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二本松市の"ちょうちん祭り"の太鼓台 を尋ねて!の後編です

太鼓台の竹田坂登り

 いよいよ本祭りの午後の太鼓台7町合同曳き廻しの出発です。各太鼓台は、勢揃いの位置で左に方向転換して、午前中来た道を少し戻ると竹田見付の交差点になります。竹田見付交差点で、左折の方向転換をしますと、登り坂の竹田坂が真っ直ぐに延びています。交差点での左右の方向転換は、理屈では直角の90度だけ台を廻せばよいわけですが、そこで余分に一回転 360度の回転させて、90度プラス360度、即ち台を "1/4プラス1"回転させて左折して行くという、元気なパフォーマンス振りを披露する太鼓台もありました。
 さぁ、ここから合同曳き廻し終点の亀谷ローターリー迄の間、竹田坂登り、亀谷坂降り、亀谷交差点での右折の方向転換など、本祭り日の7町合同曳き廻しでのクライマックスの場が次々と繰り広げられて行きます。

 画像の左は、太鼓台7町合同曳き廻し1番手の本町の出発の方向転換の様子です。画像をクリックしてますと、方向転換の様子が"ストリーミング動画"で、ご覧になれます。画像の右は、2番手の亀谷町です。同じく、方向転換の様子が"ストリーミング動画"で、ご覧になれます。

 いよいよ本祭りの午後の太鼓台7町合同曳き廻しの出発です。各太鼓台は、勢揃いの位置で左に方向転換して、午前中来た道を少し戻ると竹田見付の交差点になります。竹田見付交差点で、左折の方向転換をしますと登り坂の竹田坂が、目の前から真っ直ぐに延びています。

 7台の太鼓台が竹田坂に入ると坂下から一気に中腹まで駆け上がり、先頭の本町が坂の頂上手前に到達したところで、全太鼓台が暫く休憩に入りました。画像は、この時の様子を坂頂上付近の横断歩道橋の上から撮影した。手前から本町、亀谷、竹田、松岡、根崎、若宮、郭内の7台の太鼓台が一直線に並んでいるのが見えます。

 暫く休憩の後、7台合同曳き廻しを再開しました。坂の頂上付近が一番勾配がきついので、曳き手衆の引っ張りと、台の両脇と後ろから押し上げる舵取り衆の力が頼りです。お囃子もテンポの速い「しゃぎり」を連打して、屋根上の二人の屋根係は両腕を左右上下に振りながら、大声を揚げて煽ります。

 坂の頂上付近は道の両側はコンクリートの壁で、周辺はこんもりとした森になっていて、遊歩道があり、橋桁の高い歩道橋で竹田坂と交差してます。歩道橋から竹田、根崎方面の市街が一望できます。
 下り坂の亀谷坂では進行方向とは逆に、太鼓台の後ろ側に曳き綱をつけて、曲名を聞き漏らしたのでわかりませんが、静かなゆっくりテンポのお囃子で、太鼓台はゆっくりと坂を下ります。

この静かなゆっくりテンポの曲名は、「豊(とよ)囃子」です、と二本松市松岡にお住まいの相原達郎氏から、ご連絡を頂きました。どうもありがとうございました。

 画像左は、懸命に太鼓台を押す松岡町の舵取り衆です。画像をクリックして、「しゃぎり」をお聴き下さい。
画像右は、手前は坂を登り切ってほっとした瞬間の根崎。先を行く太鼓台は亀谷坂を下り始めた松岡の太鼓台です。画像をクリックして、静かで穏やかなお囃子をお聴き下さい。Realplayer ストリーミング。

 
亀谷交差点での"辻廻し"太鼓台の回転技

 祭礼の山車・屋台の曲がり角での回転を一般に辻廻しと呼んでます。どこの祭りでも山車や鉾、屋台の辻廻しが祭り見物の一番の見所のひとつです。太鼓台は、亀谷坂下の本町通り(旧4号国道)に差し掛かると、お囃子それまでのゆっくりテンポから俄然、あっぷテンポの"しゃぎり"に切り替わります。

 中には上半身裸も混じる血気盛んな若連達は、辻廻し場所へゆっくり進む台の前後側面の持ち場で膝を曲げ、腰を落として、運行係の拍子木の合図を待ちます。合図が響くやいなや、ダッダァーンと若連達の瞬発の動作が破裂します。前と後ろで台座を斜めに押し出す者、車輪の矢を掴んで持ち上げる者、曳き綱をひっぱる者の激しい動きで、ガッガガァーンと車輪の蹄鉄が擦れる音とともに、太鼓台は向きを変えます。

 作者が亀谷坂下交差点に到着した時、既に一番先頭の本町の辻廻しは終えてましたので、ここで紹介ができません。以下は合同曳き廻し二番手亀谷町以下6町の太鼓台の亀谷坂下交差点での辻廻しの画像です。画像をクリックしますと、力の入った迫力ある辻廻しの一部分が動画(リアルシステム・ストリーミング)でご覧になれます。

左:亀谷町は左廻り270度(3/4回転)の辻廻し。カメラの撮影方向に先導の若連幹部達が入ってしまったので、見づらい画面になった。幹部の衣装の派手さは見事です。二本松は各町とも衣装にこだわってます。右:竹田町です。
左:松岡町です。若連の着る衣装は、力の要る激しい動きに適したデザインで、岸和田の地車・だんじりを連想させます。地車と同様に、二本松の太鼓台の辻廻しは、力強く魅力と感動があります。右:根崎町です。
左:若宮町。車輪付きのローラースケート状の下駄に回転内側の前輪を乗せ、木の車止めをした反対側後輪を支点にして、回転させる若宮だけの方法。右:郭内町です。道路に前6台の辻廻しの轍がはっきり残ってます。
 
太鼓台7町合同曳き廻し解散式 亀谷ロータリー

 亀谷坂下での辻廻しの後、太鼓台はロータリー迄の本町通り上でダッシュ運行のパロディを見せてくれました。テンポの速いしゃぎり囃子に乗って、20メーターほどの距離を一気に太鼓台を走らせ、止まり、一気に走って戻る を 2、3回繰り替えすのです。岸和田の地車が辻の前で、停車してから一気に走って勢いをつけて、辻廻しに入るのですが、それに似て面白かったです。


 7台の太鼓台はロータリーの三角形の池を囲む様に整列しました。大勢の観客に囲まれた池の北側には根崎、竹田、郭内の3町が位置しました。この3町は解散式の後、切り通しを抜けて自町に帰るので、一番遠い根崎が先頭です。池の南側は先頭が本町、つづいて松岡、若宮です。最後迄残るロータリー地元の亀谷町は池の西側で、歩道橋の前に位置します。この歩道橋の上が解散式のステージになります。

 前日の宵祭りと本祭りの2日間の7町合同曳き廻しをなごり惜しむかの様に、各町のお囃子の笛太鼓が一層大きく打ち鳴らされます。屋根の上で旗が振られ、若連衆が輪になって気勢を揚げるなどして、来年の合同曳き廻しで、また元気で逢おうと、再会を誓い合うかの様でした。お囃子の停止が告げられ、祭典実行委員長、若連連合会長の挨拶で合同曳き廻しの無事終了が告げられ、ロータリーを埋めた大勢の人達の力強い手締めでもって、20世紀最後の二本松"ちょうちん祭り"の本祭りの太鼓台7台の合同曳き廻しは、無事終了しました。

 
本祭りのもうひとつの主役の御神輿の渡御、還御

 作者が二本松駅を下車したのが既に11時を過ぎでましたので、早く太鼓台を見たいと気がせいていて、二本松神社の前を通りながらも参詣せずに、竹田坂へ急ぎました。亀谷ロータリーでの解散式の最後の手締めが終わると、直ぐにロータリーを出て二本松神社へ向いました。午後3時過ぎでした。二本松神社と大書した幟が背の高い木立に映える神社に到着して直ぐに気が付いたのが、入り口の鳥居の前に2台の神輿が置かれておりました。

 丁度、神輿の脇に白装束の神主さんが居られたので、神輿のことを尋ねましたところ、正午過ぎに作者が居合わせた竹田坂交差点をトラックに乗って、市中の神輿渡御をしていたのがこの2基の神輿であることが分かりました。向かって左が八幡宮、右が熊野宮の神輿です。神主さんのお話を整理しますと、本祭りの5日に旧市域全体を渡御します。昔は実際に神輿を担いで渡御していたが、現在はトラックに乗せられて、午前10時頃、太鼓台が神社前に整列している最中に(宮向け中)、神輿渡御が出発して行く。渡御の神輿は本来なら仮宮に安置されるの訳ですが、最近は神社の鳥居の前に安置される様になったそうです。鳥居の前庭が御旅所(仮宮)ということになるわけです。

 ふたつの神輿の還御は7町合同曳き廻しが終わった後、ひとつは亀谷町が、もうひとつは本町と松岡町が一年交代で担当しておるそうです。今年は本町と亀谷町が神輿還御の担当になります。午後5時頃、神社をでた神輿は駅周辺の予定したコースを廻って神社に戻ります。神輿の宮入です。鳥居をくぐり、石段を登って本殿前庭で激しくもみ合って、最後は社殿に突入して、神輿は何度ももまれて、終了となります。 以上神主さんのご説明を要約して記述しました。作者は参詣した後、太鼓台の夜の町内巡りを見聞すべく、松岡町と若松町方面に向かって出掛けました。

 境内に建っている掲示板によると、「二本松神社の祭神は、向かって左が八幡宮、右が熊野宮で、江戸時代には御両社とも称された。室町時代に、城主・畠山氏により白旗ヶ峰に合祀されて以来、引き続く各領主らの崇敬を受け、特に初代二本松藩主として、寛永20年(1643)白河から移封した丹羽光重公の厚い崇敬を受け、二本松領の総鎮守社となり、光重公の敬神愛民の精神から、丹羽家の守護神を下座(左)に、領民の守護神を上座(右)に祀った」とあります。

 鳥居をくぐると、石段が鬱蒼と茂る木立の間を上に続きます。石段途中の踊り場で休憩をとって、石段を登りきると広い前庭となり、その奥に、二本松神社の正門と本殿が聳えておりました。鳥居の前庭と境内に据えられている奉納提灯の(直違い)は、見慣れぬ人には○×(まる、ばつ) の×が連想されて、何か妙に感じますね。でも、これは元秀吉の家臣の丹羽長秀の家紋なのです。本殿の破風屋根の鬼板にも、この家紋が彫られております。

 長秀の孫で初代二本松藩主となった丹羽光重が築いた霞ヶ城の城址がある郭内町の太鼓台の旗のひとつは、この "×" です。

 
太鼓台の夜のみごとな変身 "ちょうちん曳き山"
  

 前日夜の宵祭りでの7町合同曳き廻しでは、太鼓台に提灯枠を装置してもローソクには灯を入れずに、出発式のあるロータリーへ集合します。そして神社から若連中の手で運ばれてきた松明で、各太鼓台の点火用ローソクに御神火が点灯され、その火でもって提灯枠に吊された300余個の提灯に一斉に点火されるという、一見 オリンピックの聖火台点灯式のセレモニーを思わせるものだったそうです。
 本祭りの夜の太鼓台は、各町毎に単独の町内曳き廻しですので、パンフレットに載っていた駅にも近い若宮町と松岡町のある若宮・松岡通り商店街へ行ってみました。既に夕闇が迫った通りには多くの露店が軒を並べ、浴衣姿の観客がそぞろ歩く、まさに祭りの雰囲気がいっぱいの商店街の道の真ん中に駐車中の太鼓台を見付けました。

 太鼓台の庇から上の屋根を囲むように大きな枠を取り付けている最中でした。組み付けられた枠に提灯が吊されると、数名の若連の手で提灯のローソクに火が点けられました。屋根上から横に倒されていた平らな大きな三角形の枠にも提灯が付けられております。三角枠の先端から延びる竿の先端は8本に枝別れしていて、個々の枝に提灯が吊されます。三角枠すべてのローソクが点灯されますと、屋根上の数人の若衆が倒されていた三角形の枠を、屋根に垂直に立て掛けました。

 地元の皆さんが"杉なり"と呼んでおられるのは、先端の8個の提灯を含めての三角形の枠全体を呼んでおるのか、それとも先端の枝に吊された8個の提灯だけを"杉なり"と呼んでいるのか、はっきりしません。我々の祖先が祭礼曳きものの先端に取り付けた飾り物を"だし"と呼んだのが、「山車」の名前のルーツと説明されてます。先端に杉なりをつけた太鼓台を拝見してて、二本松の太鼓台は夜、提灯を身に付けて、"山車"に変身するのだ、と作者は思い始めました。こんなことを云うと、二本松の皆さんに叱られてしまうかも知れません。でも、作者にはそう思えて仕方ありません。ここだけの作者の勝手な独り言ですので、ご容赦下さい。

 夜の姿に見事に変身したこの太鼓台は松岡町と分かりました。点灯された提灯のデザイン文字が「木」の下に「公」で、松でした。 提灯の点灯が済み、祭り衣装の子供達がお囃子を始めますと、ぞくぞくと若連が集まって来ました。さぁ、夜の曳き廻しのスタートです。でも、夜は昼間と少し勝っ手が違います。太鼓台は提灯枠と提灯で昼間の時より重量が増えております。町内巡りですので商店街と交差する細い道に入らねばなりません。細い脇道ですから、商店の突き出し看板を避けるために、太鼓台の進路を変える方向転換が頻繁にあり、それに加えて、脇道は電線が横断してますので、繰り返し"杉なり"を倒したり立て直したりで、昼間以上に若連の皆さんは汗をかいておりました。指揮を執る運行係が小刻みに打つ拍子木のカチカチ音と叫び声が止むことがありませんでした。観ていても、ひやひやする、太鼓台の見せ場の連続でした。

 隣り町の若宮町の太鼓台が商店街通りに現れました。 商店街に並んだ松岡、若松の2基の"ちょうちん曳き山"は、見事な眺めでした。
 "曳き山"とは、作者独自の解釈でして、提灯を付けた太鼓台のことを"ちょうちん曳き山"とこのページで定義します。ちょうちんを付けた太鼓台は、屋台でもなく、と云っても山車でもないし、ならば"曳き山"の呼称が妥当ではないかと考えた次第です。

 二本松の太鼓台は、昼間は金箔漆塗りの均整の取れた豪華で優美な姿と勇壮な辻廻しで観客の心を奪い、そして夜は全身にまとった提灯のゆれる灯で観客を幽玄の世界へと導いてくれるのです。昼と夜とで大きく変身する太鼓台は、二本松のちょうちん祭りの演出ならびに出演をして、能楽の役者にも匹敵する伝統芸能を披露する"曳き山"なのだ、と云えるのではないでしょうか。

 太鼓台のお囃子に合わせて、若い女性群の声援が沸き上がって来ました。見ると中高生と思えるの30人位のギャルが太鼓台の後ろに陣取って、ワッショイ! わっしょい! そ〜らヤレヤレ!の大合唱を始めたのです。某テレビ局のドラマの祭りシーンを思い起こさせるような凄い声援でした。永い伝統の祭り手法を堅持する二本松では、今でも女性は祭りに参加できません。女性群から大きな声援を投げられ、男の若連の皆さんもさすがに戸惑った様子でした。
 オリンピックはじめ、各分野での日本女性の活躍が目立つ昨今、太鼓台に向けられたこの若い女性群の声援は、時代が大きく変化していることを訴えているように感じたのは、作者ひとりだけではなかったと思います。

画像をクリックして、女性群の声援の一部をリアルシステム・ストリーミング音声でお聴き下さい。
 
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