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21世紀の初年、西暦2001年のスタートを飾る冬の風物詩!

 群馬県高崎市は、20世紀の最後の年の西暦2000年(平成12年)が、市制施行100周年の記念の年でした。この年は年間を通じ、数多くの祝賀記念行事が行われましたが、その締めくくりとして、翌年の21世紀スタートの年、西暦2001年(平成13年)の年頭に行われた高崎市の西域の町、石原町に伝わる正月の伝統行事の"道祖神まつり"をご紹介いたします。

 この石原町の"道祖神まつり"は、小正月と呼ばれる正月の15日に行われる"どんど焼き"を打ち上げとする正月の13日から15日迄の3日間、毎年行われているお祭りです。祭り3日目に"どんど焼き"という行事が行われます。成人の日の15日がどんど焼きに丁度よい日でした。でも、平成13年から、成人の日が正月の第2月曜日になりましたので、小正月に一番近い日曜日の14日をどんど焼きの日と決め、その二日前の12日から14日迄の3日間が、今年の石原町の道祖神まつりの期間となりました。

 平成13年の正月12,13日の両日行われた石原町の山車曳きは、小正月の道祖神まつりの伝統を引き継ぐものであって、毎年の小正月に山車曳きを実施している町は、今では高崎市内どころか、群馬県内でも、この石原町だけになってしまったそうです。"道祖神まつり"は、伝統のある貴重な祭礼です。来年以降も継続して山車曳きを実施して頂く様に、石原町の皆さんにお願いしたい思いと、中断している町や地域でも、"道祖神まつり"を復活して頂きたいとの思いを込めて、今回の12,13日に行われた石原町の"道祖神まつり"の「山車曳き」初日の12日の様子をこのページの前段で、祭りの締めの行事である14日朝の「どんど焼き」の様子を、このページの後段で、皆さんにご紹介します。


西暦2001年の高崎・石原町の"道祖神まつり"


 石原町は高崎市の南西部の町です。市の西部を南北に流れる烏川(からすがわ)の西側です。高崎市発行のホームページに、市内の各町を紹介する"平成のわが町"があります。その中の記述で、「石原町(いしはらまち)は、市南部、烏川右岸に位置する町です。江戸時代には石原村と呼ばれましたが、明治22年に片岡村の大字、昭和2年に高崎市の大字を経て、同26年に石原町となりました。石原の地名は、烏川の石の原を示すものといわれます」と、あります。
 観音山丘陵の麓で、自然環境は住宅地として申し分なく、石原町は昭和30年代以降、急速に発展した町です。
 石原町には、9町内(9地区)があります。その中で、
石原町下1(西半田地区 222世帯)、石原町下2(中石原地区 754世帯)、石原町下3(東半田地区 371世帯)、石原町下4(指出地区 421世帯)の4地区が、山車を所有しますから、石原町には計4台の山車があります。石原町は、山車を所有する旧市内の各町と比べ、格段に世帯数が多い町です。注:下1、下2 は"しもいち"、"しもに",指出 は"さしで"と読みます。

世帯数は、高崎市のホームページの片岡地区を参照。

 

 高崎のひとつの町で山車を複数所有するのは、4台を持つ石原町の他は、本町の3台、田町と並榎町の各2台です。石原町の4台が目立つ訳です。
町内名の下1(しもいち)、下2(しもに)の呼称は、正式な町内名ですが、普段は、高崎に合併する前迄の字(あざ)名であった西半田、中石原、東半田、指出の地区名で呼び合ってます。

  石原町で山車を持つ4地区は、町の中心に位置し、互いに隣り合ってます。由緒ある二つの神社、小祝(おぼり)神社と三島神社が地区内にあり、辻角の道祖神の碑が町の古い歴史を思わせる一方、バイパス道路には大型店が並び、市郊外の賑やかな住宅地となっております。案内図で、会所となってますのは、各町内の公民館です。それぞれ、山車倉庫(蔵)が併設されてます。

 高崎市石原町の道祖神まつりは、これからも毎年、小正月に実施されます。真冬の山車曳きを一度、ご覧になられては如何ですか。


道祖神まつり "山車曳き"


 このページの後段で、石原町の道祖神まつりの締め括りの"どんど焼き"の様子を紹介いたします。その紹介の冒頭の「"道祖神まつり"とは何か」のなかの記述で、・・・松小屋を解体して、荷車に積み、町外れにあるドンドン焼きが行われる場所迄運んで行く。その道行きに引き出されるのが道祖神屋台であった・・・お揃 いの法被と色手拭いの艶姿で長い行列を作り、掛け声を張り上げて、威勢良く飾り屋台(花車)を引き回したのである・・・と、ありますが、作者が小学生の頃の体験では、松小屋を作った所が、"どんど焼き"の場所でした。小屋の松だけでなく、参集する人達が持参してくる門松や神棚のお札やダルマなどの縁起物が、一緒に焼かれました。どんど焼きの前日の昼過ぎと宵に、町内の山車曳きをしてました。これと同じで、石原町の道祖神まつりの山車曳きは、"どんど焼き"の前日と前々日の2日間に行っております。

 石原町の各山車は、12、13の両日とも、午後6時に各会所を出発する"夜の山車曳き"でした。祭礼の会所となる公民館には山車倉庫が併設、ないしは同じ敷地内に立てられており、人形を載せたままの山車が収納できます。祭り初日は、各山車は自町内巡行の後、4台の山車が小祝神社(おぼりじんじゃ)の鳥居前に集合するのが、恒例になっています。

 作者の所属する高崎山車囃子保存会の笛部隊のメンバーが、この東半田におりますので、この日、作者は東半田の笛衆の仲間に入れさせて貰いました。真冬の午後6過ぎともなると、ところどころに立つ街灯と、家々の玄関や部屋の灯りで、道端の塀や植木が浮かび上って見える以外は、すっかり闇の中に閉ざされてしまった町内の道路を、若衆が二人、曳き手衆の先頭に立って、辻々で弓張り提灯を左右に振って、誘導するなか、山車は進みます。

 曳き手衆は、祭り半纏の下に、防寒服を幾枚も重ね着してますので、誰もが丸味帯びた支度になってますが、それでもお囃子に合わせて、白い呼気(いき)をはきながら、元気な掛け声を、静寂な住宅街に響かせておりました。上鉾、下鉾の高欄を囲むように取り付けられた提灯は明るく輝き、アップライトスポットを満身に受けて、より大きく神々しく見える神像の山車人形、囃子台の破風の彫刻も、四方幕の刺繍も照明に映えて、昼間見るより一層華麗な山車の姿でした。

 もの音で盛んに吠えていた犬が、次第に近づいて来る山車の大きなお囃子の太鼓の音と、曳き手衆の声に怯んで、啼きやんでしまうのがお可笑しかったが、山車が近づくと、玄関から家の人が出てきて、手に持った祝儀袋を町内役員に、何事か話しながら渡して、お返しの手ぬぐいを受け取ってました。作者の住む町では既に、見かけなくなってしまった風景でしたが、今でも地元の人達に支持されている祭礼が羨ましく思えました。

 山車の町内巡りは、山車が通れる路地があれば進み、行き止まりではUターンを幾度か繰り替えしながら、町内の隅々まで巡回します。会所を出て、ほぼ1時間の町内巡りを終えて、山車は小祝神社(おぼりじんじゃ)の鳥居の前へと、向かいました。着膨れ位に着込んでましたので、寒さは感じませんでしたが、笛を吹く指先は、痛くなるほど冷えます。ポケットのほかほかカイロで指先を暖めながらの笛吹きとなりましたが、昔の笛吹きの人はどうやっていたのかと、ふと思ったりもしました。


小祝神社 "山車勢揃い"


小祝神社(おぼりじんじゃ)の鳥居前の広場に、4台の山車が勢揃いしました。鳥居に向かって横一列に、右から中石原、西半田、東半田、指出の順に並びました。
 画像は本堂側から、鳥居を介して撮ったもの。鳥居周辺には、大勢の観客が見物に詰めかけておりました。山車が整列しますと、4町内代表の新年の挨拶、高崎山車祭り保存会の竹中三郎会長から、石原町道祖神山車祭り継続への感謝と激励の祝辞が終わると、各山車がそれぞれ、奉納囃子を披露しました。

4台の山車の内の、東半田(右)、指出(左)の画像です。人形の画像は、平成12年夏の「高崎まつり」での撮影のものです。



"左:"菅原道真"  すがわらみちざね
 平安前期の894年の遣唐使。醍醐天皇の時、右大臣に任じられたが、901年 藤原時平の讒言により、太宰権師(だざいごんのそち)に左遷され、配所に没。書をよくし、三聖のひとり。北野天満宮に祀られて、天神様と言う学問の神様として信仰が厚い。本庄市 今福人形店

右:小鍛冶"  こかじ
能楽五番目のもので、勅命により三条宗近は御剣を打つことになったが、相槌を打つものがいないため稲荷明神に祈誓をこらすと、稲荷明神が現れて相槌を打ち、名刀をこしらえるという物語で、その姿を人形に現わしたものです。本庄市 今福人形店

 人形画像をクリックしますと、山車全身画像へリンクします。



4台の山車の内の、西半田(左)と中石原(右)の画像です。人形の画像は、平成10年夏の「高崎まつり」での撮影のものです。



"左:西半田山車人形の"少耶彦名命" すくなひこなのみこと。
彦名命は、石原町半田に鎮座する七の宮小祝神社の祭神です。この神は、大国主命と出雲の国の建国にあたった渡来人で、知恵と医療の神とされています。岩槻人形師 川崎阿具 (株)晁月人形

右:中石原山車人形の"彦狭嶋王"ひこさしまおう 。
中石原町内会で管理する三嶋神社にある三嶋塚古墳は、古くから口伝などにより「彦狭嶋王」の御墓だと伝えられている。(株)晁月人形

 以上の人形の解説は、高崎市役所ホームページ「高崎まつり 山車」の記述を参照。

 人形画像をクリックしますと、山車全身画像へリンクします。 



石原の"山車囃子"について

 石原4台の山車が演奏する山車囃子は、3流派に別れてます。昔は、石原地域で演奏されていた山車囃子は、永い歴史を持った石原界隈独自の山車囃子があったと、思われます。
 今の高崎市中の山車囃子は、大きく二つの流派に別れてます。「長谷川流」と「秀山流」です。

この流派の発生の経過などについては、 にまとめてありますので、クリックして、ご覧下さい。ブラウザー左上の「戻る」で、このページへ、お戻り下さい。

 高崎と合併して、旧市内の町との交流が深くなったこと、また囃子の指導者の代替わりなどで、最近では、西半田と東半田では「長谷川流」が、指出(さしで)では「秀山流」の山車囃子が演奏されるようになってます。中石原は今でも、昔からの「六郷流」と呼ばれる長谷川、秀山とは全く違った山梃子(さんてこ)調の山車囃子を演奏しております。

 山車囃子は、流派に関係なく、どれも貴重な文化財です。「長谷川流」「秀山流」とも、保存活動を通じて、各流派の演奏技能の普及向上と管理に当たっております。作者は長谷川流保存会の一員として、今回の東半田の山車笛の応援にまかり出た、というわけです。この指出の画像で、太鼓の側に立っている法被の背中の"秀"のひとは、秀山流の笛の応援者です。

平成12年10月1日に、高崎総合文化会館のホールで、第六回「高崎伝統民俗芸能まつり」が開催されました。この祭りは、既にサイトに載せてあります平成9年度高崎芸能祭りの中で紹介しましたが、高崎に古くから伝わっている民俗芸能を発掘し、保存継承の活動状況を広く市民に知っていただこうとの主旨で、毎年秋に開催されております。

 今回初めて、「長谷川流」と「秀山流」のふたつの山車囃子保存会が、そろって出演しました。演奏された曲目のひとつに「雨だれ」という高崎の山車囃子のなかで一番テンポの速い、熟練を要する囃子ですが、この同じ曲目が「長谷川流」と「秀山流」とでは、どんな演奏になるのか興味のあるところです。元曲が同じであっても、保存・継承の永い年月の間で、次第に各派の個性が出てきて、別の曲のように聴こえますが、要所々々の節がよく似てますので、聴いていて面白いです。ご参考迄にお聞き下さい。 ストリーミング方式のリアルプレイヤーはリアルネットワークス社(RealNetworks, Inc.)より、無償でダウンロードできます。

秀山流花車ばやし保存会の"雨だれ"

高崎山車囃子保存会(長谷川流)の"雨だれ"

 この両流派の「雨だれ」は、平成12年10月1日に、高崎総合文化会館のホールの公演時に、作者が録音したものです。また、このサイトに公開致すことについては、秀山流花車ばやし保存会会長の須藤敬文氏、高崎山車囃子保存会事務局長の三輪 昇氏のご了承を頂いております。



各町内"会所"の相互訪問

 小祝神社での勢揃いが終わると、西半田、東半田そして、指出の3台の山車は、西半田の山車の会所へと向いました。毎年、恒例でやっておることで、西半田の会所に寄せて貰った東半田と指出の人達は、西半田の町内の人達から、飲食の接待を受けるのです。山車曳きの楽しみのひとつは、このような会所での休憩時間です。

 山車が会所に到着するやいなや、お囃子衆や曳き手衆の子供も、大人も、一斉に会所脇の天幕へ駆けつけます。天幕の近くで、勢いよく火柱を上げる焚き火に冷えた手をかざす人、背中や尻を暖める人達は、口々に"やぁ、温ったけぇーなぁ!"と、ニコニコした顔で歓声を揚げてました。天幕のなかでは、町内のご婦人達が大きな鍋で調理したケンチン汁が振る舞われます。早速、にんじん、ごぼう、大根、椎茸などの野菜に、肉、こんにゃくなどが一杯入って、湯気が立ち上る熱いケンチン汁を、フーフーと、息をかけながら、喉から胃袋へと流し込みますと、先刻までの寒さが吹き飛ぶようでした。

 "御神酒の熱燗ですよ"と、目の前にお盆に載せた清酒のグラスを出されると、いやぁ、これはどうも、ご馳走さま!と、これまた遠慮なくいただきました。遠足や運動会の弁当などもそうでしたが、活動したあとの食べ物は何でも、旨いですね。同じ思いの祭りの仲間同士という雰囲気も好かったのかも知れませんが、久しぶりに華やいだ気分にさせていただきました。

 そこで暫しの休憩の後、3台の山車はお囃子と、曳き手の元気な掛け声に包まれながら、巡行を再開して、次の休憩場所の東半田の会所へと向いました。この東半田の会所で、西半田と同様な休息・懇親を楽しんだ後、西半田と指出の山車は、東半田の皆さんの拍手に送られて、自分の会所へ戻りました。この後、東半田の町内の慰労会が会所の座敷で行われ、午後10時半、初日の山車曳きはお開きとなりました。

 翌、祭り2日目は、初日の様な4台の山車が一ヶ所に勢揃はありませんでしたが、東半田の山車は、午後6時会所出発で、自町内の巡行のあと、途中、西半田の山車と合流して、指出の会所を訪問しました。前日の初日の時と同様に、熱いケンチン汁や"味噌焼きおでん"が振る舞われ、熱燗の清酒で喉を潤し、懇親を深めました。腹ごしらえと休憩の後、3台の山車の元気なお囃子の叩き合いで、最高潮を迎え、興奮と感激で、指先の冷たさなど、すっかり忘れてしまいました。そして、全員での三々七拍子の手締めで会所訪問が目出度く、お開きとなりました。

 東半田の会所に戻り、会所の座敷で、明朝の"どんど焼き"の打ち合わせの後、全員で乾杯し、この2日間の道祖神まつりの山車曳きの無事終了を祝いました。


 高崎・石原町「道祖神まつり」の締め括りの"どんど焼き"の様子を、下の"次ぎへ"をクリックして御覧下さい。


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