このページの後段で、石原町の道祖神まつりの締め括りの"どんど焼き"の様子を紹介いたします。その紹介の冒頭の「"道祖神まつり"とは何か」のなかの記述で、・・・松小屋を解体して、荷車に積み、町外れにあるドンドン焼きが行われる場所迄運んで行く。その道行きに引き出されるのが道祖神屋台であった・・・お揃 いの法被と色手拭いの艶姿で長い行列を作り、掛け声を張り上げて、威勢良く飾り屋台(花車)を引き回したのである・・・と、ありますが、作者が小学生の頃の体験では、松小屋を作った所が、"どんど焼き"の場所でした。小屋の松だけでなく、参集する人達が持参してくる門松や神棚のお札やダルマなどの縁起物が、一緒に焼かれました。どんど焼きの前日の昼過ぎと宵に、町内の山車曳きをしてました。これと同じで、石原町の道祖神まつりの山車曳きは、"どんど焼き"の前日と前々日の2日間に行っております。 石原町の各山車は、12、13の両日とも、午後6時に各会所を出発する"夜の山車曳き"でした。祭礼の会所となる公民館には山車倉庫が併設、ないしは同じ敷地内に立てられており、人形を載せたままの山車が収納できます。祭り初日は、各山車は自町内巡行の後、4台の山車が小祝神社(おぼりじんじゃ)の鳥居前に集合するのが、恒例になっています。
作者の所属する高崎山車囃子保存会の笛部隊のメンバーが、この東半田におりますので、この日、作者は東半田の笛衆の仲間に入れさせて貰いました。真冬の午後6過ぎともなると、ところどころに立つ街灯と、家々の玄関や部屋の灯りで、道端の塀や植木が浮かび上って見える以外は、すっかり闇の中に閉ざされてしまった町内の道路を、若衆が二人、曳き手衆の先頭に立って、辻々で弓張り提灯を左右に振って、誘導するなか、山車は進みます。
曳き手衆は、祭り半纏の下に、防寒服を幾枚も重ね着してますので、誰もが丸味帯びた支度になってますが、それでもお囃子に合わせて、白い呼気(いき)をはきながら、元気な掛け声を、静寂な住宅街に響かせておりました。上鉾、下鉾の高欄を囲むように取り付けられた提灯は明るく輝き、アップライトスポットを満身に受けて、より大きく神々しく見える神像の山車人形、囃子台の破風の彫刻も、四方幕の刺繍も照明に映えて、昼間見るより一層華麗な山車の姿でした。
もの音で盛んに吠えていた犬が、次第に近づいて来る山車の大きなお囃子の太鼓の音と、曳き手衆の声に怯んで、啼きやんでしまうのがお可笑しかったが、山車が近づくと、玄関から家の人が出てきて、手に持った祝儀袋を町内役員に、何事か話しながら渡して、お返しの手ぬぐいを受け取ってました。作者の住む町では既に、見かけなくなってしまった風景でしたが、今でも地元の人達に支持されている祭礼が羨ましく思えました。
山車の町内巡りは、山車が通れる路地があれば進み、行き止まりではUターンを幾度か繰り替えしながら、町内の隅々まで巡回します。会所を出て、ほぼ1時間の町内巡りを終えて、山車は小祝神社(おぼりじんじゃ)の鳥居の前へと、向かいました。着膨れ位に着込んでましたので、寒さは感じませんでしたが、笛を吹く指先は、痛くなるほど冷えます。ポケットのほかほかカイロで指先を暖めながらの笛吹きとなりましたが、昔の笛吹きの人はどうやっていたのかと、ふと思ったりもしました。