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さぁっ! "第26回 高崎まつり" だ! いよいよ 山車38台の巡行だ!平成12年(2000年)8月5,6日
 

 山車巡行はお祭りの華。高崎市内の山車38台が総出場しました。南地区13台、東地区7台、北地区9台 そして中央地区9台の合わせて38台もの多くの数の江戸型鉾台山車が、まとまって一斉に巡行するのは、全国でも、ここ「高崎まつり」だけではないかと思います。
8月5日、6日の両日とも、各山車は単独で氏子町内をご披露の曳行をした後、5日は午後4時30分、6日は午後3時に、各地区毎に所定の集合場所へ整列しました。

 もてなし広場は、来訪された方を暖かく迎えたいという思いを込め「もてなし広場」と名付けました。平成10年5月6日、新市庁舎の開庁に伴い、この旧庁舎跡地を多くの市民に利用していただくため、広場として整備したものです。芝植えとアスファルト舗装の広場で、朝市や高崎まつり、各種団体のイベントなどに利用されます。音楽センターなど、この広場を囲むように配置された各施設の、広い空間のある環境のなかでの落ち着いた眺めは、高崎市の象徴的な都市美を現出しておると思います。   

 5日の祭り初日は、朝から夏の青空が拡がり、気温も昼前には既に30度を超え、自町内巡りの山車曳きで、衣装の腹掛けが汗でびっしょりになるほどの暑い日になってました。8月に入ってから夕刻になると、雷雨になる日が続いていたので、心配をしていたのですが、5日午後5時半、全山車が「もてなし広場」に向かって、曳行を始める直前頃から、にわかに雲の動きが激しくなって、雷が鳴り始めました。願いもむなしく、稲妻と雷鳴の間隔が短くなり、やがて雨となってしまいました。透明に近いとはいえ、ビニールシートで覆われた山車では見映えも半減してしまいます。

 祈る気持ちで雷雨の過ぎるのを待ちましたが、降雨の避難で、各地区とも巡行時間が遅れ出し、中央地区の9台が「もてなし広場」の所定の勢揃い場所に未だ到着していない状態のままで、山車巡行祝賀セレモニーを開始せざるを得ない状況になってしまいました。広場到着が遅れた地区の山車と入れ替わりに、出発時刻になっていた別の地区の山車は動き出しました。
 この稲妻の走る画像(クリックでの別画像も) は、高崎市 鈴木 晃氏の撮影です。8月5日 もてなし広場より、スズランデパート方向。左から高砂町、住吉町の山車。 

 

 山車巡行の初日5日のハイライトは、「もてなし広場」の内外に勢揃いした38台の山車の総見でした。山車38台を出来るだけ一ヶ所で、一望できる様にと、「もてなし広場」の内と外に、広場を囲むように集結させ、勢揃いした形と大きさの揃った江戸型鉾台形式の山車38台の素晴らしい眺めを演出したく、これまでいろいろ準備をしてきたのです。

 次の図は、5日の山車38台の勢揃い場所の「もてなし広場」内外の、各山車の勢揃い位置を示します。 山車の札番号で、1〜13が南地区、14〜20が東地区、21〜29が北地区そして、30〜38が中央地区です。
 予定では、この図の様に38台の山車が一堂に勢揃いして、ステージでの祝賀セレモニーを挟んで、総数38台の江戸型鉾台山車の威容とお囃子の饗宴で、市制施行100周年を祝おう、というものでした。

 迫り上がった鉾台上の神像の人形と、金糸銀糸の刺繍で彩られた四方幕や彩色、金箔も鮮やかな華麗な彫刻で埋められた破風屋根や囃子台の向拝(ごはい)柱、欄間などを鑑賞しながら、ゆっくりした旋律で奏でられる笛、太鼓の情緒深い山車囃子を充分、お楽しみ頂けた筈の予定でしたが、雷雨で、中途半端になってしまい、ほんとうに残念でした。

各町名の付いた をクリックしますと、山車の画像ページに変わります。ブラウザーの左上の「戻る」か、山車の画像ページの下端の「もてなし広場」に戻るをクリックして、このページにお戻り下さい。

 それでも、午後8時近くになって、やっと雷雨が遠ざかり始めますと、高崎中心市街は山車の隊列で埋まりました。山車のビニールシートも取り外され、降ろされていた人形と鉾台が再び高く上へ延ばされ、明るく点灯された提灯とスポットライトに照らし出された華麗な山車行列となりました。息を吹き返したお囃子と曳き手の歓声の中、打ち上げ花火の輝きと炸裂音も加わり、雷雨を避けていた観客も道路に戻り、俄然、お祭り気分が昂揚してきました。
 唯、思わぬ長時間の雷雨で、山車巡行の時間が遅れ、交通規制の解除時刻と山車の帰投時刻が迫ってしまったので、予定していた各地区毎の叩き合いも、東地区以外は中止せざるを得なくなって、我が北地区も中止となり、このときの為に練習に励んだ成田町の笛太鼓の囃子連中のひとりとしても、ほんとに残念でしたが、やむを得ません。

うぅん、さすが! "総数38台の山車勢揃いの眺めは素晴らしい"

  2日目の翌6日も前日と同様に、朝から暑い太陽がギラギラと輝き、正午前には早くも赤城山の上空には白い入道雲が、晴れ渡った青空を突き抜ける様に沸き上がり、夏本番を感じさせておりました。6日の全山車38台は、シンフォニーロードと田町通りに隊列状に勢揃いし、その後、市中を巡行しました。今年の高崎まつりから、石原町下3と下4の山車がデビューしたので、南地区が総数で2台増えて、13台になり、今年から「高崎まつり」に出場する山車の総数が38台になりました。両山車とも、毎年正月の地元の道祖神祭りに曳行されていたのですが、市制100周年を期して、高崎まつりに参加することになったのだそうです。2日目は、山車の巡行終了時刻が、初日より2時間早い午後7時で、従って各地区の集合と勢揃いの時刻もその分、早くなりました。2日目の山車巡行のハイライトは、シンフォニーロードに勢揃いした中央地区と北地区の山車が、新町、田町通りに勢揃い中の南地区、東地区の山車の前を通る際に、互いの曳き手衆、囃子衆の間で取り交わせらる丁々発止の踊りや歓声、掛け声のパフォーマンスと、笛、太鼓を腕を競う叩き合いの場面が、自然発生的に随所で行われたことです。

祝!市制100周年記念 山車巡行での新顔の山車2台のご紹介!

 高崎では今年の正月以降、市制施行100周年を祝ういろいろの行事が行われております。毎年盛夏の8月第一の土日に行われる「高崎まつり」を7月29、30日の土日と、8月5、6日の土日と2週に亘って行いました。後半の8月5、6日両日は、山車の総出場で "山車まつり" の様相を意図してのことです。

 昨年迄というより、つい最近迄 高崎の山車の総台数は36台と申し上げておりましたが、高崎まつりが近づいた6月頃、石原町から出場する山車が2台増えて、4台になるという情報を聞きました。市役所に尋ねて、石原町下3(しもさん)と下4(しもよん)であることを知りました。

 石原町は高崎市の南西部の町です。市の西部を南北に流れる烏川(からすがわ)の西側です。高崎市発行のホームページに、市内の各町を紹介する"平成のわが町"があります。その中で、「石原町(いしはらまち)は市南部、烏川右岸に位置する町です。江戸時代には石原村と呼ばれましたが、明治22年に片岡村の大字、昭和2年に高崎市の大字を経て、同26年に石原町となりました。石原の地名は、烏川の石の原を示すものといわれます」とあります。
 観音山丘陵の麓で、自然環境は住宅地として申し分なく、石原町は昭和30年代以降、急速に発展した町です。市の指導があって、町内会の運営の便利さなどから、古くから使っていた地名の字名(あざめい)に代えて、石原町を下一(しもいち)と下二(しもに)といった町内会の名称で、地区割りをした。下一と下二は、町内会を示す一丁目とか、二丁目と同義で使ったものです。しかし、それまで長く使っていた字名は町民の間では定着しているので、祭礼時での山車の呼称は旧字名が今でも使われている。

 「下一」は、字名が西半田の地区を中心に幾つかの字をもつ地区をひとまとめにして、下一町内会とした。同様に「下二」は字名が中石原、「下三」は字名が東半田、「下四」は字名が指出(さしで)の地区が中心になってうまれた町内会の名称です。
 今でも地元の人達は、「下一」「下二」「下三」「下四」の山車の呼称を、それぞれ西半田、中石原、東半田、指出という字名(あざめい)を使って、呼んでます。従って、山車正面の弓張提灯や鉾台提灯、曳き手衆の祭り半纏の文字は、字名で記入してあるのが多いのです。

 左は石原町下三で、右は石原町下四の山車です。ともに、"高崎鉾台型山車"の形式を踏襲した立派な江戸型です。唐破風屋根を支える正面二本の向拝柱の間に、太鼓3個が据えられるなど、旧市内の山車と大きさや仕様が殆ど同じ山車です。下一、下二の山車が昭和58年、平成元年に造られたのと違って、下三、下四の山車は、昔からの地元の道祖神まつりの飾り曳き物が、改造の積み重ねを経て、今の山車になったという歴史の長い山車です。

 鉾台の高欄周囲の提灯の「は」は東半田、「さ」は、指出の字名の頭文字です。山車正面の弓張提灯の文字は、左の下三は「東 "は組"」で、下四は「指出」となっております。今までが、正月14日の道祖神まつりなどで、地元石原町の中だけを曳き廻していたので、提灯、祭り半纏の記名が字名(あざめい)の頭文字を採って、"は"とか"さ"になったことは、容易に理解できます。

 下三の囃子は、旧市内の山車で多く演奏されている長谷川流で、ゆっくりとした調子で笛を中心とした山車囃子ですが、下四の囃子は群馬南部の伊勢崎、境、尾島や埼玉北部地方で多く囃されているテンポの早い囃子です。
 右の下四の画像をクリックしますと、下四のお囃子の様子が "動画" で、ご覧になれます。RealPlayer ストリーミング。旧市域の山車のお囃子とは随分、違ってます。

 「高崎まつり」に山車を出す町で、二台以上の複数の山車を出す町は、本町、田町、並榎 そして石原の四町だけですが、今度の高崎まつりからの石原町の4台は、本町の3台を抜いて、所有台数トップの町になります。戦後、市町村の合併で高崎市に編入された後も、合併前からあった地元の祭礼の伝統を、しっかり守り続けて来られた石原町の皆さんのご努力に感謝の気持ちと敬意を表します。

祝!市制100周年 高崎まつり 特別参加の山車と屋台のご紹介!

 今年の「高崎まつり」は、全市民挙げて行事に積極的に参加して貰うおうとの意向の現れで、普段の高崎まつりでは見られなかった山車と屋台の特別参加がありました。倉賀野町の山車と屋台、我峰町と上小塙町(かみこばなまち)の屋台です。
 山車巡行初日に、山車が勢揃いした「もてなし広場」の東隅に、倉賀野町の山車 1台と屋台 2台、我峰町と上小塙町の屋台が1台づつ 合計5台の山車、屋台が整列しました。この3町は、市町村合併で高崎市に仲間入りしたので、位置的に旧市内区域からは遠方になるので、この5台の山車屋台は、地元の祭礼だけに出場していて、高崎まつりは初めての参加でした。市制施行100周年祝賀の意向で馳せ参じてくれたのです。

 高崎市発行のホームページに、市内の各町を紹介する"平成のわが町"があります。この中で、この3町を紹介している記事です。山車や屋台を保存維持しておる町は、そこでの人々の生活の歴史が長く、自然界と関わりが深いとの雰囲気が何となく、感じられます。

 「倉賀野町(くらがのまち)は市の南東部にある町です。倉賀野の地名は古く、鎌倉時代の文献に見られます。クラという言葉は、建物の倉を指す場合、神の座所を指す場合、岩場を指す場合などがありますが、倉賀野のクラがいずれを指すのかはわかっていません。倉賀野は、江戸時代に中山道倉賀野宿として繁栄しました。また、烏川に面した倉賀野河岸(かし)は利根川舟運の終点であり、水上輸送の要地でした。 倉賀野町の下町には、旧中山道と旧例幣使道の分岐点があります。ここには阿弥陀(あみだ)堂(通称閻魔えんま堂)と常夜灯があり、当時の面影を残しています。倉賀野神社が町の氏子神社です。」

 我峰町と上小塙町(かみこばなまち)は、高崎の西北部に位置する町です。
「我峰町(わがみねまち)も旧長野村地区の町の一つで、烏川の左岸に位置します。町の中心には、北西から南東に向かって主要地方道高崎榛名線が通っています。我峰という地名は、江戸時代には「吾嶺」と表記されたこともあり、アガミネ(上峰)が変化したものと考えられます。アガもミネも周囲より高くなった部分を指す言葉ですから、この町の辺りがわずかに高い地域をを示したものと思われます。烏川と榛名白川の合流点近くには八幡神社があり、地元で「シャケの森」と呼ばれています。かつて、サケがこの辺りまで烏川を上ってきたということです」

  「上小塙町(かみこばなまち)は筑縄町の北西に接する町で、筑縄町と同様、旧六郷村地区の町の一つです。上小塙町には烏子(すないご)稲荷神社があり、その使いであるきつねの伝説が多く残されています。神社にある古墳の石室は京都の伏見稲荷へ通じていて、そこを通ってきつねが行き来していたと伝えられています」

 それでは、特別参加の山車と屋台のご紹介を致しますので、「次ぎ」をクリックして下さい。

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