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江戸中期の天下祭を飾った一本柱山車を偲ばせる祢里見聞録

 予ねてより、祭礼の写真やポスター、祭り書籍の解説などを通じて、江戸時代の天下祭りで曳行されていた一本柱・二輪式の曳き山と同じ形式の山車が、今でも"遠州・横須賀"と愛称されている静岡県大須賀町横須賀地域に存在することは、以前より承知しておりましたが、この度、その祭礼曳山である"祢里(ねり)"を観覧することができました。大須賀町三熊野神社大祭行事は、四月第一の土、日に亘って行われていて、今年の平成15年は4月の5、6日の日程でした。

 今回の三熊野神社大祭見学は、管理者が所属してます山車祭り研究会の先輩会員であります川越市のY氏からお誘いを受けて、Y氏とY氏の地元の人が4名、それに同じ研究会の会員のK氏と管理者が入って、計7名での祭り1泊研修の旅でした。車に便乗までさせて貰い、話題の豊富な人達のお蔭で、有意義で、愉快な祭礼鑑賞が出来ました。
 5日(土)午前10時川越を出発して、関越道、環八経由で東名道に入り、静岡県へ向いました。生憎、当日は朝から強い風を伴った横殴りの雨が降り続き、翌日の晴天を期待して、雨の東名を走り、午後3時半過ぎに大須賀町に到着しました。

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この地図画像は、大須賀町観光協会発行の遠州横須賀三熊野神社大祭パンフレット\300の中の、大須賀町ごあんないマップよりコピーしました。

千三百年の長い歴史持つ三熊野神社の縁起と遠州横須賀

 大須賀町発行の美麗な観光案内冊子"歴史とみどりのまち"「おおすか浪漫紀行」の冒頭の記述をそのまま紹介しますと、「北に緑豊かな小笠山、南に雄大な遠州灘を望む大須賀町は、温暖な気候に恵まれ、奈良・平安の時代には、すでに集落が栄えたといわれています。その時代に開かれた三熊野神社は、この町の中心地にあって、町とともに千三百年もの歴史を刻み続けてきました。室町時代には三熊野神社付近に市が立ち、三社市場と呼ばれる賑わいを見せたといいます。やがて戦国時代に入ると横須賀城が築かれ、明治に至るまでの長きにわたって、この町は城下町として栄えました。江戸期・享保年間、第十四代横須賀城主・西尾忠尚公が参勤交代の折り、当時江戸で流行していた祭囃子をこの地に伝え、独自の調子が加わった三社祭礼囃子も生れました。」

 「文武天皇(42代)の皇后がご懐妊のとき、熊野三社に参り、『安産にて皇子が誕生せば、東に三つの社を建て、日夜お敬い申し上げる』と、神前に誓われたところ、念願が叶ったので、大宝元年(701年)熊野那智神社を小笠山(現、大東町の小笠神社)に、高松に新宮を(現、浜岡町の高松神社)、そして当地の横須賀に本宮を勧請された。以来、1300年の歴史を刻み、横須賀城の歴代城主、家臣および近隣住民らがこぞって厚い信仰を寄せ、三熊野神社は子授け、安産、縁結びの神として広く信仰されてきました。」
(大東町・浜岡町の場所は、町名をクリックしてご確認下さい。


 5日午後3時過ぎ、東名の掛川インターを下りて、大須賀町の役場の駐車場へ着いたのは3時半頃でした。長時間座りつづけた腰を伸ばして、ほっとした気持ちで、小降りの雨の中を歩き始めました。高層の建物は見当たらない静かな佇まいの街でした。Y氏が予め打ち合わせてありました河原町のT氏宅へ向いました。T氏は現在東京にお住まいですが、もともとこの大須賀の町に生れ育った方で、健在の親御さんがおられる河原町のお住まいがT氏の実家というわけです。

 実は、このT氏は、川越のY氏や管理者が所属してます山車祭り研究会のメンバーで、ご本人が幼少の頃から親しんでいた大祭の祢里に大きな興味を持たれて、昔むかしの江戸時代の天下祭りに曳かれていたと云われる幻の一本柱の山車との関連を克明に研究なされて、"遠州横須賀に、江戸の祭文化がある" として、大須賀町の祢里の存在を、広く国内に知れ渡らせた方で、祭り愛好家仲間では知られた方です。祭礼で帰郷しておられるT氏の実家は、大須賀町の商店街に面していて、河原町の総代 (総代宅の前にテントが張られ、河原町会所の電照看板が掲げられいる祭典会所を総代と呼ぶ) の真ん前に位置しておりました。この東西に延びる商店街に面して、三熊野神社と各町の総代があり、神幸行列と祢里の曳き廻しが行われる祭礼ゾーンとなってます。


 T氏の実家で、暫く休憩させて貰いました。この時間帯は丁度、大祭行事の各町内役回りの最中で、河原町の総代前に他町の祢里が次々と立ち寄って、組頭同志の挨拶が交わされ、祢里の囃子衆が儀礼のお囃子を演奏します。神前や総代の前で演奏するお囃子の曲目は三曲あって、三曲を総称して"役太鼓"と呼んでおるそうです。期せずして、T氏宅の窓から、役回りの各祢里が観覧できる機会に恵まれたということです。唯、残念だったのは、雨天の為、「出し」と呼ばれる祢里の最上段の人形や造り物、天幕と呼ばれる刺繍模様が美麗な垂れ幕、柳の枝のように四方に垂れ下がる造花の飾りなどは取り外されたり、捲くり上げられたりして、しんげん棒と呼ばれる一本柱と万度だけの祢里の姿に変身してしまった上に、天辺からスッポリと大きなビニールシートで覆われてますので、擬宝珠高欄で囲まれた囃子台の囃子衆の姿も見辛くなってしまったのは、仕方がないことでした。

 驚いたことに、朝から降る続く雨の中、ビニールの雨合羽を着ているとはいえ、祢里の枠を持つ人、綱を曳く人全員が頭から足袋まで、びっしょ濡れになってしまってます。それでも、祢里に取りつき、大きな声を出して曳き綱を引く若者の姿に感動しました。

 T氏は、遠州横須賀の祢里の歴史や生い立ちを、あらゆる祭礼に関する古文書を読破し、関東全域の祭礼情報を収集して、その調査結果を「遠州横須賀 三熊野神社大祭 そこに江戸の祭文化がある」というタイトルの本をご自身で出版なされておられます。山車祭り研究会のメンバーで、T氏と同様に当会のリーダー格である会員のS氏も、本書を<江戸山車の古形態が残る遠州横須賀の祭礼を総合的に調査した報告書。江戸底抜屋台の系統を引く、近隣の掛塚大祭の記述もあり、たいへん充実した内容。江戸山車のみならず祭礼全般を研究する者にとっての福音書といえよう。>と、称賛されております。

 この書の巻頭の"はじめに"の中で、T氏は、"横須賀っ子"の祭好きを次ぎのように紹介しております。

・・たしかに横須賀っ子の祭好きは異常と言える位で、普段の日でも横須賀町内を歩けば、必ず三社囃子がいずことなく聞えてくる。三熊野神社祭礼においては町民の祭りに掛ける心意気は物凄く、たとえどんなに天気が悪くても朝早くから夜遅くまで、祢里を曳き廻し、小さな町全体が祭り一色に塗り潰され、湧きかえって祭を堪能する。以前、祭礼日に大雨が降り道路が川の様になって、雨水が流れたことがあったが、それでもビニールシートですっぽりと祢里を包み込んで曳き出した。曳き手はずぶ濡れという、改めて横須賀っ子の祭に対する「好きさ加減」を認識させられた事があった。この様な祭好きの人を総称して、横須賀では「祢里きち」と呼んでいるが、ほとんどの町民が大なり小なり「祢里きち」を自認している。又、横須賀っ子はこの三熊野神社祭礼に参加すること、及び祭礼があることを誇りに思い、故郷の山河を偲ぶより、故郷イコール三熊野神社祭礼と認識している人々が多い。

と、述ております。正に今、眼前で祢里に取りついておる若者男女の姿そのものだ、と感嘆の念を禁じ得ませんでした。


 江戸開府400年記念行事 "お江戸天下祭参加決定" 11月22日(土)・23日(日)・24日(月) のタイトルが目立つ今年の三熊野神社大祭の三つ折のチラシ「みどころマップ」(大須賀町観光協会発行)に載っている平成15年度の三熊野神社大祭行事予定は次ぎの内容でした。


祭礼
月日
時間
行事
<揃い>
4月4日(金)
17時〜21時
夜祭り
<宵宮>
4月5日(土)
8時〜
祢里供奉順くじ引き
10時30分〜
三社祭礼囃子演技奉納式<三熊野神社拝殿>
10時〜17時
各町内役廻り
18時〜21時
夜祭り
<本楽>
4月6日(日)
7時〜9時30分
子授けの神事受付<三熊野神社拝殿>
7時〜10時10分
子授けの神事祈祷
10時20分〜
例大祭・神幸祭
11時〜
神輿渡御・祢里供奉曳き廻し
14時〜
神輿還御・還御祭
15時〜16時30分
地固め舞・田遊び奉納<三熊野神社境内>
18時〜
夜祭り
21時〜
千秋楽<三熊野神社拝殿>


 生憎の雨と風の荒天で、往路にほぼ一日掛かりとなってしまって、到着したのが夕方近くで、祢里の役回りの最後の部分を観覧しただけで、宿に入りました。暗くなっても雨はやまず、外出を諦め、夜祭り曳行の祢里を旅館の窓から眺めることにしました。夜祭りでは、祢里の"出し"と天幕などの飾りものは外され、万度に灯かりが入り、提灯が取りつけられます。雨でなくてもこのように、夜祭での祢里は変身するのです。身軽になると祢里の梶棒である枠を左右に揺り動かす祢里独特の"練(ね)"り を加えた曳行がし易くなるので、出会った祢里同士のパフォーマンスの交換が一層、盛り上がるとのことです。
管理者は観てませんが、最終日の夜祭りでの祢里の変身は、初日と同様、大幕は外すが、"出し"は外さないそうです。


 ビニールシートで覆われた祢里が次々と雨の中を曳かれて行きます。後で知ったのですが、横須賀には祢里を見下ろす形で、眺めてはいけない戒めがあるとのこと。初日の夜祭りの祢里の姿をお知らせしたくて、不敬を承知しつつ、宿の二階の窓からの画像を掲載した無礼をお許し頂きたい。


  曳行の祢里を旅館の窓から眺めながら、T氏にも参加頂いて、祭り話しに華が咲き、酒盃も重なり、愉快な遠州・横須賀の夜を楽しむことができました。 翌朝は、明るくなりだしたばかりの5時過ぎに、何とお囃子の太鼓の音で目が覚め、思わず窓を開けて、外を見ましたら、晴天の空。あぁ、よかったと、思わず万歳をしました(笑)。 

 目覚ましになった早朝のお囃子の音は、自町を中心に曳き廻す朝祭りの合図であったのだろう。起床し身支度をして、早速、朝食前に街路へ跳び出しました。丁度、ろ組(東本町)の祢里が曳行から戻ってきたところでした。ビニールシートが外された祢里は、提灯が付いていても、"出し" 、大幕、花は付いていない前日の夜祭りの姿のままでしたが、明るい陽光に照らされて、擬宝珠高覧と支輪には、精緻な彫刻が数多く嵌められ、全面各所に打たれた格調ある飾り金具は艶のある漆に映えて金色に輝き、大きな源氏車など雨天のなかでは観られなかった祢里の姿は、想像以上に豪華でした。

 ろ組の祢里は、 祢里蔵と呼ぶのか、確認し忘れましたが、商店街に面したまだ新築されたばかりと思われる背の高い蔵の中へ、後退しながら納められました。

 蔵の中段の踊り場(足場・作業台)に登って待機していた数人の若者が、取り外してあった上花の環を万度の上に載せる作業を始めました。又、前日夜祭りの提灯の取り外しも始まりました。

 花が取りつけられますと、中段の作業台の奥に保管されていた"出し"を、蔵の天井のクレーンで吊るして、祢里の万度の真上に移動して、しんげん棒に差込むようにして固定してました。各作業は時間を掛けて、ゆっくりと慎重に行われておりました。

 三熊野神社大祭の付け祭りとしての祢里の奉曳は、朝祭り、昼祭り、夜祭りとで、それぞれ衣装変えしてます。本来、フル正装の昼祭りでも、雨が降れば"出し"や上花、大幕は外す。なかでも"出し"を載せたり、外したりするには、どうしてもしんげん棒を倒さねば出来ない。従来は、どのようなやり方かをしていたのか、聞いてみたところ、祢里の尻を地面につけて、しんげん棒を止めているかんぬきを外して、しんげん棒を抑えながら、ゆっくりと後側に倒して、"出し"や上花を着脱するのだそうです。

 これらの作業を「出しあげ」と呼び、出しの破損などのリスクもあり、難しい作業になっていたが、最近は、このろ組の様に、しんげん棒を倒さずに、着脱ができる新たの方法を各組で取り組み始めたとのことです。多分、足場を作って、クレーン車で吊り上げる形ではないかと、想像します。

 管理者は今回、ろ組の新方式の「出し上げ」を観ただけで、他の祢里の出しあげ風景は観てません。大須賀町観光協会発行の遠州横須賀三熊野神社大祭パンフレット\300の中に、従来の方法での「出しあげ」をしていた同じろ組の写真が載っておりましたので、コピーして掲載させて頂きました。
 ろ組の「出しあげ」の、新旧の二つの場面が理解できたのは収穫でした。ろ組の4枚の画像は、クリックしますと、拡大します。


 ろ組の出し上げを取材した後、三熊野神社に詣でた。これは昨晩、神社宮司から仔細に渡って神社の縁起を聞き、「子授け」に特化した霊験高い神社であることを知り、再度参拝し身内の願いを祈願してまいりました。昨日の強い雨で散りはじめていた桜も、今朝は明るい陽光に照らせられ、精気を取り戻して、祭礼を祝福しておるかのような早朝の境内の明るい雰囲気を感じました。

 管理者のプライベートなことですが、子宝を望んでいる者が身内におり、関心がありましたので、本楽の6日朝7時からの三熊野神社拝殿での子授けの神事祈祷の様子を拝見させて貰いました。既に、神前には夫婦5組ほどが着席して、宮司の祓いを受けているところでした。皇太子ご夫妻の祈願成就の奉祝幟が吊り下がる神前には、神幸行列・神輿渡御の主役の神輿が鎮座しておりました。ここでお祓い受けた後、子宝を願う夫婦の皆さんは、神輿渡御の神幸行列に供奉して、旅所まで同行し、"おねんねこ様"と呼ばれる赤子の人形を胸に抱いて、子授けを願う神事の"神子(みこ)抱き"の行事に参加します。この日、一日だけで、近在だけでなく、遠く東京や関西などからも来られるなど、子授けを願う100組近い参拝者があるそうです。

 大須賀町到着の日の晩、三熊野神社に参詣しました。管理者が同行した今回の遠州横須賀の祭礼の見学グループのメンバーの中に、神社の関係者が2名居りました。このおふたりは同業者としての仁義で、三熊野神社の社務所に神社宮司を尋ねて挨拶をしました。神社宮司は我々全員を拝殿内に案内してくれて、正規のお祓いの儀を施してくれました。公式参拝というべきものでした。拝殿には横須賀城主などの寄進による1畳ほどの大きさの多数の絵馬額が壁に掲げられておりました。城主含め地域住民に崇敬されてきた神社であることが頷けました。

 朝食のため、いったん旅館に戻りました。旅館の食堂で、3、4人の祭装束の人たちと一緒になりました。お囃子の笛を吹く方達でした。祢里のある13町は自町に笛吹きがおるのにもかかわらず、各町とも横須賀以外の地区から笛吹きを2名招聘しておるそうです。どの祢里にも笛吹きは2名だけでした。関東の川越などでは、囃子連を下座連として、今でも別の地域から招く形を取っているのと同じです。江戸系お囃子の伝統をうけつぐ横須賀なんだなと思いました。笛は一本調子の太くて長い篠笛でした。試しに吹いてみたが、四本調子に慣れた管理者には音が満足に吹けませんでした。

神幸祭の神輿渡御行列と華麗な13基の祢里の供奉曳行

 9時過ぎ頃になると、商店街を西方面から河原町方面へ進む祢里が次々と曳行されてきました。祢里の最上段の「出し」と呼ばれる精巧な人形や造り物、彩色も鮮やかな大幕、飾り花、太陽に反射して金色に輝く飾り金具が漆に映えて、明るい陽光に照らし出された祢里は、昨日のシートで覆われた祢里のイメージからは想像できない、ほんとうに豪華絢爛な姿でした。

河原町東詰の祢里集合場所へ曳行途中で、神社前を通過する中本町の"は組"の祢里。"は組"は、祢里本体の解体修理と漆の塗り替え、飾り金具の化粧直し、万度と嶋台(出しが乗る台)を新調するなどの平成の大修理が完成したばかりで、一段と華麗な姿でした。神社の満開の桜に、祢里の藤の花が映えて、ひときわ綺麗でした。"出し"は「高砂」。

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河原町東詰の祢里集合場所へ曳行途中で、神社前を通過する西田町の"に組"の祢里。"出し"は「鞍馬山」。

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河原町東詰の祢里集合場所へ曳行途中で、神社前を通過する東新町の"め組"の祢里。"出し"は「日の出に鶴」。

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