一方、北石堂町の"かわら版"では、弥栄神社祭礼をずばりこう紹介してます。
「・・ここに祗園祭礼と記してきたが、その由来を尋ねれば、祗園祭にあらず、加えて弥栄神社の祭礼にもあらず、本来は善光寺如来を勧請した『善光』の大法会というものである。『善光』が逝去した旧暦6月13日は、いにしえより毎年その日は、荘厳な大法会が行われていた。この日、参詣する人達は、『善光』の徳を恩とし、燈篭を献じたり、歌を唱えたりしていた。町の人々はこれを真似、ついには祭礼のようなもになった。なぜ祗園祭と称したかは定かではないが、その盛んなことは京の祗園会に劣るものではなかったからと思われる。また神輿というものが古きから、この祭礼にはないことからも、祗園会の祭礼であっても神社でなく善光寺との関係が深く、善光寺の祭礼として扱われていたことが分かる。」(この内容ですと、弥栄神社の祗園祭りが、大寺院善光寺の傀儡イベントに思えてしまうのですが、次ぎに紹介します"神仏習合"の我が国の宗教環境が起因しているように思えます=管理者=)
この"かわら版"の解説は、江戸時代までの我が国の時代背景を支配した精神文化のひとつに、"神仏習合"の宗教感あったことを考えると理解できる。わが国固有の神祇と仏教の諸仏菩薩を同一視し、一緒にあわせ信仰すること、と専門書などには書かれてますが、我が国は中世以降、宮寺制の成立で、神社の行事祭事にも仏教色が強くなり、神社境内に鐘楼が置かれ、御供えは精進に限られたり、神前読経や写経は一般化し、仏殿の装飾である幡や華鬘(けまん)が社殿にも懸けられるなど、我が国独特の宗教文化があったことも、大きく影響しておると思われます。
"かわら版"は続いて、「しかしながら、明治維新となって、神仏習合の禁止令が出された。これにより善光寺が祗園会として、この祭りを執行することができなくなった。かといって、町内の人たちはこれまでの祭礼を廃止されては困ると騒ぎ立ち、その結果、善光寺境内に弥栄神社を建て、以後は弥栄神社の祭礼とした。」
と、このように紹介してます。しかし、祭礼の執行者が善光寺から弥栄神社に変わっただけで、弥栄神社の祭礼日は『善光』の命日の新暦の7月13日であり、祭りの内容は変わってない。神仏習合の信仰形態を一掃し,国家神道としての体裁を整えるために神仏分離政策が明治政府によって推進されるなか、弥栄神社が長野祗園祭りの受け皿となったことを紹介してます。
つづいて、"かわら版"は「戦前はほぼ毎年、屋台が出され、戦後は年番が中心となって屋台をだして来ましたが、昭和37年迄は、大勧進と大本願の物見下で、各町屋台が必ず踊りを奉納していた。翌年38年からは、弥栄神社のご神体を善光寺山門上に安置し(御旅所?管理者)、善光寺と弥栄神社へ、各町が踊りを奉納するようになり、現在に至っています。」
と、長野祗園屋台巡行祭りとも呼ばれる弥栄神社御祭礼屋台巡行を、以上の様に解説してます。
明治政府になって、神仏習合が禁じられ、神仏分離・廃仏毀釈の嵐のなかで廃寺が各地に広まる中、善光寺は大本願、大勧進の有力な宗派に支えられ、寺院としての体制は維持された。