小屋には、人が出入りできる入り口があり、中は4、5人が座れるくらいの広さで、古びた太鼓がふたつ置かれていて、大きな達磨がひとつ留守番役で、まだ誰も居ませんでした。夕方には子供達が集まって来て、夜遅くまで太鼓を叩くのでしょう。車に戻る時、畑に居た人に尋ねたところ、この松小屋は毎年正月七日に建てられ、小正月の13日の早朝、この小屋に火を放して、餅や繭玉を焼いて食べ、無病息災を祈願するどんど焼きを致しますと、話しておりました。今回、郊外で見かけた道祖神の松小屋で、私の子供時代が思い起こされました。わずかですが、その思い出話を記述します。
私の小学校入学は、昭和戦争敗戦の翌年でした。つぎはぎだらけの服と、履物は足袋と下駄で、夏は素足。食べものが少なく、空腹でした。テレビもなく、こどもはいつも外で、大勢の隣近所の餓鬼どもと日暮れまで「ベーゴマ」や竹馬で遊んだりした記憶は今でも懐かしいです。私の小学生の頃、正月の三が日が過ぎ、七草になると、近所の餓鬼大将に従って、各家庭の門松を集めて、成田山の境内に松小屋を作って、町の世話役や鳶(かしら)に頼んで、太鼓を蔵から出して貰い、中で太鼓を叩きながら餅などを焼いて食べたりしました。夕方になり、小学高学年生や中学生が参加すると、囃子の音色や調子は一段と整ってくる。夜になると、大人達も参加し、夜半まで、街中に囃子が響きわたるのです。こうして、道祖神どんど焼きの前日迄を松小屋で過ごすのです。
1月13日の昼間、松小屋を解体して、使った木材と松や達磨を、どんど焼きの場所迄運んで行く。その道行きに引き出されるのが道祖神飾り屋台(花車)でした。それは、運送屋から荷車を借りてきて、その上に鉾の形に櫓(やぐら)を組み、太鼓を乗せ、周囲に幕を張り、青年達の手作りによる造花で飾って仕上げた曳山でした。木綿手拭の鉢巻姿のおじさんや子供達が、長い行列を作り、掛け声を張り上げて、町内を威勢良く飾り屋台(花車)を引き回したのでした。翌14日早朝、町内の大人と子供達は餅や繭玉、するめなどを結わいつけた桑の枝を持って、どんど焼きの場所へ駆けつけます。
この道祖神祭りのフィナーレが「どんど焼き」です。前日持ち込まれて山になっている解体した小屋の木材や正月飾りに火が放され、どんど焼きが開始されます。立ち昇る焚き火に、町の人達は松飾りやダルマ,神棚飾りなどの縁起物を投げ入れ、米の粉で作った蚕(かいこ)の繭(まゆ)の形に似た繭玉ダンゴを桑などの木の枝の先に刺したものを、同じ枝に吊した餅やスルメイカと一緒に焚き火にかざして焼き上げ、食することで、これから先の一年間の無病息災、家内安全の祈願が叶うと、信じられております。
各地の道祖神などの石仏を数多く探索しておられる研究者は、その著書のなかで、<・・石仏は、仏教の経典にのっとって礼拝する対象として作られた仏像とは別の、神仏の何たるかも知らぬ愚昧な庶民の素朴な宗教的心情 (嬉しい時、困った時の"神様、仏さま"と叫ぶ心境)を対象とした民間信仰で、僧侶も神官も介在しないことで、庶民が神仏と直結していることを意識出来る媒体である、と云えるのではないだろうか・・>。( )カッコ内は私の解釈です。更に研究者はつけ加えて、<・・極論すれば、神や仏の姿を借りた庶民像、それが石仏であって、声を掛け、手を触れ、苛立たしいなら叩くことも出来るのが道祖神・石仏なのである・・>と述べております。