昔から、神社の例大祭の実施日は、曜日は関係なく、暦日で決まっていたのが一般的でしたが、現代社会の生活事情から祭礼実施日が最近は、日曜土曜の週末に変わって来ております。多分、同じような事情で山田春祭りも、3月の第二日曜日の本祭り祭典、渡御、屋台・笠鉾の巡行になったものと、推察します。
本ページの冒頭でご説明申し上げましたが、管理者は9日の午後に山田に入りましたので、午前の神社境内での祭典、お旅所の八坂神社までの渡御行列は観覧しておりません。運良く、お旅所である八坂神社での子供の所作の最後の方が観覧でき、屋台と笠鉾がお旅所からの出発して、神社に戻る迄の曳行の様子を鑑賞することが出来ました。
宮司さんの資料にあります恒持神社例大祭の諸準備から、祭当日の境内での鉾、屋台の参拝、祭典、渡御などは、今でも殆どこの資料の内容と同じように祭の運営が行われておるようです。
当日、本組の屋台に随伴しておられた組の老中格と思われる方に、屋台や祭のことを訊ねました。僅かな時間でしたので、多くは聞けませんでしたが、こんなお話をしてくれました。
江戸時代から明治、大正、昭和にかけて、地場産業の絹織物の秩父銘仙で知られた秩父地域でしたが、なかでも山田地区には有力な機屋(はたや)が集まっていて、隆盛を競っていた。上山田、中山田は、これら財力を持った有力な後援者が住んでいたので、戸数が少ない地区でありながら、屋台や笠鉾などにお金が掛けられたし、祭を伝統として残してこられたんだ。戦時中、この地区の機屋仲間が、何と"ゼロ戦" 戦闘機を軍へ寄付したんだよ、と話してました。とてつもないお話でしたが、往時の山田地区の繁盛ぶりを思い起こすものがあるのでしょう。
祭礼曳きものに詳しい地元の研究家のお話ですと、山田の2基の屋台は幕末に造られた後、いろいろ手が加えれて現状の姿に仕上がったのだそうで、笠鉾は明治12年、地元の12人の篤志家の浄財で造られたものだそうです。尚、山田地区で鉾・屋台を所有する町内会は上山田、中山田だけですので、持たない4町内会の人達は、鉾・屋台をもつ町内会を支援する慣わしになっておるそうです。
恒持神社の坂本宮司さんの資料によりますと、新木屋台を持つ本組は、上山田地区の神社を含み南方向の横瀬町の境界までの地域をいうが、現状の戸数は約300戸、山組屋台を所有する中山田地区で神社より北方向の上組が約220戸、上組笠鉾を所有する中山田地区で神社から東方向の山間地域の大棚が約40戸となってますが、本組の老中格の方のお話ですと、毎年の例大祭の笠鉾・屋台の出場経費と日常の笠鉾・屋台の維持補修費は、殆どが地元で負担されておるとのことです。
金額は知るべくもありませんが、決して半端な額ではないと思います。そんな中で、今日迄、山田の春祭りを続けて来られた山田の皆さんには、この祭りは自分達の祭りだ、自分達の先人から受け継いだ大切な祭りなんだ、だから絶やしてならないのだとの強い信念と、自分達の祭りに強い誇りを持っておられるからであろう、と思いました。大きな喚声を上げて、はつらつと元気に曳き手衆を煽る若者達に、自分の町内に鉾や屋台を持たぬ人たちは、各組の屋台・笠鉾の曳行に応援参加をするなどして、自分達の祭りを愛する山田の皆さんに、大きな拍手をお送りします。