今年の「高崎まつり」は、全市民挙げて行事に積極的に参加して貰うおうとの意向の現れで、普段の高崎まつりでは見られなかった山車と屋台の特別参加がありました。倉賀野町の山車と屋台、我峰町と上小塙町(かみこばなまち)の屋台です。
山車巡行初日に、山車が勢揃いした「もてなし広場」の東隅に、倉賀野町の山車 1台と屋台 2台、我峰町と上小塙町の屋台が1台づつ 合計5台の山車、屋台が整列しました。この3町は、市町村合併で高崎市に仲間入りしたので、位置的に旧市内区域からは遠方になるので、この5台の山車屋台は、地元の祭礼だけに出場していて、高崎まつりは初めての参加でした。市制施行100周年祝賀の意向で馳せ参じてくれたのです。
高崎市発行のホームページに、市内の各町を紹介する"平成のわが町"があります。この中で、この3町を紹介している記事です。山車や屋台を保存維持しておる町は、そこでの人々の生活の歴史が長く、自然界と関わりが深いとの雰囲気が何となく、感じられます。
「倉賀野町(くらがのまち)は市の南東部にある町です。倉賀野の地名は古く、鎌倉時代の文献に見られます。クラという言葉は、建物の倉を指す場合、神の座所を指す場合、岩場を指す場合などがありますが、倉賀野のクラがいずれを指すのかはわかっていません。倉賀野は、江戸時代に中山道倉賀野宿として繁栄しました。また、烏川に面した倉賀野河岸(かし)は利根川舟運の終点であり、水上輸送の要地でした。
倉賀野町の下町には、旧中山道と旧例幣使道の分岐点があります。ここには阿弥陀(あみだ)堂(通称閻魔えんま堂)と常夜灯があり、当時の面影を残しています。倉賀野神社が町の氏子神社です。」
我峰町と上小塙町(かみこばなまち)は、高崎の西北部に位置する町です。
「我峰町(わがみねまち)も旧長野村地区の町の一つで、烏川の左岸に位置します。町の中心には、北西から南東に向かって主要地方道高崎榛名線が通っています。我峰という地名は、江戸時代には「吾嶺」と表記されたこともあり、アガミネ(上峰)が変化したものと考えられます。アガもミネも周囲より高くなった部分を指す言葉ですから、この町の辺りがわずかに高い地域をを示したものと思われます。烏川と榛名白川の合流点近くには八幡神社があり、地元で「シャケの森」と呼ばれています。かつて、サケがこの辺りまで烏川を上ってきたということです」
「上小塙町(かみこばなまち)は筑縄町の北西に接する町で、筑縄町と同様、旧六郷村地区の町の一つです。上小塙町には烏子(すないご)稲荷神社があり、その使いであるきつねの伝説が多く残されています。神社にある古墳の石室は京都の伏見稲荷へ通じていて、そこを通ってきつねが行き来していたと伝えられています」
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