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21世紀の初年、西暦2001年のスタートを飾る冬の風物詩!
"道祖神まつり"とは?


 この道祖神まつりは、古くは群馬県内の各地で行われていた正月行事でしたが、最近は限られた町村でしかやってません。今では高崎周辺で、ほぼ伝統に添った形でこの祭りを行っておるのは、この石原町だけになってしまいました。先輩の話や市史の資料などから、昔の道祖神まつりの様子を辿って見ました。

 江戸から明治、大正末期頃まで、道の辻々には、石造りの道祖神が祀られていた。その年の無病息災、外出先での安全を願う信仰形態が道祖神祭りである。正月の三が日が過ぎると、町内の子供達は家々の松飾りを集めて、空き地や寺の境内に松小屋(道祖神小屋)をつくる。そして、松小屋ができると再び町内を回り、ろうそく代(松葉銭などとも呼ばれた僅かな寄付金)を集めてくる。松小屋の中では、火鉢に火を起こして餅などを焼き、冬休みの一日を過ごすのです。

道祖神の碑は高さ50センチ程の自然石に、道祖神の文字又は仏像が彫られているのが一般的です。合掌の像、酒器や幣を手にした像など、なかでも、肩を組み手を握り合う微笑ましい男女の像が彫られ石碑が多いことから、庶民的な民間信仰であったと想像できます。画像の道祖神の碑と石仏は、石原町ではなく、左は、市北域の我峰町で、右は、市東域の京目町で作者が撮影しました。石原町の道祖神の画像は、後段で掲載します。

 各地の石仏を数多く探索しておられるある研究者は、その著書のなかで、<・・石仏は、仏教の経典にのっとって礼拝する対象として作られた仏像とは別の、神仏の何たるかも知らぬ愚昧な庶民の素朴な宗教的心情(嬉しい時、困った時の神様、仏さまと叫ぶ心境)を対象とした民間信仰で、僧侶も神官も介在しないことで、庶民が神仏と直結していることを意識出来る媒体である、と云えるのではないだろうか・・>。( )カッコ内は作者の解釈。更に研究者はつけ加えて、<・・極論すれば、神や仏の姿を借りた庶民像、それが石仏であって、声を掛け、手を触れ、苛立たしいなら叩くことも出来るのが石仏なのである・・>と述べております。
大塚省悟著 上州の道祖神「又々、やぶにらみ道祖神考」 高崎図書館蔵。 

 子供達は、町の世話役や頭(かしら)などに頼んで、太鼓を蔵から出して貰い 、松小屋でお囃子の練習を始める。七草を過ぎると学校が始まるので、小学生の低学年の児童が 帰宅する昼頃から、太鼓が鳴り出す。そして、高学年生が帰ってきて練習に参加すると、囃子の音色や調子は一段と整ってくる。夜になると、大人達も練習に参加し、夜 半まで、街中に囃子が響きわたるのです。こうした練習は道祖神祭りの前日迄続く。

 1月13日には、松小屋を解体して、荷車に積み、町外れにあるドンドン焼きが行われる場所迄運んで行く。その道行きに引き出されるのが道祖神屋台であった。この時は、 鳶の頭を中心に、町内の役員、有志、青年、女子供まで、総出であった。そして、お揃 いの法被と色手拭いの艶姿で長い行列を作り、掛け声を張り上げて、威勢良く飾り屋台(花車)を引き回したのである。こうして、手に手に桑の枝につけた餅や繭玉、するめなどをかざし、賑やかな囃子に合わせて、道行きをしたのであった。

 道祖神祭りで引き回されていた花車を、屋台(厳密に云えば、屋台でなく山車。屋台と山車の区別がなく、祭礼曳きものは何でも屋台を呼んでいた)又は、道祖神屋台と称していた。これは、馬の引く荷車を台車とした形のものであった。運送屋から荷車を借りてきて、その上に屋台の形に櫓(やぐら)を組み、周囲に幕を張り、青年達の手作りによ る人形を飾って完成したものであった。その後、屋台は新造、あるいは改装されて、山車と呼ばれるようになった。

 この道祖神祭りは小正月行事ですので、明治に太陽暦となってからは1月13日から14日にかけて行われていた。14日の早朝に、集めた正月飾りに火が放され、ドンドン焼きが開始される。もうもうと立ち昇るたき火の煙を見て、町の人達は松飾りやダルマ,神棚飾りなどの縁起物を持ち寄って焚き火に投げ入れ、米の粉で作った蚕(かいこ)の繭(まゆ)の形に似た繭玉ダンゴを桑などの木の枝の先に刺したものを、同じ枝に吊した餅やスルメイカと一緒に焚き火にかざして焼き上げ、食することで、これから先の一年間を無病で過ごせると、信じられております。

 以上ご紹介しましたのが、江戸から明治、大正そして昭和の日米開戦前迄は、県内各地で行われ、高崎周辺でも盛んに行われていた道祖神まつりの様子です。作者も小学生の頃(昭和20年代後半)、近所の餓鬼大将に従って、門松を集めて、成田山の境内に松小屋を作って、中で太鼓を叩いたことや、鳶や大人が山車を組立るのを、興奮の思いで眺めていたのを、よく覚えてます。これから、道祖神まつりの締めの行事である14日朝の「どんど焼き」の様子を、皆さんにご紹介します。


高崎・石原町の"どんど焼き"


 石原町東半田の会所の通りの辻に、自然石に道祖神と彫った高さが1メートルほどの石碑があります。道祖神まつりを迎え、石碑を白紙の四手(しで)で飾り、小枝の先に刺した団子と、塩や賽銭の供物で祀ってありました。いつも角辻に黙って立って、庶民のどんな願いも優しく聴き入れてくれることへの感謝の気持ちの現れが、"道祖神まつり"なのでしょう。

 東の空が少し、明るくなりかけてはいますが、まだ真っ暗な14日の朝6時、会所に集合した役員や数人の町の大人達が、準備した道具や燃し木を積んで、どんど焼き場所の公園へ向かいました。

 昔のお正月は、家の玄関ばかれでなく、お勝手や物置の入り口にも松飾りを付けました。家の中の神棚には、松の枝葉の他に、シメ縄と呼ぶ藁(わら)を手で撚(よ)って作った飾りもの、なかには相撲の横綱が腰に付ける綱に似た大きな飾りものなどもあって、どんど焼きで燃すのは、松飾りなどの正月の飾り品だけで充分足りたのです。が、今は印刷された紙の松飾りが殆どで、燃す古材木を用意しなくてはならなくなってます。
 東の空が明るくなり始めた午前6時半過ぎ、どんど焼きに火が点けられました。赤々と炎が立ち上がると、未だ暗い夜明けの空へ朦々(もうもう)とした煙が拡がり、ゆっくりと東へ流れていって、そらぁ、道祖神が始まったよ! と、町の人達へ告げているかのようです。

 仕事で前日迄の山車曳きに参加できなかったが、日曜日のどんど焼きは出たくて来たんだ、と云ってた町内の人もおりました。
 町内の役員がコンロに載せた鍋で作った味噌おでんや、甘酒を振る舞っておりました。どんど焼きで焼いたスルメをかじりながらの茶碗酒が、ことのほか旨かったです。
 昨日までの山車曳きの疲れもあった翌朝に、町内の親睦を深めようと、こうやって手間の掛かることを敢えてやっておられる石原町東半田の皆さんに、深い敬意を感じました。


 ページ冒頭の「道祖神まつりとは?」のなかで、・・・松飾りやダルマ,神棚飾りなどの縁起物を持ち寄って焚き火に投げ入れ、米の粉で作った蚕(かいこ)の繭(まゆ)の形に似た繭玉ダンゴを桑などの木の枝の先に刺したものを、同じ枝に吊した餅やスルメイカと一緒に焚き火にかざして焼き上げ、食することで、これから先の一年間を無病で過ごせると、信じられております・・・と、ありました。この繭玉(まゆだま)ダンゴは、実は、地元ではマイダマと、発音してますが、昔から群馬では小正月の作り物のなかで、代表的なものです。以前、先輩の古老に訊いたのですが、小正月とは、一月十五日を中心とする前後数日間をさすことばで、正月三カ日(ところによっては、七草迄)の大正月と対比したことばで、昔から群馬では、小正月を迎える為に農家では、いろいろのものを作り、小正月のつくりものと呼んでいたそうですが、今ではマイダマだけになってしまってます。

 群馬の農家は養蚕が盛んでしたから、一年の養蚕の豊作を祝って、県下の殆どの農家が小正月にはマイダマを作って、"豊蚕"の願いを込めて、蚕室や居間に飾ったのです。"マイ(繭)玉" と呼んだのも、蚕の繭の形に似せて作ったからでしょう。マイダマは、米の粉、稗(ひえ)の粉、ソバ粉などの粉をこね鉢に入れ、熱湯でよくこねてから、千切りにして、一つずつ丸めて、竹のショウギに入れ、ゆでたり、ふかしたりして木の枝に刺したものです。繭は胴がくびれてますから、繭に似せて、「マユ型」にしたが、今では殆どが、丸く仕上げております。

 群馬の一部地域では、「繭はサナギが入っている」といって、マイダマに一粒づつ、小豆を入れたそうです。マイダマを、正月の松飾りなどの縁起ものを燃やす"どんど焼き"の縁起のよい火で、焼いて食することが、"豊蚕"の祈りであったのです。

 午後7時過ぎ頃になると、周囲も明るくなって、立ち昇るどんど焼きの煙を目指して、マイダマを刺した小枝を持って、町の人達が集まって来ました。炎が燃え盛っている時でなく、火勢が少し落ちた頃に、マイダマのあぶると、焦げずに旨く焼けます。それでも、炎と煙で、顔が熱くなってしまいます。


 "マイダマ" と "どんど焼き"とのつながりからも分かりますように、"どんど焼き"は、小正月行事として、特に養蚕農家の多かった群馬の各地で盛んに行われた五穀豊穣と無病息災の神仏への祈りの"道祖神まつり"の手締めの儀式であったのだ、と云えると思います。そして、どんど焼きと共に、今でも真冬の山車曳きという道祖神まつりの伝統を忠実に守っておられる高崎・石原町の皆さんに、心からの拍手をお送りします。



小正月の伝統行事 "道祖神まつり" の松小屋

 平成20年1月11日、高崎郊外の神社に初詣をした。その帰途、昼近くに通りかかった田舎道の脇の畑地のなかに、背丈5mほどの円錐形で、周囲を麦藁と沢山の松の枝で囲んだ小屋が建てられていた。車を止め近寄ってみると、先端に竹の葉をつけた幾本もの太くて長い竹で円錐状に骨組みをつくり、麦藁で囲み、その上を各家庭の神棚や玄関に飾ってあった沢山の正月用松飾りの松の枝で覆って、大小の縁起達磨を小屋の壁に括りつけた立派な松小屋でした。

画像は、08/1/11高崎市足門町560の天王川の森下橋の土手下で撮影。

小屋には、人が出入りできる入り口があり、中は4、5人が座れるくらいの広さで、古びた太鼓がふたつ置かれていて、大きな達磨がひとつ留守番役で、まだ誰も居ませんでした。夕方には子供達が集まって来て、夜遅くまで太鼓を叩くのでしょう。車に戻る時、畑に居た人に尋ねたところ、この松小屋は毎年正月七日に建てられ、小正月の13日の早朝、この小屋に火を放して、餅や繭玉を焼いて食べ、無病息災を祈願するどんど焼きを致しますと、話しておりました。今回、郊外で見かけた道祖神の松小屋で、私の子供時代が思い起こされました。わずかですが、その思い出話を記述します。

私の小学校入学は、昭和戦争敗戦の翌年でした。つぎはぎだらけの服と、履物は足袋と下駄で、夏は素足。食べものが少なく、空腹でした。テレビもなく、こどもはいつも外で、大勢の隣近所の餓鬼どもと日暮れまで「ベーゴマ」や竹馬で遊んだりした記憶は今でも懐かしいです。私の小学生の頃、正月の三が日が過ぎ、七草になると、近所の餓鬼大将に従って、各家庭の門松を集めて、成田山の境内に松小屋を作って、町の世話役や鳶(かしら)に頼んで、太鼓を蔵から出して貰い、中で太鼓を叩きながら餅などを焼いて食べたりしました。夕方になり、小学高学年生や中学生が参加すると、囃子の音色や調子は一段と整ってくる。夜になると、大人達も参加し、夜半まで、街中に囃子が響きわたるのです。こうして、道祖神どんど焼きの前日迄を松小屋で過ごすのです。

1月13日の昼間、松小屋を解体して、使った木材と松や達磨を、どんど焼きの場所迄運んで行く。その道行きに引き出されるのが道祖神飾り屋台(花車)でした。それは、運送屋から荷車を借りてきて、その上に鉾の形に櫓(やぐら)を組み、太鼓を乗せ、周囲に幕を張り、青年達の手作りによる造花で飾って仕上げた曳山でした。木綿手拭の鉢巻姿のおじさんや子供達が、長い行列を作り、掛け声を張り上げて、町内を威勢良く飾り屋台(花車)を引き回したのでした。翌14日早朝、町内の大人と子供達は餅や繭玉、するめなどを結わいつけた桑の枝を持って、どんど焼きの場所へ駆けつけます。

この道祖神祭りのフィナーレが「どんど焼き」です。前日持ち込まれて山になっている解体した小屋の木材や正月飾りに火が放され、どんど焼きが開始されます。立ち昇る焚き火に、町の人達は松飾りやダルマ,神棚飾りなどの縁起物を投げ入れ、米の粉で作った蚕(かいこ)の繭(まゆ)の形に似た繭玉ダンゴを桑などの木の枝の先に刺したものを、同じ枝に吊した餅やスルメイカと一緒に焚き火にかざして焼き上げ、食することで、これから先の一年間の無病息災、家内安全の祈願が叶うと、信じられております。 

各地の道祖神などの石仏を数多く探索しておられる研究者は、その著書のなかで、<・・石仏は、仏教の経典にのっとって礼拝する対象として作られた仏像とは別の、神仏の何たるかも知らぬ愚昧な庶民の素朴な宗教的心情 (嬉しい時、困った時の"神様、仏さま"と叫ぶ心境)を対象とした民間信仰で、僧侶も神官も介在しないことで、庶民が神仏と直結していることを意識出来る媒体である、と云えるのではないだろうか・・>。( )カッコ内は私の解釈です。更に研究者はつけ加えて、<・・極論すれば、神や仏の姿を借りた庶民像、それが石仏であって、声を掛け、手を触れ、苛立たしいなら叩くことも出来るのが道祖神・石仏なのである・・>と述べております。

左の石仏画像は、双体道祖神。00/3/10 高崎市京目町1367番地の長泉寺正面参道入り口の角にて撮影。
上記、石仏記述中の <>内は、道祖神の石碑の研究者 大塚省悟の著 上州の道祖神「又々、やぶにらみ道祖神考」(高崎図書館蔵)より抜粋引用しました。
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