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 三陸の大津波被災地を訪問しました。<陸前高田市>

”3・11” あの、忘れもしない、平成23年(2011)3月11日から、ちょうど一年6か月が過ぎた平成24年9月4日、岩手県陸前高田市、大船渡市、そして、宮城県気仙沼市を、翌5日に宮城県石巻市を訪問しました。あの忌まわしい昨年3月11日の大震災、特に大津波に慄然たる被害を被った東北被災地の皆さんの、言葉にいいあらわせない難渋に耐えておられる様子を、新聞テレビで毎日、胸の痛む思いで見、聞きして、もし我が身に同じことが降りかかったら、どうなったであろうと、戦慄を感じずにはいられない、深いご同情とお慰めの思いで過ぎた一年半でした。その間の被災された御本人はもとより、地元の皆さん、自衛隊や友だち作戦の米軍の将兵、ボランティアの皆さんの献身的な努力で、被災地は復興へと進んでおられるとのこと、心からお見舞を申し上げます。

掲載しました地図は、2012年9月11日(火曜日)、読売新聞・東京朝刊34ページに載った東日本大震災1年6か月のタイトルの特集記事のなかの地図をコピー致したものです。図中の濃い方形の数は死亡者、薄い方形の数は不明者を示すと注釈があります。小生がこの度、訪問した4市は不幸にして、死亡者・不明者の数が抜きん出て、他所より多いのには驚いております。それだけ4市の津波被害が大きかったのです。

津波で大被害の陸前高田市を訪問

初日の9月4日(火曜日)、高崎駅午前6時50分発の新幹線乗車、大宮経由の一関へ。一関駅午前9時43分発スーパードラゴン(大船渡線)気仙沼行きに乗車。東日本大震災の発生で、大船渡線は全面運休したが、2011年4月1日に一関・気仙沼間のみ運転を再開しております。 午前10時59分、気仙沼駅到着、JRはここまで。休憩もせず、駅前レンタカーを借用して、国道45を一路、陸前高田市へ向いました。尚、右の案内地図は"気仙沼ガイドマップ"vol.24より抜粋コピー。
途中、只越峠の唐桑トンネルを抜けた直後のヘアピンカーブには緊張しましたが、交通量が少なく、快適に暫く走ると、右手の樹木の間に青い海が見えて来ました。前方に三階のコンクリートの建物が見えて、すぐに学校と判りました。

学校の前の雑草が茂った広場に車を止めて、校舎を見ると、窓枠、ドアや扉は全て壊れており、1、2、3階とも廊下の手摺りは大きく曲がり、窓、ドアは外れて無く、いたるところの外壁は剥がれ、教室の中は石だらけ。津波の怖さをしみじみと実感した瞬間でした。車を止めた雑草の広場は校庭でした。

校舎正面に、廃校の挨拶の垂れ幕と玄関の前に、訪問者の記帳ボードがありました。破壊された校舎を見て、激励の記帳をせずには居られない思いでした。画面をクリックしますと、拡大します。左上の「←戻る」で、お戻り下さい。


気仙川の画像をクリックして、音声案内のビデオ(mp4)をご覧ください。

雑草の茂った校庭から、防潮堤まで歩くと、そこは気仙川が広田湾に出る河口で、その対岸に、ひょろりと背の高い、天辺にだけに枝を張った一本の樹木が見えました。直ぐに判りました。新聞テレビで、時々見ていた陸前高田の一本松の姿でした。何故か急に感動を覚えました。あぁ、高田に来たのだ、と。
ルート45を少し走ると、右手近くに高田の松の頭が見えて来たので、車を止めて、奇跡の一本松と書かれた案内看板に沿って、3百メートルほど歩いて、海辺に出ました。崩れかかったコンクリートの建物は、ユースホステルで、その前に土中に打ち込まれた工事用のU字鉄板で四角に囲まれた石と雑草だらけの枠の中に、一本松の太い幹が立っておりました。震災の大津波に襲われる前迄は、七万本の松で覆われ、白砂青松の景観を誇っていたという高田松原を、小生は観る機会が無かったのは惜しまれます。これまで、津波から街を何度も守ったという高田松原を、松一本だけ残して全滅させた311津波の巨大さに、驚くばかりでした。

松の画像をクリックして、音声案内のビデオ(mp4)をご覧下さい。



この旅から帰宅した7日後の9月12日のNHKテレビニュ−スで、既に枯死している「奇跡の一本松」を、12日朝から切り倒す作業の中継をしておりました。動物で云えば剥製ですが、切り倒した松の枝はプラスチックのレプリカに変え、幹は樹芯に鋼鉄のパイプを通して補強し、2013年春には元の位置に植え戻すことが決まっていると、報道しておりました。触った手触りが残る松の幹の感触が忘れられません。高田松原の跡地は整地して、今次の平成大津波のメモリアル施設にする計画だそうです。

「奇跡の一本松」が復元されました!平成25年6月8日、一本松のレプリカが完成し、元の場所に建てられました。リンクをクリックして、ご覧下さい。

三陸の絶景、白砂青松の高田の松原を近くに望み、ルート45に面して建てられたホテルは、内部は壊滅して廃墟になっております。真に虚しい眺めです。


国道45に沿うこの地域一帯は陸前高田市の中心地でしたたが、311の大津波で、建物から、道路、電柱など、全ての構築物は押し流され、遠く山麓迄続く広野一面に雑草が茂り、ところどころに見えるコンクリートの建物は全て外観だけで、一切使われてない廃墟ばかりです。高田松原の直ぐ北側に位置するルート45に並行して、JR大船渡線が走り、松原の直ぐ近くに陸前高田駅がありましたが、津波で線路も駅舎も跡形もなく消滅して、大船渡線の気仙沼駅から終点の大船渡市の盛駅までの再開の見込みは、今はないそうです。この地域一帯に住んで居た市民のほとんどは、他所へ転居してしまったのでしょう。死者と不明を合わせた犠牲者で、壱千8百人余りと、周辺市町村で最高の参千九百人の犠牲者を出した石巻市に次ぐ、陸前高田の被害の実態が、目の前にひろがる思いでした。
上の写真のマンション2棟は、国道45の近くに建っておりますが、傍に行って見ましたら、2棟とも最高階を残して、下の各階の廊下の腰板、手摺り、ドアは無く、住民の姿は皆無の廃墟でした。陸前高田を襲った津波がマンションの4階(20メーター近く)まで達していたという証拠と云えます。画像をクリックしますと、拡大画像になります。マンションの部屋が、表から裏へ突き抜けてます。
陸前高田市の被災の様子の一部を、音声案内のビデオmp4にしました。
陸前高田
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第二の訪問地。大船渡市
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