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第29回高崎まつり共催、"第1回高崎山車まつり"発足の経緯

タイトルの背景画像は、平成15年「高崎まつり」初日の8月2日、出場全山車が集結した"もてなし広場"で、第1回の「高崎山車まつり」開会の挨拶をする竹中三郎高崎山車まつり保存会長。

 平成15年8月2,3日、管理者の地元、群馬県高崎市の"高崎まつり"を見聞しました。今年の「高崎まつり」の見聞録は、二日間の山車の曳行の様子を、静止画と動画でもって、皆様に紹介申し上げます。尚、今年の「高崎まつり」を契機に、祭の運営が変わる動きも出ていますので、その話題を冒頭に紹介いたします。

 これまで、拙作の山車見聞録のなかで地元の祭礼として「高崎まつり」を過去3回、とりあげて皆様へ紹介させて頂きましが、「高崎まつり」は、市民の親睦、交流を目的としたイベント行事的な祭です。中小商工業団体の展示即売会や大手製造会社や金融機関などの社員による企業神輿、神輿愛好団体の本神輿、幼稚園から小中学生の子供神輿、和太鼓、民謡、和洋踊などの趣味グループの実技、実演披露、スケボー競技や遊戯機材を揃えて子供達を遊ばせる"こども広場"など、いろいろな団体の、もりだくさんのイベント行事を、市街地中心部の道路や広場、特設ステージに集めた市民総参加の文化祭的色彩の濃い祭りなのです。限られた区域の住民だけの祭でなく、広く市民、誰でもが気軽に参加できる機会を設けて、楽しんでもらおうという趣旨の祭りが「高崎まつり」であるからです。地元の商工振興策にもつながり、行政側から祭り費用の助成もあります。

 この画像は今年、平成15年の「高崎まつり」の案内として、全市の世帯に配布、回覧されたチラシの表紙です。今年は2種類の祭り案内のチラシが用意されました。二つのチラシとも、A3サイズの二つ折のもので、チラシの表題は「高崎まつり」と「高崎山車まつり」となってます。

ページのスペースを節約するめに「高崎山車まつり」の方を縮小して、重ねてコピーしてあります。

ご覧頂く様に、二日間の「高崎まつり」は、イベントのオンパレードになっております。 実は、この2枚の祭りの案内チラシが、今年の「高崎まつり」の運営方法に大きな変更が加えられたことを物語っております。山車の曳行を「高崎山車まつり」として、「高崎まつり」とは実施日を変えて行う、ということが真剣に協議され、高崎山車まつり実行委員会が高崎山車まつり保存会(竹中三郎会長)を中心にして設置されました。但し、今年の「山車まつり」の実施日は、「高崎まつり」と同日の8月の第1土、日の両日の実施と決まった。

左の文字画像は「高崎山車まつり」のチラシの中の挨拶文の冒頭の部分です。クリックしますと全文になります。見ましたら、ブラウザーの<←戻る>で、お戻り下さい。

そして、中央と右の人物画像は祭り初日に管理者が撮影した山車現場責任者と高崎山車まつり実行委員です。二人のタスキに注目下さい。"高崎山車まつり"と銘記されてます。「高崎山車まつり」は、「高崎まつり」から分離した独立の祭典であるとの意志表示が伺えます。

ここ数年来、「高崎まつり」の運営について、あちこちから意見が出ていた。要は余りにも参加イベントが増えて、祭の運営、進行が混乱し始めていたのです。今年の春先頃に、山車まつりの分離のことが具体的に論議されているこを所属するお囃子グループの仲間から聞いておりました。

山車を分離したい動機は、道路幅を一杯使う山車曳行が他のイベントの動きと競合して、混雑の整理が段々むづかしくなって来たことが理由です。山車の巡行を「山車まつり」として、別の日に分離する案に管理者は大賛成です。

唯し、その理由は、混雑云々からではなく、千数百年の歴史をもつ我が国の「山車文化」が、他のイベントと同列に扱われるのが、祭礼の山車、屋台を愛する者にとっては辛く、もったいないという心境を日頃から抱いていたからと、正直に申し上げます。

しかし、祭りを別の日に分離することは、公安委員会の道路使用許可や交通安全警護体制の問題、高崎まつりと同じ様に学校の夏休み期間中でないと駄目だとか、雨の少ない10月がいいとか、いろいろな意見が出てきて、調整しなければならない問題がいろいろ予想されます。

今後「山車まつり」として実施日を分離することに、思わぬ支障も起きかねません。分離独立してやったみたが運営がうまく行かず、結果、山車の曳行が途絶えてしまった、などということが起こらぬように、38町の山車氏子町内が結束して、山車保存会の方針を支持し積極的に活動すべき正念場だと思います。

画像は高崎の中心街の大手前交叉点での企業御輿の責め儀合いを取り囲む観客の群れ。 そのほか、雷舞、阿波踊り、だるま御輿など人気のある団体が中心街のあちこちで、大勢の観客を集めておりました。

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電線埋設の道をゆとりを持って巡行し、高崎の山車の真価を!

左の画像は平成15年高崎まつりの初日に、高崎駅西口のコンコースの脇で、電車やバスで来高した皆さんをお囃子で出迎える八島町の山車です。右の画像は同じく初日に、勢揃いのもてなし広場に入場する高砂町の山車です。栃木市に現存する江戸天下まつり当時の山車に比し、やや小振りですが、囃子台に唐破風屋根を載せた江戸型鉾台形式の山車です。高崎の38台の山車の全てが、この形式の高崎型です。

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38台の山車が、隔年に半数づつ出場するにしても毎年、20台前後の山車の台数になります。電線の地下埋設が完成して、整然とした高崎の中心街の道路を、鳳凰や孔雀や鶴、松や梅や牡丹などの花鳥と、渦巻く波涛などの豪華な刺繍がされた赤地と緑地の上下幕が懸垂し、龍の精緻な彫刻が躍る破風屋根と向拝柱、漆塗りの総体には金箔や飾り金具で飾られた欄間や擬宝珠勾欄が囲み、鉾台の頂きには由緒ある神像人形が載り、華麗な装いをした20数台の山車が、優雅なお囃子と曳き手衆の木遣りや掛け声の中、悠然と隊列を整えて巡行する様は、江戸城内で将軍の謁見もあったという江戸天下まつりの山車曳行の再来を思わせる壮観な眺めです。

ご覧の山車の隊列の画像は、今年平成15年の祭り二日目、音楽センター東側のお堀端通りを隊列巡行する南地区の山車の後姿を撮影したものです。画像の一番手前が和田町、その前が下横町、そのまた前が南町の山車です。和田町の後の切妻屋根は給仕車です。画像をクリックしますと、拡大します。

平成12年の市制施行100周年の「高崎まつり」に出場した総数38台の山車が市街を隊列巡行したときの様子をご覧になった祭り文化研究家の作美陽一氏から、「江戸天下祭りの山車巡行を連想させる素晴らしい山車巡行だった」、との嬉しい感想も頂いております。

作美氏は江戸時代の神田と山王の両祭りを取り上げた研究論文「江戸の曳き山祭り」を発表し、大きな反響を呼び、ひきつづいて「大江戸の天下祭り(河出書房新社)」を著して、我が国の"曳き山祭り文化"の研究分野の権威者でおられる方です。

神社祭礼の山車奉曳から、山車文化の伝統保存の祭へ

1400余年の永い伝統を持って、毎年行われている京都の祗園祭りは、地元民の厚い崇敬を受ける八坂神社の氏神さまとしての存在と、その神社祭礼の意義が深く地元民に共通認識されていて、祭礼に奉曳すべく各氏町から賑々しく曳きだされる数々の鉾と山、そして囃子衆が奏でる奉納囃子が祭を盛り立てます。7月17日の京都市中の「山鉾巡行」は、祗園祭のクライマックスではありますが、その前後の7月1日から7月末日迄の1ヶ月間が祗園祭りの期間で、八坂神社の神輿渡御や還御をはじめ、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。四条の御旅所への祗園の舞妓・芸妓の無言参りといった庶民の情緒深い古い習慣なども含めて、それら1ヶ月間に及ぶ祭の神事・行事が永い伝統に守られた方法で行われていることを見ても、「祭り」が地元民の日常生活に深く入り込んでいるのが分かります。

今でも我が国各地で行われている山車、屋台が曳き出される祭礼の殆んどは、京都祗園祭りのような永い日数でなくても、一日か二日の祭礼当日には、祭神の御座する神輿の神幸渡御などの神事が行われ、それに合わせて山車・屋台が奉曳されるというのが一般的な祭礼の様式になっております。管理者がこれまで見聞した山車・屋台の曳行がある各地の祭礼には、祭礼自体への関与の度合いの違いはあっても、このような氏神となる神社が必ず存在しております。

本ページの冒頭で紹介申し上げた通り、高崎まつりの当日に出場し、市中を曳行する山車巡行は、現状、「高崎まつり」という名称の総合文化祭の中のイベントのひとつでしかないのです。やや、自虐めいた云い方になってしまいましたが、管理者には、高崎には多くのいい山車と優れた山車囃子がありながら、山車を主体にした、ちゃんとした「山車まつり」ができないものか、との強い思いがあるからです。

往時の江戸型鉾台式山車の面影を残す高崎の山車、他所の江戸型山車と比較して、決して遜色のない華麗な高崎の山車、高崎型といってもよい小振りながら、江戸天下祭りを飾った鉾台式山車と同形式の均整のとれた高崎の山車、手入れがされていて、いつでも曳き出し可能な三十八基もの山車が高崎にはあるのです。ですが、山車が奉曳する神社祭礼が今の高崎にはありません。管理者からの提言です。高崎の"山車まつり"は、「神社祭礼に奉曳するものでなくても、これまで幾多の先輩達が築いてくれた伝統ある山車文化を、今後も民俗芸能として育成保護し、次世代へ継続させる活動の一環として行われる重要な文化活動である」と、「高崎山車まつり」の位置付けを明確にして、保護育成の活動を展開して行って貰いたいと、保存会はじめ関係各位のご努力を期待しております。

高崎の祭り、今の「高崎まつり」に至った経緯を市役所教育委員会の市史編纂室のまとめた高崎市史民俗調査報告書第6集(高崎図書館蔵) 「旧市域の祭りと町内会」のレポートの中に、高崎山車まつりの由来の記述がありますので、ご興味のある方はクリックしてご覧下さい。「戻る」で、また、このページにお戻り下さい。



 


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