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7年に一度の善光寺御開帳と5月25日の弥栄神社御祭礼見聞録

 平成15年5月25日に行われた長野市の弥栄神社の御祭礼の屋台巡行を見聞しました。善光寺のある信州長野に、かなりの台数の祭礼屋台があることは、先輩の祭愛好家から聞いておりました。その屋台が、平成15年の善光寺御開帳の折に、久しぶりに出場し曳行されると聞き、今回の長野訪問となりました。

 当日の朝8時過ぎ長野駅到着の新幹線で長野入りしました。1ヶ月余りつづく御開帳の期間の最後の日曜日でもあり、長野の天気予報も晴天でしたし、屋台巡行もあることから、相当の人出があると予想して、早く長野入りをしました。今迄に幾度か善光寺参りはしておりましたが、御開帳時は初めてでしたので、あの有名な善光寺本殿前の回向柱にも振れてみたい思いも重なって、この日の長野訪問が実現しました。

 信州長野と聞けば、日本人の誰しもが "あぁ、善光寺ね" と頭に浮かぶほど、善光寺は知られております。西暦7世紀に開基されたという善光寺は、今日まで1400年余の長きに渡り、一生に一度は善光寺詣りを、と四季を通じ日本全国各地からの人々の参詣が途切れることがないとのこと。宗派にこだわらず、男女の区別もなく平等に救いを説く寺院として、女性参詣者の多いことも、日本全国に善光寺が広く知られておる理由のようです。

善光寺の開基"善光"の大法会を奉賛した弥栄神社御祭礼

 実は、長野に入って分かったのですが、我が国各地で行われている祭礼は、五穀豊穣、無病息災を神に願って行われる神社の祭礼が普通ですが、善光寺の門前町として栄えてきた長野の町では、祭のニュアンスというか、祭の意味が少し違っていたようです。

長野市役所観光課発行の「弥栄神社御祭礼の栞」と、屋台を出場させている北石堂町の発行の「祭典かわら版」のなかの解説を紹介します。
「弥栄神社御祭礼の栞」での弥栄神社の紹介を要約しますと、鎌倉幕府を開いた源頼朝が承久7年(1196年)善光寺を参内したさい、町に悪疫が流行していて、その退散の為に頼朝が命じて祀られたのが弥栄神社で、御本社は京都の八坂神社で、祭祀は素戔鳴尊である。現在の社地は安永3年(1774年)当時の大勧進住職が寄進したものと伝えられている。

 弥栄神社の祭礼は、長野祇園祭とも呼ばれ、新暦7月7日の「天王下ろし」から14日の「天王上げ」までの8日間行われていた。この弥栄神社祭礼の天王上げ前日の13日は善光寺開基の本多善光(よしみつ)の命日と伝えれ、町民は戸口に献灯を下げ、各町が趣向を凝らした燈篭をもって町内を行進し、弥栄神社に奉納した」と紹介してます。

 善光寺では毎年この13日に「善光」の大法会が盛大に行われていたので、それにタイアップする形で町民が弥栄神社の祇園祭を盛り立てたものと考えられます。圧倒的な善光寺の存在感があるなかで、善光寺開基の命日の大法会が挙行されるとなれば、神社の祗園祭りがお寺の大法会を祝う祭礼に変質してしまうのも無理からぬことに思えます。そして、御開帳にあたる年の弥栄神社祭礼は、本来の新暦7月に行われるものを、前倒しをして御開帳の期間に合わせて、繰り上げて実施されている(今回は5月25日)。


当初は善光寺開基「善光」の祭、明治から弥栄神社のお祭りに

 一方、北石堂町の"かわら版"では、弥栄神社祭礼をずばりこう紹介してます。
「・・ここに祗園祭礼と記してきたが、その由来を尋ねれば、祗園祭にあらず、加えて弥栄神社の祭礼にもあらず、本来は善光寺如来を勧請した『善光』の大法会というものである。『善光』が逝去した旧暦6月13日は、いにしえより毎年その日は、荘厳な大法会が行われていた。この日、参詣する人達は、『善光』の徳を恩とし、燈篭を献じたり、歌を唱えたりしていた。町の人々はこれを真似、ついには祭礼のようなもになった。なぜ祗園祭と称したかは定かではないが、その盛んなことは京の祗園会に劣るものではなかったからと思われる。また神輿というものが古きから、この祭礼にはないことからも、祗園会の祭礼であっても神社でなく善光寺との関係が深く、善光寺の祭礼として扱われていたことが分かる。」(この内容ですと、弥栄神社の祗園祭りが、大寺院善光寺の傀儡イベントに思えてしまうのですが、次ぎに紹介します"神仏習合"の我が国の宗教環境が起因しているように思えます=管理者=)

 この"かわら版"の解説は、江戸時代までの我が国の時代背景を支配した精神文化のひとつに、"神仏習合"の宗教感あったことを考えると理解できる。わが国固有の神祇と仏教の諸仏菩薩を同一視し、一緒にあわせ信仰すること、と専門書などには書かれてますが、我が国は中世以降、宮寺制の成立で、神社の行事祭事にも仏教色が強くなり、神社境内に鐘楼が置かれ、御供えは精進に限られたり、神前読経や写経は一般化し、仏殿の装飾である幡や華鬘(けまん)が社殿にも懸けられるなど、我が国独特の宗教文化があったことも、大きく影響しておると思われます。

 "かわら版"は続いて、「しかしながら、明治維新となって、神仏習合の禁止令が出された。これにより善光寺が祗園会として、この祭りを執行することができなくなった。かといって、町内の人たちはこれまでの祭礼を廃止されては困ると騒ぎ立ち、その結果、善光寺境内に弥栄神社を建て、以後は弥栄神社の祭礼とした。」
と、このように紹介してます。しかし、祭礼の執行者が善光寺から弥栄神社に変わっただけで、弥栄神社の祭礼日は『善光』の命日の新暦の7月13日であり、祭りの内容は変わってない。神仏習合の信仰形態を一掃し,国家神道としての体裁を整えるために神仏分離政策が明治政府によって推進されるなか、弥栄神社が長野祗園祭りの受け皿となったことを紹介してます。

 つづいて、"かわら版"は「戦前はほぼ毎年、屋台が出され、戦後は年番が中心となって屋台をだして来ましたが、昭和37年迄は、大勧進と大本願の物見下で、各町屋台が必ず踊りを奉納していた。翌年38年からは、弥栄神社のご神体を善光寺山門上に安置し(御旅所?管理者)、善光寺と弥栄神社へ、各町が踊りを奉納するようになり、現在に至っています。」
と、長野祗園屋台巡行祭りとも呼ばれる弥栄神社御祭礼屋台巡行を、以上の様に解説してます。

 明治政府になって、神仏習合が禁じられ、神仏分離・廃仏毀釈の嵐のなかで廃寺が各地に広まる中、善光寺は大本願、大勧進の有力な宗派に支えられ、寺院としての体制は維持された。


善光寺御開帳奉賛 弥栄神社御祭礼屋台巡行と舞の奉納

 ほかの新幹線の降車客に混じって、長野駅の改札口から外へ出た。日曜の朝の8時を過ぎたばかりだからか、駅前広場や善光寺へ真っ直ぐ延びる幅の広い中央通りは、まだ人出も思いのほか少なく、時たまバスが通りぬけるくらいで車の姿は殆どなく、両側のビルに挟まれた街路樹や路面が明るい陽光を受け、静かな朝の長野の街は爽やかな新鮮な気分にしてくれました。オリンピックを開催した長野市だけあって、あかぬけした品格のある街並はさすがでした。神社祭礼ともなると露天商が参道や境内を埋めるのが普通ですが、この日終日、露天は1軒も見掛けませんでした。蛇足ですが、昼食時は参道付近の飲食店はどこも、満杯の行列騒ぎでした。

 中央通りを善光寺方向の北へ歩き始めましたら直ぐに、前方右側の道から大きな獅子頭が現れました。えぇ、獅子舞か?と驚いてみていましたら、獅子頭を先頭にした隊列につづいて屋台が中央通りに入ってきました。権堂町(ごんどうちょう)の屋台でした。 これまでに弥栄神社祭礼・長野祗園まつりに出場した屋台は、長野市中で今でも二十数台あるそうですが、獅子舞と屋台が合体した形の屋台は、この権堂町の屋台だけとのことでした。弥栄神社御祭礼の栞の中で、権堂町界隈は江戸時代に数十軒の水茶屋(遊郭)があり、善光寺参りの客で隆盛していて、正月や祭り等で、威勢がよい町民が厄払いとして、乱暴御赦免と獅子舞で暴れ廻っていたとの言い伝えがある、と権堂町の獅子屋台を紹介してます。

権堂町屋台の舞台下は楽屋になっていて、大太鼓・小太鼓、笛、三味線などの10人ほどの囃子衆が奏でるお囃子に合わせて、獅子頭の中にスッポリ入った形の血気盛んな若衆が、前後左右に獅子頭を振り回し、跳ねたりしながら大きな口をパクパク開けたり閉めして、激しい動きをみせまます。獅子のボデーとなる「ほろ布」を被った屋台の曳き手衆は、大きな喚声を出しながら激しく動き回る獅子頭の後を追いかける様子はすごい迫力で別名、暴れ獅子とも呼ばれているのも頷けます。祭礼の屋台巡行の先陣を毎回、勤めるだけあって、人気の屋台です。巡行順序の先頭一番の権堂町の屋台ですから、当日朝、出発位置に一番乗りしたわけです。

 長野市市役所ホームページの観光のジャンルに、『屋台巡行』のタイトルで、「平成15年5月25日(日)小雨決行  9:20〜出発 10:30 屋台奉納 中央通り〜善光寺山門下」 と、案内をして、次ぎの様に紹介してました。「・・かって、弥栄神社御祭礼として、毎年7月に行われていた屋台巡行、ここ数年は定期的な実施に至らず、なかなか観ることが出来ませんでしたが、今年は善光寺御開帳にあわせて開催されます。今回、巡行を予定している屋台は全部で8台。歴史ある貴重な屋台ばかりです。また、中央通りでは、ちょうちんに花笠をつけた「花灯ろう」が飾られ、花をそえます。」とありました。
この日、善光寺へ向ったの大勢の人たちのなかには、このホームページの広告を読んで出かけた人も多かったと思いますが、管理者もそのひとりでした。

 中央通りの駅よりの末広町交叉点から昭和通り交叉点までの間の路面に、権堂町を先頭に、つづいて、南千歳(みなみちとせ)町、上千歳町、北石堂(きたいしどう)町、大門(だいもん)町、西後(にしご)町、南石堂町、最後が元善(もとよし)町と、各町の会所を出た屋台が出発位置にそれぞれ集合して、9:20の出発時刻には8基の屋台が勢揃いしました。

 屋台が出発位置に集まり始めたと同じ時刻に、中央通りを善光寺方面から新田町交叉点に向って、長い幟を下げた背の高い笹竹を幾本も捧げた神官の一行が近づいて来ました。弥栄神社御祭礼と大書された幟が風で右左に流されのも祭の風情を感じさせます。平らな一文字笠をつけ、黒の紋付羽織袴姿の大勢の警固の大人達が前後を護る中、白馬に騎乗し烏帽子(えぼし)に狩衣(かりぎぬ)姿がきらびやかでしかも優雅な少年が現れました。

 地元で「御先乗り」と呼ばれるもので、弥栄神社御祭礼栞の解説に、「年番町より神の代理として選ばれた少年が馬に乗り、屋台巡行の先頭に立ち、各町を練り歩きます。これは純真な稚児に神が乗り移り、夏の疫病を祓うという信仰で、長野を彩る夏の風物詩です」と紹介されてます。又、祭礼前日の5月24日日付けの地元紙「長野市民新聞」の"屋台巡行みどころ"の記事の中のお先乗りの解説には、「祭りは町中の悪疫を追い払う役目を担う『お先乗り』の子供が馬に乗って屋台を先導。今回は東之門町の岸整形外科院長、岸正朗さんの双子の長男と次男で、城山小学校5年の岸周吾君、朋希君が、午前(周吾君)と午後(朋希)に交代で務める」と、あります。

 管理者が最初に見た中央通りを善光寺方面から新田町交叉点に向って進んできたお先乗りの一行は、新田町交叉点の手前でUターンして、屋台巡行開始直前の9時過ぎに善光寺山門に向けて出発しました。お先乗りの一行に続いて、屋台巡行の開始です。いよいよ弥栄神社御祭礼・長野祗園屋台まつりのスタートです。

 「お先乗り」の出発に際し、「注連縄(しめなわ)切り」 が行われました。皆さんがご存知の様に、京都祇園祭で7月17日の山鉾巡行の出発に際し、先頭の長刀鉾に乗る稚児が巡行の開始の合図として、注連縄を太刀で切り落す、あの有名な所作を思い出せました。
お先乗りの少年の右腕の太刀が、介添え人が右手で支える注連縄に振り下ろされる瞬間の画像です。刃が正面に向いたため細い棒の様に見えますが、ほんものの小刀でした。
 岐阜の高山祭りや秩父まつりなど、各地の神社祭礼では山車・屋台の巡行の前後に神社神官や祭礼関係者による「神幸行列」(神幸祭とも呼ばれる)が行われてます。神社御輿の前後に、幟、太鼓、駕籠舁き、神馬、まつり関係者などが大勢従う「神幸行列」は、祭神が乗っているといわれる御輿が主役ですが、「お先乗り」行列には御輿がありませんから、神幸行列とは呼べません。
弥栄神社御祭礼が、祗園会の祭礼(祗園祭り)であっても弥栄神社よりも善光寺との関係が深く、御輿がないということは祗園会が善光寺の大法会として扱われていたことの証かも知れません。

 
奉賛の屋台舞踊はどんな様子?その一部を紹介します!

屋台巡行の様子の一部を中央通りを中心に管理者がビデオ撮りしました。その中の一部分をご紹介すべくデーターを準備しましたので、Windows OS に標準装備されているMicrosoft Media Player で再生してご覧下さい。ご使用の通信環境に合わせて、画像脇のブロードバンド又は、ナローバンドのバナーをクリックして、ご視聴下さい。クリックすると、Playerが立ち上がり、「メディアに接続」→「バッファ処理中」を経て画像が出てくる迄、20秒前後は掛かりますので、気長にお待ち下さい。ナローバンドの動画はコマ飛びしますが、音声は正常に聴けます。


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注連縄切りを済ませたお先乗りの一行は善光寺山門を目指して、雅やかのなかにも威風堂々と、中央通りを北へ進み始めました。屋台の先導に立って、善光寺、弥栄神社の奉賛までは屋台巡行路とほぼ同じ順路を進んだ後、「お先乗り」は、町中の悪疫を祓う役目を担うので、長野市街地を隈なく巡行します。お先乗りに従う神官が持つ岸家と書いた大きな団扇の紋は先乗り童子の家の紋。

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北野文芸座
前を通過するお先乗り一行。背景の文芸座の唐破風の屋根がお先乗りの衣装を引き立てている。

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「二階台式」の権堂町屋台。地元でこう呼ぶ階下が楽屋、階上が舞台の二階建構造。御祭礼の栞は権堂町屋台の獅子について、古く江戸時代から乱暴ご免の暴れ獅子として、町民には愛されて来たが、時代の進歩と共に「勢い獅子」と改称して今日に至り、長野祗園祭りの名物になっている、と解説してます。獅子舞と屋台囃子がある唯一の屋台。

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「踊り屋台」の大門町屋台。土台の四隅に四本の柱を立て、市松模様の油障子で屋根を葺いただけで、楽屋はなく踊りをするだけの高さ約4メートルの「踊り屋台」と、小ぶりで囃子演奏者が"入る"(床がないのだから、"乗る"のではない)底抜け屋台との2台構成である。派手な装飾がない簡素な白木造りが特徴である。南石堂町と元善町が同形式。

注:今回見聞した大門町と元善町の底抜け屋台は床をつけて、その床に三味線音曲の演奏者が乗っておりますから、ほんとうの意味の底抜けではなくなっている。南石堂町の底抜け屋台は軽四輪トラックですから論外。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。

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「本屋台」の西後町屋台。地元では「本屋台」と呼ぶ六本の柱を立てて、前部を舞台、後部を楽屋(下座・げざ)に分け、破風や垂木(たるき)で重厚に仕上げた屋根を載せ、豊富な彫刻類で屋台の内外を飾った豪華な屋台。漆塗りや彩色をしない白木造りと漆塗り仕上げのふたつに分類される。南千歳、上千歳、北石堂の各町が同形式。

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