の刻印と判断出来ますので、山車の製造年を明治六年から九年頃と推察可能です。  ★、本体は総檜作信州木曽本木迫り上げ造り。 ★、車体は赤樫四輪御所車黒漆塗り仕上げ ★、向拝の柱向かって右側昇り竜左下がり竜の彫刻。 ★、唐破風造り、破風上段鬼板飛竜 下段懸魚鳳凰の彫刻 ★、人形「浦島太郎」変化替え人形は「猩々の舞」猩々の面を付る。 ★、人形制作年代 明治七年甲戌人形師は東京 横山共之作 ★ 、水引(幕) 上段赤地羅紗に白波模様、下段松に網代塀 大丸屋製


<下町の屋台>
この下町の屋台の画像は15年前に撮った画像です。上町と中町の屋台と一緒に、高崎市役所前の「もてなし広場」でお囃子を演奏しておる時の画像です。

倉賀野町下町の曳山は、前一輪の後輪二輪の三輪の屋台である。屋台の舞台に人形の金時が飾られていたが、すでに現存していない。下町の屋台は、毎年八月十六日の閻魔堂の例大祭と同二十六日の諏訪神社の例大祭に奉供し、町内曳行が行われていたが、今は諏訪神社の例大祭では巡行はやらずに、山車倉の前でお囃子だけを行う。

倉賀野の曳山は、道祖神祭りや各町内の神社の祭礼んどの際に曳き出されてきた。また、倉賀野総鎮守である倉賀野神社の祭礼は特別な記念行事の行われるときには、昭和初期までは上、中、下、南、田屋の五台のお曳山が勢ぞろいし、倉賀野町を巡行した。

現在は、太鼓連は山車保存会などの事情も町内毎に異なり、五台の曳山が勢ぞろいすることはなくなった。町内毎の神社の祭礼を中心に、倉賀野神社の祭礼や記念行事の際に曳出されるが、どの機会にも必ずというわけではなく、曳山の参加は各町内の意向に任されている。  

"倉賀野町中町の山車の構造物の寸法

"倉賀野町下町の屋台の構造物の寸法




"倉賀野町下町の屋台の解体と倉収納の様子

平成27年8月16日(日)午前9時、下町の諏訪神社境内の屋台倉の前を出発した下町屋台は午後1時半過ぎ、下町町内の巡行を終え、屋台倉の前に無事、戻りました。"中山道倉賀野宿下山車囃子保存会"会長の鎌田会長から、巡行参加の町の人達への山車巡行の無事終了の喜びと感謝の挨拶があり、お弁当とお菓子が全員へ配られました。

この後、男衆は昼食を食べずに、屋台の屋台倉への収納の作業に入りました。先ず、胴回りの幕が外されると、部材の取り外しが始まりました。

 以下、ここでご紹介します屋台解体の進捗画像はクリックしますと拡大します。拡大画像の左上隅の←をクリックして、このページへお戻り下さい。

本体から太鼓、前張り提灯類が外されます。

屋根に上って、覆いの屋根板を外し始めます。囃子台の床板が外されます。

屋根の鬼板が外され、外された屋根板と一緒に慎重に下へ降ろされます。

屋根正面と後ろ面の破風板が外されます。

柱と梁だけが残りました。

四本の柱だけになりました。

屋台の土台の上の囃子台と破風屋根が完全に取り外された屋台は、慎重に屋台倉に収納されます。

祭り当日の午前中に、この一連の作業の逆を行って、屋台を組立ます。

上町の屋台倉をクリックしますと、大きさ形態が同じ上町の屋台が収納されている倉の画像がご覧になれます。上町の屋台は解体せずに、そのまま収納します。

屋台倉は、町内の篤志家の寄付で建てられたとのお話です。
"倉賀野町中町の山車倉庫の見聞記録

平成27年7月12日(日)午後2時から、中町山車倉の前の天幕を会場にして、中町の夏祭り、"天王祭り"のお囃子大会が開催されました。毎年行われておるそうです。小中学生が祭り半天、鉢巻姿で交代、交代で太鼓を囃します。

途中、倉賀野神社の神主が天幕の中の小形の御宮に祝詞を掲げ、小学生ら子供達と大人が榊を献上、微笑ましくも厳かな雰囲気でした。寄せられた玉串料が書かれた<のし半紙>が、次々と張り出されることから、この祭りが地元に根づいているのが分かります。

この日、午後からの祭りの前に、中町の山車倉へ訪れました。予てから、中町保存会の会長、細野氏にお願いしてあった山車の本体の観察をさせて頂き、又、山車の貴重なお話を沢山、伺いました。前掲しました本体の寸法測量の記録は、鉾を伸長した長さ以外は其の時に各部を実測致したもので、それ他「高崎市史民俗調査報告書第七集」"倉賀野町の民俗"を参照し、調査・聴取した記録を次に御紹介します。

倉賀野町仲町の山車は、元 本町一丁目の江戸型鉾台山車で、小型化した今の本一の山車が造られた時に、倉賀野町仲町へ譲られた。幅2.5m,鉾台の高欄迄の高さ4.7mで、今のものより大型。総桧造り。

 四輪御所車 梶棒に"免許熊谷県"の焼き印あり。製作年:明治七、八年頃か。 人形:浦島太郎と猩々の変化人形 人形製作者:横山共之 人形衣装:京都人丸屋庄三郎。唐破風屋根 鬼板:瑞龍 懸魚:鳳凰、向拝柱:向右 昇り龍 向左 降り龍 幕:水引(上の幕)赤地 白波模様 下幕:松樹に網代垣に林 静圓の縫い取り。曳き廻し:毎年、倉賀野神社の大祭時と国家的行事のとき(御大典)。

本体は総檜作り、信州木曽本木の鉾は迫り上げ造り。車体は赤樫四輪の御所車、黒漆塗り仕上げ。向拝の柱の向かって右側は昇り竜、左側は下がり竜の彫刻。 

向拝の屋根は唐破風造り、破風上段の鬼板は飛竜、下段の懸魚は鳳凰の彫刻。人形は「浦島太郎」。変化替え人形は「猩々の舞」、猩々の面を付ける。

一般に梶棒と呼ばれている「轅(ながえ)」に、免許熊谷県の焼き印あります。画像をクリックしますと、拡大しますので、刻印をご覧下さい。刻印は轅の長手の向きに、横向きに彫られてますから注意して見て下さい。

縦書きで、"熊谷縣"と彫ってある熊の上に右から左に横書きで、免許と彫ってありますものが、免許の頭の部分の彫りが薄くなって見づらくなってます。多分、新築の物品に掛る固定資産税の様な税金が免除された証明の刻印でしょう。

熊谷縣は明治6年(1873)6月発足、明治9年(1876)8月には廃止されてますので、その間に高崎市本町一丁目で所有を開始していた山車と考えられます。明治43年(1910)に、高崎市街地に電車が開通し、山車の巡行が難しくなって、倉賀野へ譲られたのでしょう。「高崎市史民俗調査報告書第七集」"倉賀野町の民俗”参照。

迫り上げ機・おだまき
古今集の雑歌に「いにしえのしずのおだまき〜」で、憶え易い名前?。麻糸を中が空洞になる様に巻き取る器具をヒントに名付けたもの。山車の上鉾を上下させる縄を巻き取る為に、山車の土台後部に設置。丸太に開けた穴に樫棒を差し込んで、その梶棒を前後に押し引きして、丸太に縄を巻きつけたり、巻き戻したりして鉾を上・下させる。明治時代までに造られた山車には、必ず装着されていたが、大正以降に造られた山車には、殆ど使われていない。
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