まつり両日とも、各町の山車は昼前に氏子の自町の中を挨拶巡行をして、午後は出発時刻迄、祭典事務所まえで居囃子を続けます。山車の周囲に、カメラを持った山車マニアの方々が、三々五々集まってきて、カメラ撮影したり祭り法被を着た地元の人に質問したり、談笑したりする風景を観ていると、よその山車見学に行った祭り愛好家には一番、気分が昂揚する時なんだよな、と自分の経験からそう思ったりもしました。自分の地元の祭礼ですから、そんな時には説明役になったりもしてます。午後3時、各町を出発した山車は、南地区は駅前通りに、東地区は田町通りに集結しました。午後4時、巡行開始。両地区とも田町通りを北進し、本町3丁目で左折、東地区は中央通りを、南地区は柳通りを経由して、「もてなし広場」へ向いました。山車まつり初日のメインは、全部の山車が集結する"もてなし広場の勢揃い"です。
驚いたことがありました。それは、午後4時半駅前通り出発し、この日の山車まつりのメイン会場の広場へ向って出た南地区の山車隊列の先頭が、なんと巡行札番Kの新田町であったことで、札番@の石原下一が隊列の一番最後でした。これに気が付いたのは、管理者が「もてなし広場」の入口脇に陣取って、入場する山車の隊列を撮影していて、東地区の後に入場してきた南地区の先頭の山車が、札番が一番の石原下一でなく、12番の新田町であったからです。ありゃぁ、何と無神経な。
山車まつり初日の一番華やかである山車隊列巡行で、折角掲げた札番の一番からでなく、最終番号を先頭にして巡行を始めたという隊列の指揮者の神経を疑います。高級なスーツで着飾った人の胸のボタンが掛け違っていたら目をそむけたくなるのと同じです。管理者が地元の人間ですから、敢えて苦情を提示しました。逆番号順の実体は、広場入場の動画をご覧頂ければお分かりになります。
整列位置が退出口に近い南地区は、広場での整列位置を退出口近くに@を置き、札番号順に並べ、最後のKを広場の一番奥に位置決めしたものと思えるのですが、ともかく、山車隊列巡行は、「町名の札」や「人形名の札」と一緒に各山車の鉾台に掲げられた隊列順番を示す「札番(隊列順番札)」の通りに、先頭が一番札の山車になるのが絵になります。
些細なことに思われるかもしれませんが、平成15年新発足の「高崎山車まつり」は来年以降、実施日が単独になる予定です。今迄以上に、高崎の山車文化を民俗伝統芸能として育成し継続してゆくという覚悟が必要ではないでしょうか。自らが楽しむだけでなく、多くの人達に素晴らしい山車祭りだと評価が貰えるためには、どの様な山車巡行にしたらいいかなど、「山車まつり」の演出が益々重要になってきます。
大きな枠のなかのひとつのイベントなら、マンネリなことをしていても多少ごまかせますが、ひとり立ちとなると、多くの支持を得て行くにはどうすればいいか、という身の引き締まった真剣な覚悟で臨む必要があるのではないでしょうか。まつりの運営がマンネリ化して、手を抜くようなことをしていると、外からだけでなく、身内の中にも不平、不満が溜まって、不参加の山車町が増えたりして、せっかく始めた「山車まつり」の存続が危ぶまれる事態になってしまうかも知れません。
「高崎山車まつり」の発足を契機に、「高崎山車まつり保存会」「高崎山車まつり実行委員会」の責任者各位をはじめ、各山車の氏子町内のリーダー諸氏が、市外、県外のよその山車・屋台祭礼をあちこち見学して頂き、山車綱の曳き手の様子から、祭全体の運営のノウハウ迄を再点検すべき時ではないかと、諫鼓鳥の太鼓をドンドンと叩いて提言致します。管理者の老婆心であれば幸甚です。
上の巡行路図は、「高崎山車まつり」の案内チラシを参照して管理者が作製しました。下の広場の山車整列図は、同案内チラシの部分をコピーさせて頂きました。
もてなし広場の山車整列図の中の町名をクリックしますと、その町の山車の画像がご覧になれます。