作者が二本松駅を下車したのが既に11時を過ぎでましたので、早く太鼓台を見たいと気がせいていて、二本松神社の前を通りながらも参詣せずに、竹田坂へ急ぎました。亀谷ロータリーでの解散式の最後の手締めが終わると、直ぐにロータリーを出て二本松神社へ向いました。午後3時過ぎでした。二本松神社と大書した幟が背の高い木立に映える神社に到着して直ぐに気が付いたのが、入り口の鳥居の前に2台の神輿が置かれておりました。
丁度、神輿の脇に白装束の神主さんが居られたので、神輿のことを尋ねましたところ、正午過ぎに作者が居合わせた竹田坂交差点をトラックに乗って、市中の神輿渡御をしていたのがこの2基の神輿であることが分かりました。向かって左が八幡宮、右が熊野宮の神輿です。神主さんのお話を整理しますと、本祭りの5日に旧市域全体を渡御します。昔は実際に神輿を担いで渡御していたが、現在はトラックに乗せられて、午前10時頃、太鼓台が神社前に整列している最中に(宮向け中)、神輿渡御が出発して行く。渡御の神輿は本来なら仮宮に安置されるの訳ですが、最近は神社の鳥居の前に安置される様になったそうです。鳥居の前庭が御旅所(仮宮)ということになるわけです。
ふたつの神輿の還御は7町合同曳き廻しが終わった後、ひとつは亀谷町が、もうひとつは本町と松岡町が一年交代で担当しておるそうです。今年は本町と亀谷町が神輿還御の担当になります。午後5時頃、神社をでた神輿は駅周辺の予定したコースを廻って神社に戻ります。神輿の宮入です。鳥居をくぐり、石段を登って本殿前庭で激しくもみ合って、最後は社殿に突入して、神輿は何度ももまれて、終了となります。 以上神主さんのご説明を要約して記述しました。作者は参詣した後、太鼓台の夜の町内巡りを見聞すべく、松岡町と若松町方面に向かって出掛けました。
境内に建っている掲示板によると、「二本松神社の祭神は、向かって左が八幡宮、右が熊野宮で、江戸時代には御両社とも称された。室町時代に、城主・畠山氏により白旗ヶ峰に合祀されて以来、引き続く各領主らの崇敬を受け、特に初代二本松藩主として、寛永20年(1643)白河から移封した丹羽光重公の厚い崇敬を受け、二本松領の総鎮守社となり、光重公の敬神愛民の精神から、丹羽家の守護神を下座(左)に、領民の守護神を上座(右)に祀った」とあります。
鳥居をくぐると、石段が鬱蒼と茂る木立の間を上に続きます。石段途中の踊り場で休憩をとって、石段を登りきると広い前庭となり、その奥に、二本松神社の正門と本殿が聳えておりました。鳥居の前庭と境内に据えられている奉納提灯の(直違い)は、見慣れぬ人には○×(まる、ばつ) の×が連想されて、何か妙に感じますね。でも、これは元秀吉の家臣の丹羽長秀の家紋なのです。本殿の破風屋根の鬼板にも、この家紋が彫られております。
長秀の孫で初代二本松藩主となった丹羽光重が築いた霞ヶ城の城址がある郭内町の太鼓台の旗のひとつは、この "×" です。