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秩父市大字山田の恒持(つねもち)神社の例大祭 "山田の春まつり"

 平成15年3月9日、埼玉県秩父市大字山田の春の例大祭"山田の春まつり"を見聞しました。"山田の春まつり"は、夏の"川瀬まつり"、冬の"秩父夜祭り"と共に、秩父市を代表する笠鉾と屋台の曳き山祭りです。

 晴天の9日正午過ぎ、車で家を出て秩父に向いました。国道140号の秩父大野原交叉点を左折して、暫く進むと横瀬川に差し掛かりました。橋の上、右方向を見ると、石灰石の採掘で階段状になった山肌が雪に白く覆われた秩父のシンボルの武甲山が、冬晴れの青空を背景にして、泰然と聳えておりました。暖冬でここ数年、関東は雪の少ない冬がつづいていたのですが、今冬は雪の日が多く、3月になっても6日夜から雪となり7日昼までに、秩父市内で14cm積もったそうです。
雪の武甲山が醸し出す情緒深い笠鉾と屋台の曳き廻しをレポートします。


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 3月9日、秩父市大字山田地区で行われた山田の春祭りは、秩父市とその周辺地区で毎年、年間を通して数多く行われる笠鉾・屋台祭りのさきがけとなるものです。
訪問に際し、山田の名称について秩父市役所に問い合わせをしました。それによりますと、山田とは、昭和32年5月3日に、高篠村大字山田地区が秩父市と合併して、秩父市大字山田となったもので、上山田・中山田・下山田・栃谷本・栃谷・定峰の6つの町内会に分かれている。6つの町内の一部は地図に載っているが、全部の町内は記載されてませんが、参考迄に秩父市大字山田の周辺地図をYahoo!MAP をクリックしてご覧下さい。

笠鉾・屋台の巡行ビデオがご覧になれます。

 画像データーを、ナローバンド(ダウンロード速度56Kbps)用と、ブロードバンド(ダウンロード速度250Kbps)用の二つにデーターを分けてありますので、次ぎの操作要領に従って、ご覧になる皆さんの通信環境に合わせて、クリックして下さい。

お使いのインターネットの通信環境がダイアルアップ式、又はISDNの方は、図中の「屋台と笠鉾のアイコン画像」をクリックしますと、 Windows OSに標準装備のWindows Media Player が立ち上がって、屋台・笠鉾の巡行の様子が、動画と音声でご視聴出来ます。160×120 56kbps 15fps 。音声は正常ですが、動画がコマ跳びします。

尚、インターネットの通信環境がADSL、CATV などのブロードバンドの方は、ブロードバンド300kと表示されたアイコンをクリックしてしますと、Windows OSに標準装備のWindows Media Player が立ち上がって、大きいサイズ320×240の画面で、通信速度が250kbps で、コマ数が30fps のTVのような動きが滑らかな動画が再生されます。

 以下ご紹介します内容は、祭り当日9日午後1時半過ぎ、山田地区を訪れ、八坂神社脇で最初に出会った2基の屋台が、途中合流した笠鉾と隊列をつくって、恒持神社へ向う巡行の様子をレポートしたものです。図中の黄色は屋台、黒は笠鉾の巡行路。隊列は先頭が笠鉾で山組、本組の順番。
後で分かったのですが、管理者が八坂神社脇で最初に出会った2基の屋台は、午前中に恒持神社境内での一連の祭典の後、神官と神輿の神幸行列と、その先導役の2基の屋台が旅所の八坂神社に丁度、到着したところでした。

 横瀬橋を渡るとやがて信号機のある交叉点となった。警察官と右折禁止の立て札から、その道が屋台・鉾の巡行の道路であることが分かった。先ずは駐車場を捜そうと前を行く車に従って左折し、そのまま進むと道の左側に大勢の人だかりが見えて来た。そばまで来るとその人だかりは、八坂神社の鳥居の脇道に待機する2基の屋台の曳き手衆や町内の人達でした。


左画像:八坂神社正面と脇道に待機する山組と本組屋台、右画像:山組の舞台所作。尚、左画像はクリックすると拡大します。

 法被を着た人に尋ねたところ、「山組」と「本組」であると教えてくれました。2基とも秩父型屋台そのもですが、やや小ぶりです。丁度、屋台の舞台では三味線と長唄にあわせ、着物姿も可愛い女児の踊りの披露の最中でした。

 所作が終わるのを待ってたように、お囃子が始まり、軽快なテンポの小気味よい小太鼓の音を耳にして、うぅん、いいなぁ、秩父に来たんだぁ、と思った途端に身も心もすっかり祭りモードに突入でした。お馴染みの秩父伝統の祭り着物で身を飾った上乗り・煽り衆が、屋台正面の轅(ながえ)と舞台の勾欄の上に乗って、手にした扇子を大きく旋回し、喚声を合図に、山組を先頭に2基の屋台が八坂神社を出発しました。上乗りの皆さんは全員が二十歳代の青年で、嬉々として全身を動かして、祭りを楽しんいる様子でした。上乗りの人数が多すぎる位に、若い人達が積極的に祭りに参加している姿は、頼もしく感じます。出発して直ぐに左折、高篠小学校がある県道交叉点迄の狭い町道をゆっくり巡行する屋台のお囃子と喚声が、周囲の秩父地の山野に春の訪れを告げているようでした。

左画像:山組、右画像:本組 各々画像をクリックしますと、拡大します。


 町道を巡行した山組と本組の2基の屋台が高篠小学校前の交叉点から県道11号に入って南に向いますと、それに合わせて、交叉点から少し南にいった県道右端の商店の駐車場で待機していた大棚(山組)笠鉾が動きだし、2台の屋台の前に出て、隊列の先頭に立ちました。

 午前中に恒持神社境内での一連の祭典の後、神官と神輿の神幸行列が旅所の八坂神社に向った際、その先導役を2基の屋台と一緒に勤めた大棚(山組)の笠鉾は、背丈が高くて通れぬ所があり、八坂神社までは行かずに、行列順路の途中の高篠中学近くで待機していたのでした。

 高篠小前の交叉点から南へ下がって恒持神社までの間の県道11号は車両乗り入れが止められ、祭りの雰囲気が盛り上る中、鉾と屋台の隊列は、ゆったりと道路一杯に広がって元気に巡行を続けておりました。青く高く広がる天空の下、上乗り衆の煽りの喚声とお囃子の音が一段と大きく響き渡り、芽吹きを待つ山肌に残る雪が陽光を一杯に受けて白く輝く早春の秩父地に、春の訪れを告げておりました。

左画像:大棚の笠鉾 右画像:先頭の笠鉾に続いて山組、本組の隊列の真正面には、雪に被われた武甲山が聳える。各々画像をクリックしますと、拡大します。


恒持(つねもち)神社の由来と 山田の春まつりの起源

 山田の春祭りは恒持神社の例大祭です。春の山田まつりは、夏の川瀬まつり、冬の秩父夜祭りとともに、秩父市を代表する祭礼と聞いてはおりましたが、今回が初めての訪問でした。どんな祭りなのかと、恒持神社で訊ねたところ、山田春まつりのパンフレットは例年作ってないとのことでした。幸い、恒持神社の宮司でおられる坂本氏から、神社と祭礼についての資料を拝見させて頂きましたので、その一部を抜粋して、次ぎに紹介させて頂きます。

当社の東方に位置する丸山の一支峰である高斯野(たかしの・高篠)の山中には神沢と呼ばれる池があり、古くから水源の一つとなっている。日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征の折、この山に登って泉で禊をして神祗を祀られた。尊の没した後、里人はその徳を慕って神沢の池に尊の御霊を祀り、高斯野社(たかしのしゃ)と号したという。これが当社の始まりである。神社宮司坂本氏の資料より抜粋。 

 拝読した資料のつづきを要約しますと、桓武天皇の曾孫の高望王(たかもちおう)の弟である恒望王(つねもちおう)は、大同元年(806年)武蔵の役人に任じられ、統治した山田・大野原・定峰などの一帯の15ケ村を恒望荘とし、高斯野社を恒望荘の総社に定めた。恒望王が没すると里人は王の御霊を高斯野社へ祀ったと伝えられ、この時、社号を王の名を冠して、恒持明神と改めたという。

 明治5年に高篠村の村社となり、同41年に、西新木の丹生神社、中山田の丹生神社と境内社稲荷社、五反田・谷津・古堂の諏訪社、山の神の山神社が合祀された。戦後、社掌の坂本鉄蔵は、境内の整備、諸施設の充実に努め、昭和33年の社殿改築を手始めに社務所改築・参集所の新築を行い、同54年には神楽殿・神輿庫を竣工した。

 社殿は三社あり、中央が本殿で、日本武尊・恒持王などを祀り、内陣には「勘定・日本武尊高斯社・恒持王」と刻した石がある。向って右側の社は旧西新木の丹生神社の社殿で現在は織姫神社となっている。左側の社は旧中山田の丹生神社の社殿で、現在は稲荷神社となっている。 

 上の左の画像は、恒持神社の社殿です。
 上の右の画像は、左が神楽殿、右奥に社務所がある。各々画像をクリックしますと拡大します。

神社本殿前に戻った笠鉾と屋台は、ぼんぼり式の上開き6角形の提灯を、舞台の勾欄と腰支輪に取りつけ、丸提灯を軒支輪と欄間に吊るしました。夕闇の迫った神社境内で、かすかに揺れるローソクの火で浮かびあがった笠鉾・屋台は、きらびやかな昼間の姿とは違って、静かで幽玄な趣に包まれておりました。


 

 宮司さんの資料の中で、山田春祭りを次ぎのように説明しております。

「山田の春祭り」と呼ばれる例大祭は3月15日に行われ、"秩父に春を告げるまつり"として、近郊に知られている。この祭りが山田地区全域の祭りとなったのは合祀後のことで、それ以前は上山田地区を中心とした恒持神社・上山田新木を中心とした新木丹生神社・中山田地区の中山田丹生神社の三社で別々に行われていた。中略。現在の祭りは3月10日頃の"お水もらい"から始まる。当地は高篠山山頂の池の水の恩恵を受けていることから、宮司・氏子総代六名が一斗の水をもらい下山する。このころには例大祭協議会が関係団体を交えて行われ、屋台、笠鉾係・煙火係など諸々の係が決められる。14日は宵待ちで、早朝から神社役員のほか各係によって飾り付けをはじめ、諸準備が進められる。15日の午前8時、上山田(本組)・中山田(上組)の屋台と中山田(大棚組)の笠鉾が曳き出される。本組が上・大棚の二組を迎えに行き、3台揃って神社に参拝し、屋台と笠鉾を修祓した後、祭典が行われる。渡御は午後からで、「所作事(しょさごと)」の奉納後に行われる。古くは山田橋の袂の瑞錦(ずいきん)と呼ばれる所が御旅所であったが、現在は下山田の八坂神社に変わり、そこで子供の「所作事」が行われる。午後3時過ぎに屋台と笠鉾は御旅所を出発し、午後5時頃神社に戻る。次いで午後7時、再び曳き出された屋台と笠鉾は高篠中学校まで行く。このころになると「音楽花火」が打ち上げられ、その音は秩父の市街にも響き渡る。その後、屋台と笠鉾は結城屋商店前十字路で「手打ち」をし、それぞれの組に帰る。神社宮司坂本氏の資料より抜粋。

 昔から、神社の例大祭の実施日は、曜日は関係なく、暦日で決まっていたのが一般的でしたが、現代社会の生活事情から祭礼実施日が最近は、日曜土曜の週末に変わって来ております。多分、同じような事情で山田春祭りも、3月の第二日曜日の本祭り祭典、渡御、屋台・笠鉾の巡行になったものと、推察します。

 本ページの冒頭でご説明申し上げましたが、管理者は9日の午後に山田に入りましたので、午前の神社境内での祭典、お旅所の八坂神社までの渡御行列は観覧しておりません。運良く、お旅所である八坂神社での子供の所作の最後の方が観覧でき、屋台と笠鉾がお旅所からの出発して、神社に戻る迄の曳行の様子を鑑賞することが出来ました。

 宮司さんの資料にあります恒持神社例大祭の諸準備から、祭当日の境内での鉾、屋台の参拝、祭典、渡御などは、今でも殆どこの資料の内容と同じように祭の運営が行われておるようです。 当日、本組の屋台に随伴しておられた組の老中格と思われる方に、屋台や祭のことを訊ねました。僅かな時間でしたので、多くは聞けませんでしたが、こんなお話をしてくれました。

 江戸時代から明治、大正、昭和にかけて、地場産業の絹織物の秩父銘仙で知られた秩父地域でしたが、なかでも山田地区には有力な機屋(はたや)が集まっていて、隆盛を競っていた。上山田、中山田は、これら財力を持った有力な後援者が住んでいたので、戸数が少ない地区でありながら、屋台や笠鉾などにお金が掛けられたし、祭を伝統として残してこられたんだ。戦時中、この地区の機屋仲間が、何と"ゼロ戦" 戦闘機を軍へ寄付したんだよ、と話してました。とてつもないお話でしたが、往時の山田地区の繁盛ぶりを思い起こすものがあるのでしょう。

 祭礼曳きものに詳しい地元の研究家のお話ですと、山田の2基の屋台は幕末に造られた後、いろいろ手が加えれて現状の姿に仕上がったのだそうで、笠鉾は明治12年、地元の12人の篤志家の浄財で造られたものだそうです。尚、山田地区で鉾・屋台を所有する町内会は上山田、中山田だけですので、持たない4町内会の人達は、鉾・屋台をもつ町内会を支援する慣わしになっておるそうです。

 恒持神社の坂本宮司さんの資料によりますと、新木屋台を持つ本組は、上山田地区の神社を含み南方向の横瀬町の境界までの地域をいうが、現状の戸数は約300戸、山組屋台を所有する中山田地区で神社より北方向の上組が約220戸、上組笠鉾を所有する中山田地区で神社から東方向の山間地域の大棚が約40戸となってますが、本組の老中格の方のお話ですと、毎年の例大祭の笠鉾・屋台の出場経費と日常の笠鉾・屋台の維持補修費は、殆どが地元で負担されておるとのことです。

 金額は知るべくもありませんが、決して半端な額ではないと思います。そんな中で、今日迄、山田の春祭りを続けて来られた山田の皆さんには、この祭りは自分達の祭りだ、自分達の先人から受け継いだ大切な祭りなんだ、だから絶やしてならないのだとの強い信念と、自分達の祭りに強い誇りを持っておられるからであろう、と思いました。大きな喚声を上げて、はつらつと元気に曳き手衆を煽る若者達に、自分の町内に鉾や屋台を持たぬ人たちは、各組の屋台・笠鉾の曳行に応援参加をするなどして、自分達の祭りを愛する山田の皆さんに、大きな拍手をお送りします。


 


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