Sory,Japanese only.



善光寺御開帳と5月25日の弥栄神社御祭礼見聞録の後編です

善光寺本堂の参拝と回向柱(えこうばしら)

 お先乗り一行の出発を見届けた後、小走りで善光寺山門へと向った。参道を行き交う人を掻き分ける様にして早足で進み、山門が間近に見える仁王門をくぐり、先を見ると既に山門前は綱の仕切りが張り巡らされ、お先乗りと屋台の到着を待つ人垣が出来ていた。脚立持参でしたから、まぁ、何とか写真撮影はできるだろうからと陣取りは後にして、お先乗りの到着前に参詣を済ませてしまおうと、山門を迂回して、善光寺本堂前庭に入った。時刻はまだ午前十時半頃でしたが、既に大勢の参拝客で埋められた本堂前は焼香の煙が立ち込め、本堂前庭には一辺幅が50センチ(1.5尺)ほどで、高さが10メートルはあろうと思われる角柱の回向柱がデンと据えられ、大勢の参拝者が取り巻いておりました。

画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。

 本堂内の参拝は、内陣参拝と外陣参拝とに分かれます。本堂では御開帳時のみ姿を現わす"前立て本尊"をひと目、拝みたいと詰め掛けた大勢の参拝者で立錐の余地がありませんでした。本堂内の外陣参拝通路を誘導されて歩くうち、本堂奥に安置されている三体の仏像からなる"前立て本尊"のお姿を、遠くでしたが参拝者の肩越しに、一瞬、垣間見ることができました。中央の阿弥陀如来さまの右手に結ばれた綱糸が、本堂前に立てられた回向柱に結ばれておりますと、誘導の係員が説明してました。

 管理者が当日に撮影した画像をご覧下さい。前立本尊と書かれた回向柱の真中から少し上あたりから本堂の軒先へ白い綱糸張られております。回向柱に触れることは、柱に結ばれている糸を通じて本堂内の前立て本尊に触れるのと同じ事で、柱に触れるだけで阿弥陀如来とありがたい縁結びができ、その功徳は計り知れない、ということを信じる多くの人達のひとりとして、管理者もカメラ類を両肩、首にぶら下げて、腕を一杯に伸ばして、柱に手のひらを触れてまいりました。両手の手のひらと額の三点を柱にぴったりくっ付けて、真剣に何事か願いごとをつぶやいる凄い参拝者もおりました。

山門前での屋台の舞台の上で、所作"曳き踊り"を奉納する

善光寺山門前にお先乗り隊列が到着する前に参詣を済ませてしまおうと、急いで本堂の参拝と回向柱のタッチを済ませ、人垣に囲まれた山門脇に陣取った。脚立があるので、何とか視界を確保できたが、立ち木や石灯籠などで隠れるのも仕方のないことでした。

善光寺山門の「屋台奉納答礼所」。善光寺住職である大勧進貫主と大本願上人の高僧をはじめ、威儀を正した各院の僧侶が答礼所に居並び、屋台奉納を受けておりました。

画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。
250kbps 320×240 pixel 30fps
56kbps 160×120 pixel 15fps

御先乗り一行。屋台巡行の先導をして、山門前に到着。門前で歩みを止めることもなく、静々と行進を続け、弥栄神社へ向いました。

250kbps 320×240 pixel 30fps
56kbps 160×120 pixel 15fps

権堂町屋台奉納。山門階段を駆け上がる雌獅子と雄獅子の二頭の「勢い獅子」の舞奉納。大きな口を開けて階段を登り、降りする雄獅子が迫力満点。山門の奉納答礼所に並ぶ僧侶や関係者の人数の多いことからも、善光寺のスケールの大きさを感じる。画像正面の伽藍は大勧進。

画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。

250kbps 320×240 pixel 30fps
56kbps 160×120 pixel 15fps

上千歳町屋台奉納。山門階段間際まで屋台を寄せて、踊り所作を奉納。尚、御祭礼の栞に記載されてます各町屋台の奉納演目名は次ぎの表のとおりです。収録出来た舞の一部も載せてあります。

画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。
 
弥栄神社御祭礼屋台曳き踊り所作の一部分ですが、ご覧下さい

各町屋台奉納の様子の一部を善光寺山門前を中心に管理者がビデオ撮りしました。その中の一部分をご紹介すべく準備しましたので、Windows OS に標準装備されているMicrosoft Media Player で再生してご覧下さい。ご使用の通信環境に合わせて、下表のブロードバンド、ナローバンドの各欄の中から各町の演目名をクリックして、ご視聴下さい。ナローバンドの動画はコマ飛びしますが、音声は正常に聴けます。尚、お詫びですが、権堂町と南千歳町は撮影の機会を逸して、紹介できません。

         

各町屋台奉納舞踊名

ブロードバンド

ナローバンド

通信速度/秒 動画pixel コマ数/秒250kbps 320×240 30fps 56kbps 160×120 15fps
@権堂町
大和樂 おせん 藤間伊千康社中 立ち方・吉原 仁美 後見・藤間 伊千康
データーなし(+_+)
データーなし(+_+)
A 南千歳町
長唄 比翼の蝶 立ち方・藤扇 裕士 後見・藤扇香之子
データーなし(+_+)
データーなし(+_+)
B 上千歳町
常磐津 屋敷娘 五條多啓諸社中 立ち方・五條多啓冨美 後見・五條千嘉諸
常磐津 屋敷娘
267KB
常磐津 屋敷娘
2001KB
C 北石堂町
長唄 娘道成寺 立ち方・藤間千玉  後見・藤間千代枝 藤間枝汀
長唄 娘道成寺
355KB
長唄 娘道成寺
2660KB
D 大門町
長唄 俄獅子 五條多啓諸社中 立ち方・五條多啓直諸 後見・五條多啓諸 
長唄 俄獅子
219KB
長唄 俄獅子
1648KB
E 西後町
大和樂 祗園の夜桜 立ち方・花柳菊風 後見・花柳辰志郎
大和樂 祗園の夜桜
141KB
大和樂 祗園の夜桜
1066KB
F 南石堂町
長唄 藤娘 立ち方・八田綾香 後見・花柳利芳
長唄 藤娘
360KB
長唄 藤娘
2684KB
G 元善町
長唄 手習子 花柳萬利助社中 立ち方・花柳瑠利紗 後見・花柳萬桜
長唄 手習子
394KB
長唄 手習子
2942KB

   

 

 
善光寺御開帳奉賛・弥栄神社御祭礼屋台巡行を観ての感想

 屋台や山車などの祭礼曳きものに詳しい愛好会の先輩から、長野の屋台が御開帳に合わせて暫くぶりに曳き出されるよ、と聞いていたのが今回の5月25日の訪問の動機でした。当日、長野市に入るまでは殆ど気にしてなかったことなのですが、祭礼屋台が曳きだされるのは善光寺のお祭りで、御開帳の年でもあり、盛大にやるのだろう、と素直?に思ってました。三熊野神社のお祭りの三熊野神社大祭とか、小鹿神社の例大祭とかの雰囲気で、気に留めることなどなかったことです。この日、長野について、ふと頭に浮かんだ"善光寺例大祭"、えっ何、善光寺例大祭?。待てよ、善光寺はお寺だぜ。おかしいな?と、思いながら、中央通りで権堂町の屋台を観て、そっちに夢中になって、その疑問は忘れてしまってました。

この疑問は比較的早く、解消しました。中央通りの屋台集合場所へ集まって来る屋台に同行して、進んで来た御先乗りの先頭の大きな幟に書かれた"弥栄神社御祭礼"の文字を見て、幟を持つ白装束のひとに、"やさかじんじゃ"と確認できたからです。なるほど、やっぱり神社のお祭りなんだ。「やさか」と聞けば、八坂、八坂神社、牛頭天王の祗園まつり、と、即座に疑問は解消しました。

画像をクリックしますと、拡大します。

八坂でなく、弥栄と書くことにも、何か意味があるのかな、とも思ったりして、とにかく弥栄神社と善光寺との関係とか、門前町として発展した長野市とって善光寺の存在感ったら絶対的なものであることは、今も昔も変わらない筈だし、などといろいろ興味が湧いて、帰宅後、長野市役所から資料を取り寄せたりして、これまで知らなかった善光寺にまつわるもろもろのことを知る機会にもなりました。どこでも伝統の神社祭礼ともなると露天商が参道や境内を埋めるのが普通ですが、この日終日、露天は1軒も見掛けませんでした。

勿論、出店が禁止されているからでしょう。大勢の参拝者があっても、そのなかに子供の姿が少ないことも、善光寺が大人が仏に帰依する神聖な霊場であるとの認識が高いからでしょう。この見聞録の冒頭で、地元紙などに取り上げられている弥栄神社御祭礼と善光寺との関係の記事を紹介いたしましたのも、管理者が"善光寺例大祭?"と思い違いしたこともあって、大変興味を感じたからです。管理者にも何も知らなかった善光寺のことを調べる端緒にもなりました。

山門での屋台奉納が終わった後、弥栄神社へ行こうと山門前の参道から大勧進の角を右折したら、北石堂町の屋台が駐基してたので、撮影をしながら、法被姿の町の人に弥栄神社の場所を教えて貰いました。そこから直ぐ近くでした。

弥栄神社は、知らないと神社の前を通り過ごしてしまうほど、小さな神社でした。石垣に囲まれてはいますが、社(やしろ)は車輪を外した古びた祭り屋台をそのまま置いたような感じでした。板の高札の神社名は墨が雨水で散ってしまって読めない。社の軒下の神社の紋が入った幕に社名を墨で書いた紙が張ってあるだけでした。

画像をクリックしますと、拡大します。

圧倒的な存在感を維持していた善光寺では、明治維新迄の1世紀以上も続いた神仏習合の下での永い伝統になっていた宗教行事をそう簡単に変えることは難しい筈です。長野祗園は、表向きは弥栄神社御祭礼ですが、善光寺の大法会を奉賛する行事であり、善光寺御祭礼であったのかも知れません。管理者は観てませんが、御開帳をしめっくくる宗教行事として、平成15年の御開帳期間終了日の翌日の6月1日に、「前立本尊御還座式」が行われていました。

インターネット「信州からあなたへ」の特集記事のなかに、善光寺御開帳・前立本尊御還座式の記事が載っていて、「大勢の観光客が見守るなか、本堂から大勧進までのおよそ二十分ほどを、御本尊は、白装束の男性たちが担ぐ輿に乗せられ、ゆっくり三門を下り、大勧進に入られた」とありました。つまり、善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の分身として、御開帳の期間中、善光寺本堂で公開されていた「前立本尊」を"輿"に乗せて大勧進の宝庫に戻すのが「御還座式」なのです。

何と、輿に仏さまが乗るのですね。旅所に赴く祭神(例えば弥栄神社御祭礼の祭神は素戔鳴尊)が輿に乗るから神輿(神社御輿)となのだ、と思っていた管理者には以外なことに思えたのです。でも、仏さまの前立本尊が乗るなら、さしずめ仏輿か寺輿か、それとも院輿と呼ぶのかな?。神仏習合は今も健在なのでしょう。いや、明治維新後、政府によって勧められた神道の推進策で、神仏習合は廃止されましたが、戦後は政教分離となり、政府は国も地方も神・仏の宗教行事には口出しをやめました。管理者も含め一般庶民には神様でも仏さまでも、どちれでもいいのです。誰でも困った時には、「神様、仏さま」と心のなかで叫んで、救いを求めているのですから。

初めて観覧した長野の祭礼屋台の巡行を観て、常磐津とか長唄による日本舞踊といった古来の日本文化を、普段は目にする機会の少ない大勢の人達が観ることのできる貴重な機会になっていると思いました。江戸時代に盛んであったと伝えられる祭礼屋台は、今回観た長野の大門町の屋台のような「踊り屋台」ではなかったか、と想像します。江戸期に描かれた絵巻物に、底抜け屋台と組になった踊り屋台の絵が載っております。そうした江戸期の屋台の舞台では長野の屋台と同じ常磐津とか日本舞踊が演じられ、江戸庶民の楽しみになっていたのでは、と想像します。

生活環境の激しい変化がつづく昨今、神社・お寺の伝統行事が少なくなっているようで、残念なことは先人が残してくれた優れた文化財が消滅してしまうことです。長野の場合でも20数台の屋台が倉庫に眠ったままとのこと。四年とか六年も屋台を出さぬと、屋台のことが分かる人が町から居なくなってしまいます。善光寺の威光で、毎年行われている弥栄神社御祭礼での屋台巡行も毎年行われるようになって欲しいと願うものです。

 
お疲れさまです。弥栄神社御祭礼の屋台の紹介をご覧下さい。
 

弥栄神社御祭礼の屋台の紹介"へ

前のページへ戻る
このページの頭へ戻る
"山車の見聞録"へ戻る