圧倒的な存在感を維持していた善光寺では、明治維新迄の1世紀以上も続いた神仏習合の下での永い伝統になっていた宗教行事をそう簡単に変えることは難しい筈です。長野祗園は、表向きは弥栄神社御祭礼ですが、善光寺の大法会を奉賛する行事であり、善光寺御祭礼であったのかも知れません。管理者は観てませんが、御開帳をしめっくくる宗教行事として、平成15年の御開帳期間終了日の翌日の6月1日に、「前立本尊御還座式」が行われていました。
インターネット「信州からあなたへ」の特集記事のなかに、善光寺御開帳・前立本尊御還座式の記事が載っていて、「大勢の観光客が見守るなか、本堂から大勧進までのおよそ二十分ほどを、御本尊は、白装束の男性たちが担ぐ輿に乗せられ、ゆっくり三門を下り、大勧進に入られた」とありました。つまり、善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の分身として、御開帳の期間中、善光寺本堂で公開されていた「前立本尊」を"輿"に乗せて大勧進の宝庫に戻すのが「御還座式」なのです。
何と、輿に仏さまが乗るのですね。旅所に赴く祭神(例えば弥栄神社御祭礼の祭神は素戔鳴尊)が輿に乗るから神輿(神社御輿)となのだ、と思っていた管理者には以外なことに思えたのです。でも、仏さまの前立本尊が乗るなら、さしずめ仏輿か寺輿か、それとも院輿と呼ぶのかな?。神仏習合は今も健在なのでしょう。いや、明治維新後、政府によって勧められた神道の推進策で、神仏習合は廃止されましたが、戦後は政教分離となり、政府は国も地方も神・仏の宗教行事には口出しをやめました。管理者も含め一般庶民には神様でも仏さまでも、どちれでもいいのです。誰でも困った時には、「神様、仏さま」と心のなかで叫んで、救いを求めているのですから。
初めて観覧した長野の祭礼屋台の巡行を観て、常磐津とか長唄による日本舞踊といった古来の日本文化を、普段は目にする機会の少ない大勢の人達が観ることのできる貴重な機会になっていると思いました。江戸時代に盛んであったと伝えられる祭礼屋台は、今回観た長野の大門町の屋台のような「踊り屋台」ではなかったか、と想像します。江戸期に描かれた絵巻物に、底抜け屋台と組になった踊り屋台の絵が載っております。そうした江戸期の屋台の舞台では長野の屋台と同じ常磐津とか日本舞踊が演じられ、江戸庶民の楽しみになっていたのでは、と想像します。
生活環境の激しい変化がつづく昨今、神社・お寺の伝統行事が少なくなっているようで、残念なことは先人が残してくれた優れた文化財が消滅してしまうことです。長野の場合でも20数台の屋台が倉庫に眠ったままとのこと。四年とか六年も屋台を出さぬと、屋台のことが分かる人が町から居なくなってしまいます。善光寺の威光で、毎年行われている弥栄神社御祭礼での屋台巡行も毎年行われるようになって欲しいと願うものです。