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第29回高崎まつり共催、"第1回高崎山車まつり"見聞録

もてなし広場に東・南両地区山車20台勢揃い

早い梅雨明けであった昨年と違い、今年平成15年は7月末日迄、気温の低い雨の日が続き、梅雨明けは8月に入ってしまうとの天気予報に、こりゃ、困ったな、今年は雨の祭りか、と諦めかけていた矢先、なんと、高崎まつり初日の8月2日は朝から晴天、低かった気温も急上昇。絶好の祭日和となりました。市役所前「もてなし広場」で、毎年行われる祭の開始セレモニーを開会式と呼ぶことに、もう違和感も感じなくなったのは、これも伝統のなからしめた実績です。

まつり初日の8月2日午前11時20分の開始の高崎まつりの開会式をはじめ、高崎まつり案内チラシに掲載されている御輿、阿波踊りなど、盛り沢山のイベントが準備されてましたが、管理者は山車以外のイベントは観ておりませんので、ご紹介はできません。丁度、高崎まつりのイベントの様子を市の公式ホームページが、綺麗な静止画と動画で高崎まつりで行われたイベントを紹介しております。リンクしてありますので、ご覧下さい。高崎市ホームページのまつり映像へリンク

ブラウザーはインターネットエクスプローラーIEで、ご覧下さい。

当方の見聞録でも、南地区の山車12台が「もてなし広場」へ入場する場面、東地区の山車8台が「もてなし広場」を退場する場面、20台の山車が広場内で整列したときの場面、翌日3日の東地区山車8台の柳通り隊列巡行の場面の計4場面を、管理者の撮影した4本の動画で、この後ご紹介させていただきます。

まつり両日とも、各町の山車は昼前に氏子の自町の中を挨拶巡行をして、午後は出発時刻迄、祭典事務所まえで居囃子を続けます。山車の周囲に、カメラを持った山車マニアの方々が、三々五々集まってきて、カメラ撮影したり祭り法被を着た地元の人に質問したり、談笑したりする風景を観ていると、よその山車見学に行った祭り愛好家には一番、気分が昂揚する時なんだよな、と自分の経験からそう思ったりもしました。自分の地元の祭礼ですから、そんな時には説明役になったりもしてます。

午後3時、各町を出発した山車は、南地区は駅前通りに、東地区は田町通りに集結しました。午後4時、巡行開始。両地区とも田町通りを北進し、本町3丁目で左折、東地区は中央通りを、南地区は柳通りを経由して、「もてなし広場」へ向いました。山車まつり初日のメインは、全部の山車が集結する"もてなし広場の勢揃い"です。

驚いたことがありました。それは、午後4時半駅前通り出発し、この日の山車まつりのメイン会場の広場へ向って出た南地区の山車隊列の先頭が、なんと巡行札番Kの新田町であったことで、札番@の石原下一が隊列の一番最後でした。これに気が付いたのは、管理者が「もてなし広場」の入口脇に陣取って、入場する山車の隊列を撮影していて、東地区の後に入場してきた南地区の先頭の山車が、札番が一番の石原下一でなく、12番の新田町であったからです。ありゃぁ、何と無神経な。

山車まつり初日の一番華やかである山車隊列巡行で、折角掲げた札番の一番からでなく、最終番号を先頭にして巡行を始めたという隊列の指揮者の神経を疑います。高級なスーツで着飾った人の胸のボタンが掛け違っていたら目をそむけたくなるのと同じです。管理者が地元の人間ですから、敢えて苦情を提示しました。逆番号順の実体は、広場入場の動画をご覧頂ければお分かりになります。

整列位置が退出口に近い南地区は、広場での整列位置を退出口近くに@を置き、札番号順に並べ、最後のKを広場の一番奥に位置決めしたものと思えるのですが、ともかく、山車隊列巡行は、「町名の札」や「人形名の札」と一緒に各山車の鉾台に掲げられた隊列順番を示す「札番(隊列順番札)」の通りに、先頭が一番札の山車になるのが絵になります。

些細なことに思われるかもしれませんが、平成15年新発足の「高崎山車まつり」は来年以降、実施日が単独になる予定です。今迄以上に、高崎の山車文化を民俗伝統芸能として育成し継続してゆくという覚悟が必要ではないでしょうか。自らが楽しむだけでなく、多くの人達に素晴らしい山車祭りだと評価が貰えるためには、どの様な山車巡行にしたらいいかなど、「山車まつり」の演出が益々重要になってきます。

大きな枠のなかのひとつのイベントなら、マンネリなことをしていても多少ごまかせますが、ひとり立ちとなると、多くの支持を得て行くにはどうすればいいか、という身の引き締まった真剣な覚悟で臨む必要があるのではないでしょうか。まつりの運営がマンネリ化して、手を抜くようなことをしていると、外からだけでなく、身内の中にも不平、不満が溜まって、不参加の山車町が増えたりして、せっかく始めた「山車まつり」の存続が危ぶまれる事態になってしまうかも知れません。

「高崎山車まつり」の発足を契機に、「高崎山車まつり保存会」「高崎山車まつり実行委員会」の責任者各位をはじめ、各山車の氏子町内のリーダー諸氏が、市外、県外のよその山車・屋台祭礼をあちこち見学して頂き、山車綱の曳き手の様子から、祭全体の運営のノウハウ迄を再点検すべき時ではないかと、諫鼓鳥の太鼓をドンドンと叩いて提言致します。管理者の老婆心であれば幸甚です。

上の巡行路図は、「高崎山車まつり」の案内チラシを参照して管理者が作製しました。下の広場の山車整列図は、同案内チラシの部分をコピーさせて頂きました。

もてなし広場の山車整列図の中の町名をクリックしますと、その町の山車の画像がご覧になれます。

 

広場に入った山車は所定の位置に止り、囃し手や鉾台の上乗り衆の交代などの一時休止タイムもそこそこに、元気な勢いのよい山車囃しが各山車から響き始めます。広場入場までの巡行時のお囃しは、主に子供が担当してますが、各山車が一堂に会する勢揃いでは、ベテランのお兄さん、お姉さんが太鼓を叩きます。隣の山車に負けてならぬと、力のこもった山車囃子が広場のあちこちから湧きあがります。

 

山車の「もてなし広場」勢揃いの
様子をビデオ動画でご覧ください

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@南地区の山車12台「もてなし広場」へ隊列入場する場面
A東南両地区の山車20台「もてなし広場」に勢揃いした場面
B東地区の山車8台「もてなし広場」を隊列退場する場面

東地区は翌日の2日目の巡行最後に"打ち上げ"として、田町通りの八間道路交叉点で、"叩き合い"を行って、気勢を挙げるのが恒例になってます。

全部の山車が入場し、所定の位置に勢揃いが完了したのは、真夏とはいえ夕闇が次第に迫りだした午後6時半近くでした。山車の提灯に火が入りはじめ、山車は夜の装いを整え始めるのです。

平成15年「高崎まつり」初日の8月2日、出場全山車が集結した"もてなし広場"で、第1回の「高崎山車まつり」開会の挨拶をする竹中三郎高崎山車まつり保存会長。クリックしますと、拡大します。タイトルの背景画像と兼用してます。同じ日の午前11時20分から、このステージで、第29回「高崎まつり」の開会式が行われたのです。こんどは夕方の7時前から、このステージ前に集結した山車の曳行責任者38名が並び、山車保存会、山車まつり実行委員、実施本部の責任者の祝辞と激励の挨拶があった。

石原町下一の山車の前で山車囃子の笛を吹く下一の皆さんです。皆さんは高崎山車ばやし保存会に所属し、地元の子供に山車囃子の保存継承に活躍されている人達です。
バンド別のアイコンをクリックして下さい。この画像場面の下一の皆さんの演奏が動画でご覧になれます。

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高崎の山車囃子は二つの流派があります。高崎山車ばやし保存会の"長谷川流"と、花車ばやし保存会の"秀山流"です。ともに高崎を代表する伝統ある山車囃子です。互いに切磋琢磨して、常に後継者の育成を念頭に、活動を続けております。両流派の違いは笛の材質からくる音色の違いと、節回しが若干違いますが、一般の方にはあまり区別を感じないかも知れません。長谷川流は篠笛、秀山流は竹笛です。高崎の38台のお囃子の流派については、高崎山車ばやし保存会のホームページに掲載しておりますので、クリックしてご覧下さい。ブラウザーの左上の「戻る」で、再びこのページにお戻り下さい。

梅雨明け直後の暑かった夏の太陽も沈み、夕闇が一層濃くなった午後7時半、南地区から巡行再開。広場から退出です。照明に浮かび上がった山車は、イブニングドレスに着替えたご婦人のように、夜の装いに変身。同時に近くの河原で始まった打ち上げ花火が、山車巡行に華を添えておりました。

南地区の山車が広場から退場を開始すると、東地区8台は円陣を組み、恒例の叩き合いの開始です。曳き手衆が振りかざす弓張り提灯が左右に大きく振れ、囃子衆はテンポの速い"雨だれ"の叩き合いが最高調に達する頃には、円陣の中の曳き手は小躍りしながら喚声を張り上げます。画像をクリックしますと、この叩き合いの様子が動画でご覧になれます。

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まつり二日目、田町通りに東南両地区の山車、20台勢揃い

"高崎山車まつり"二日目は、午後1時から東南両地区の隊列巡行が開始。初日は勢揃い場所の「もてなし広場」をめざして、両地区とも田町通りを北に向ったのですが、二日目は南地区は駅前通りを西に向い、シンフォニィー道路に入り、お堀端どおりを北に進み、中央銀座通り、本町通りを進み、田町通りを南に向って、勢揃い場所へ向いました。

東地区は初日同様に集合地から北に進み、本町通りを左折進行し、柳通りに入り、真っ直ぐ南下してお堀端どおりからシンフォニィー道路に出て、新町交叉点を左折北進して、田町通りの勢揃い場所へ向いました。高崎の中心街を南北に延びる田町通りは、北は八間道路交叉点から南は新町交叉点迄の間が祭り両日とも正午から午後10時まで車両乗り入れ禁止になります。



江戸、明治のころの地元で、言い伝えられていたという「お江戸みたけりゃ、たかさき田まち」にあるように、高崎の中心街を南北に走る田町通りは今でも、車両や人出の多い通りです。その田町通りの北は八間道路交叉点から、南の慈光通り交叉点までの間は、祭り両日、正午から午後10時まで車両の乗り入れ禁止帯で、その両側に20台の山車が勢揃いしました。田町通りを勢揃い場所へ向って、北から南進する南地区の山車と、南から北進する東地区の山車とがすれ違う形で、勢揃い場所へ進むのでした。

次ぎの道路図は、田町通りの勢揃いの位置に着いた各山車の位置を示しております。道路図の中の巡行番号のついた山車型のアイコンをクリックして下さい。その町の山車の画像がご覧になれます。もてなし広場に勢揃いした山車の画像は、山車の正面や斜めから撮った画像でしたが、田町通りに整列した山車の画像はカメラアングルを真横にとって、山車人形の横からの姿、山車の鉾を囲む上幕と下幕がどんなものか、を意識して撮影した画像です。山車の正面や後面にはない何かの発見があるかもしれません。(石原町4台の画像がありません、お詫びします)

上の巡行路図は、「高崎山車まつり」の案内チラシを参照して管理者が作製しました。下の田町通りの山車整列図は、同案内チラシの部分をコピーさせて頂きました。


左下の画像は既に整列が終わった東地区の山車の前を南進する八島町の山車です。右下の画像は勢揃い位置でお囃子を奏でる山田町の山車です。
山車人形の"このはなさくやひめ"の横顔の品のよさと、大幕の鶴が抜けて見えるようです。画像は全て、クリックしますと拡大します。ブラウザーの<←戻る>で、お戻り下さい。

山車・屋台などの祭礼曳きものをカメラ撮りする祭りマニアには二通りのタイプがあります。ひとつのタイプは、撮影対象の山車・屋台のシーンの中に、人とか物が一緒に入るのを嫌うタイプです。お囃子台の囃子手さえも居ない方が良いというタイプ。山車だけの姿を撮りたい為には、早朝に目的地に着いて、見物人が居ない時間を選んで山車・屋台の全身だけを撮る山車画像コレクションタイプです。もうひとつのタイプは、祭りの現場で、祭りの雰囲気をよりよく感じさせるシーンを待って、カメラ撮りするタイプです。画面中の笛手は秀山流のE・K嬢。絵になります。

無人の山車・屋台ではなく、山車の周囲を取り囲む祭り法被を着た人たちや一般見学者の表情が山車・屋台と一緒に映っているシーンの画像を好むタイプです。構図にこだわらず、一緒に映っている人達の表情で、その場の雰囲気の味わうという、コレクションでなく報道目的の撮り方を好むタイプと云えるかも知れません。

画像は、前後左右の隣り同志の山車の人達が、見物人も混ざって、全員の手拍子と喚声のなかで踊り出したシーンです。こんな風景が、勢揃いした20台の山車の前のあっちこっちで、賑やかに繰り広げられておりました。

まつり二日目、東地区の山車8台の柳通り隊列巡行


東地区は、午後1時過ぎ、初日同様に田町通りの八間道路交叉点の集合地から北に進み、本町通りから、柳通りに入り、お堀端通りからシンフォニィー道路に出て、新町交叉点を左折北進して、田町通りの勢揃い場所へ向いました。この巡行路の途中の"柳通り" は柳川町の真中を南北に通ってます。町名に因んでのことでしょうが、道の街路樹は糸のような葉が歩行者の肩に触れて、情緒を感じさせる見事な柳の木です。昭和32年迄は遊郭で賑わったそうですが、今でも粋な飲み屋さんの町です。

柳通りを通過する東地区8台の山車の巡行の様子を管理者の撮影したビデオ画像でご覧下さい。まつり初日に、南地区12台もこの柳通りを巡行して、初日の勢揃い場所の「もてなし広場」へ入った南地区は、隊列番号と逆順序で巡行したのですが、東地区は巡行番号通りの隊列でした。

東地区山車8台の柳通り隊列巡行
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東地区の山車8台柳通りの隊列巡行の場面

 

初日の「もてなし広場」入場の南地区の隊列巡行のビデオ動画と、この東地区の柳通りの両方をご覧になって、気づかれた方がおられるかも知れませんが、高崎の山車巡行で、気が付くのは山車を曳く人達が元気がないことです。少し、ダラダラしていて、何かつまらなそうな顔をしている人もいる。
よその山車・屋台まつりを参観に行って、山車の前で曳き綱を持って、元気に山車・屋台をひっぱる曳き手の皆さんの様子を観てますと、祭礼曳きもの"華"はお囃子衆ではなく、元気に整然と統制のとれた立ち振る舞いをやっている曳き綱をもつ人達ではないかと、つくづくと感じます。

次ぎの2枚の画像は、柳通りを巡行中の東地区の11番の高砂町の先触れの高張提灯を捧げて、先頭を歩く女性を撮ったものです。ピンと背筋、首筋を伸ばして、脚を大股に、斜め45度左右に踏み出して歩く様子です。非常にキビキビした動きで好感が持てます。これと似た先触れ所作をしていた山車は他にも何台かありましたが、山車巡行は山車本体と、お囃子衆、曳き手衆の三つが、それぞれの役割を持っていることを、なかでも曳き手衆の良し悪しが全体の評価の決め手になっていることをしっかりと自覚したいものです。

高砂町の後につづいた羅漢町の手古舞は見応えがありました。3列3段の9名の祭り法被姿の女性が鉄輪のついた金棒を右手に持って、姿勢を正して、一歩一歩、全員が歩調を合わせて進む様子は迫力を感じました。支度に大金の掛かる男装した女芸者の粋な手古舞でなくても、若い女性達の現代風な手古舞も見映えがありました。

唯単に、曳き綱を持つ人だけでなく、綱の前に立って高張り提灯を掲げる人、役員諸氏も一文字笠や裃や袴姿でなくとも、浴衣なりのしっかりとした統一した衣装を身につけ、決めた並び方、決めた歩幅の歩き方など、その陰には、事前に準備し練習の努力をしておるからこそできるのです。決して即興でできるものではありません。

繰り返しになりますが、祭礼の山車・屋台の巡行の良し悪しは、この巡行時の曳き手衆とその前に立つ先触れ、露払いの人達の立ち振るまい(所作)、演出の良し悪しに掛かってます。祭り法被を着ないで、曳き綱を持ってはならない位のルールはあってもいいと思います。

町内の古老が (こう云う管理者もそのひとりですが・・笑)「・・俺んとこの町内だって、手古舞や木遣りで賑やかにやってたんだ・・」なんて云ってますが、だからって、今やらないでいいのか、真剣に考えるべきときです。今年、平成15年11月24日に、"江戸開府400年記念"の行事のひとつで、江戸の華といわれた"江戸天下祭り"の再現を模した「山車・神輿巡行」が皇居前で行われる予定です。中央でも地方でも、せっかくの我が国独特のこの「山車文化」を衰退させてしまったら、あまりにももったいない。

初日、もてなし広場に勢揃いした各町の山車の紹介へ

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