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〜本町3丁目の弁天様舞台の歩み〜

 


 池田町訪問の初日の朝10時前、明科駅から乗ったタクシーを町役場前で降り、八幡神社の参拝を済ませ、三丁目公民館へ向かいました。ゼンリン地図があったので、公民館の場所は直ぐにわかりました。県道大町・明科線の三丁目交差点から100mほど北の左側、形よい松の立ち木が一本、前庭がある平屋の建物が三丁目公民館でした。前庭には、正装が済んだ"弁天さま舞台"が待機してました。これまで、各地の祭礼を尋ねて感じますことは、初めて最初に出会った山車、屋台などの曳山は強く印象に残るものですが、今回は格別でした。事前に承知はしていたとは云え、管理者に縁のある曳山が悠然と優美な姿を見せているのは、真に感動そのものでした。勿論、今まで一度も会ったことのない弁天様ですが、何ぜか久しく会わなかった身内の家族に再会した様な感動を覚えました。清楚で品のある顔立ちの弁天様、彫刻満載の大型の鬼板・懸魚を着けた唐破風屋根は漆と金張り金具で輝き、囃子台の左右の向拝柱の登り龍と降り竜の金色の豪華な彫刻、台座の上の手摺と勾欄、鉾の欄間と勾欄、二層人形座の擬宝珠(ぎぼしゅ)勾欄や四方幕など、改造改修から来年2010年で、30年も経つとは思えないほど、傷汚れがない手入れの行き届いた豪華絢爛な曳山でした。
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池田町へ嫁入りした弁天様山車の形状は、江戸時代末期の文久年代頃から江戸天下まつりに出てきた山車のスタイルで、二輪(牛が曳く)か三輪、四輪(人が曳く)の土台の前部がお囃子台で、後部が鉾台になっていて、鉾の天辺に人形を載せる鉾台型山車と呼ばれたものです。
この鉾台型山車は、最初の型はお囃子台には屋根が無く、屋根が付いたのは暫く後になってからでした。後部の鉾も最初は一段だけでしたが、二段となって二重鉾台の形に、屋根も最初は天幕でしたが、唐破風式の屋根を載せた形式に発展して、江戸末期から明治に掛けて造られた山車の中で、最も豪華な山車になりました。

屋根付きの二重鉾台型山車は江戸周辺地域で、盛んに造られるようになったのです。埼玉の川越、熊谷、深谷、本庄、大宮、上尾、越生、群馬の高崎、渋川などで、明治期に沢山の鉾台型山車が登場したのです。

明治維新で武家屋敷と町民住まいである町屋との境の木戸が廃止された高崎では、街中を自由に山車が曳き廻せるようになり、各町が競って大型の山車を造ったのです。

文明開化の世の中、やがて高崎市街地に市内電車が走るようになり、道路の中心に線路が施設され、その上に電車線といわれた電線(架線)が張られ、その電線を保持するため道路の両側に電柱が建ち、引っ張り線が道路を横断する形で張られ、山車の運行が出来なくなりました。
高崎市役所発行の「高崎市史」の"高崎のあゆみ"に、明治43年(1910)「高崎ー渋川間に鉄道開通」と記載されてます。弁天様が池田町へ輿入れした年と合致します。

右の曳き出されるところの池田町三丁目舞台の写真は、三丁目の小林 哲(あきら)様から、ご提供頂きました。小林 哲様が自身で撮られた巡行に曳き出される改造前の姿の弁天様舞台の写真です。弁天様舞台は昭和58年9月に改造着手し、昭和59年9月23日の祭礼で、改造完成のお披露目(入魂式)をしておりますから、この改造前の写真は真に貴重な写真と申し上げても過言ではありません。画像をクリックしますと拡大します。左上隅の戻る(←)で、このページへお戻り下さい。
この拡大した写真をご覧頂くと、一層と二層の幕が神社境内の高崎から来たばかりの三丁目山車の白黒写真の幕と同じであることがお分かりなると思います。池田町へ弁天様が嫁入りして以来、昭和56年8月の改造着手迄の70年間、嫁入りした当時のままの山車の姿で曳行されていたことを知り、高崎から来た山車が長年、大切に保管されていたということに、高崎の住民として、感謝申し上げます。


上の池田町本町三丁目の舞台を正面から撮った左の写真は、三丁目公民館に掲示されていました額の中の写真を撮影したものです。右の写真は小林三郎氏の提供の写真です。 共にカラー写真で、改造直後の貴重な写真です。左の改造直後の写真を注意してご覧頂きたいのですが、写真の下部に、84  9  22という数字が写っております。これは1984年(昭和59年)9月22日を示しております。又、右の写真は背景から三丁目公民館の前で、左斜めから撮影されており、大幕下の庇がハッキリ見え、舞台の前にお供え物が並べてありますので、明らかにお披露目、入魂式の時に撮影された写真画像と分ります。
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三丁目舞台の大改造を手掛けた三丁目の伊藤和美氏が小林三郎氏へ、大修理の後の入魂式は1984年(昭和59年)9月23日(八幡神社の祭礼日)に行われたと話されておられるます。上の左の写真の84  9  22の日付とは一日違いますが、この写真の中で、町のひと二人が大太鼓の取り付け作業をしている様子から、この写真は入魂式の前日に撮られたものと推察できます。
そして、右の写真では舞台前にお供え物、右端に一升瓶がハッキリと写ってますから、改造完成のお披露目、入魂式のあった1984年(昭和59年)9月23日に、舞台の左前から撮影された写真と判断できます。改造直後ですので、提灯架けが取り付けられておりませんから、外観の姿は改造前と大きく変わった感じが無いのですが、二枚の写真で、後部のお囃子台の左右両脇に庇が取り付けられ、その結果、大幕が前の半分の丈の幕に変わっていることが確認できます。提灯掛けの工事など、昭和59年一杯は改造の仕上げに時間を要したと推察できます。尚、三丁目の伊藤和美氏のお話ですと、増設した庇(霧よけ)は柱に釘付けされているのでなく、嵌め込み式なので、庇をそっくり取り外すことが出来るそうです。弁天様が嫁入り当時の山車の姿に戻すことは可能ですよ、と話されてました。

明治43年(1910)9月に嫁入りした弁天様は、それなりの補修をしながらも、ほぼ原型のままの姿で、改造が着手された昭和58年(1983)の祭りまでの70年以上の間、元気で曳きまわされていたことを、嫁に出した高崎本町(もとまち)二丁目の人たちは勿論、高崎の市民全部が、それを知ったら驚きと池田町の皆さんへの感謝の気持ちで一杯になると思います。人間の一生に喩えられる長い年月を、遠い嫁ぎ先で元気で過ごしている我が娘に涙するでしょう。


本町3丁目の弁天様舞台の昭和58年度の改造のポイント

改造が着手された昭和58年(1983)の祭りまでの70年以上の間、元気で曳きまわされていた三丁目の舞台に、大きな転機が訪れました。それは昭和56年に警察署長より警告されたのが始まりだったそうです。警察の意見は、台座を支える車軸の磨耗の指摘でした。当時の三丁目舞台の改造前の写真をご覧下さい。クリックしますと、画像が出ます。左上の←(戻る)で、お戻り下さい。ご覧なられた様に、後輪がカタカナのハの字になっているは、老化が原因だから早急の修理をしなさいとの警察からの強い指導があったのだそうです。やむなく、その年に建設委員会が結成され、委員会の総会で修復の審議が始まった。当時の委員会副委員長でおられた三丁目の伊藤和美氏のお話ですと、高額の修復金額などから、修復改造への反対意見があり、改造が決定するまでに時間が掛かったそうです。また、修復資金の工面に苦労されたそうです。

囃子台

改造内容



改造前の弁天様山車の囃子台の後部の鉾の内側には、上部へ上る足場などがあり外部からは見えなかった部分でしたが、他の7台の舞台の囃子台に倣って、鉾台の床を前部の囃子台の床とつなげ、フラットにして、従来あった囃子台と鉾台を仕切っていた刺繍幕を取り払い、囃子衆の演奏場所を広くした。囃子台の側面に庇(ひさし)を設置し、鉾幕の丈は庇の上迄で、下は御簾を垂らした。
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囃子台の庇、霧除けとも呼ぶ

改造内容


囃子台左右側面に庇が増設されました。庇は囃子衆の日差し除けと提灯掛けを兼ねてます。囃子台の拡張と庇の設置で、弁天様は元の江戸型鉾台山車から、池田町の舞台に変身したのです。鉾台の内側の柱は外部同様に塗装され、灯りの提灯も下げられ、整頓された演奏の居住空間になっております。面白いのは、庇にも提灯を掛けたので、三丁目は提灯が4段になり、他の舞台の3段より1段、多いのです。右の写真は巡行翌朝、倉に収納する前の清掃作業中の時で、庇がよく見えます。増設した庇(霧よけ)は柱に釘付けされているのでなく、嵌め込み式なので、庇をそっくり取り外すことが出来るそうです。
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弁天様

改造内容



池田町の皆さんから"弁天さま"の愛称で親しまれている山車人形の弁財天も山車本体の改造時に、改造されました。左上の画像は、舞台の上層の枠を下から見上げて撮った画像です。その画像中央に、首と手首と足首が外されたは人形の本体が見えます。
左下の画像は、人形から外された頭、両手首、両手足、そして人形の衣装が並べられております。

江戸鉾台型山車は、鉾の上に乗る人形は、山車本体が倉に収納される際は、山車に梯子を立て掛けて、人形は衣装を着けたままの姿で、人間が人形を背負って上げ降ろしをします。三丁目も、改造前迄は弁天様を人が背負って、上げ降ろしをしていたそうです(三丁目山車管理委員会の伊藤和美氏のお話し)。人形の頭、両手足が胴体と着脱式でつながる様に改造されて、人形の胴体は上鉾に据え付けたままにして、胴体から分離された頭、両手首、両足首は衣装とともに、三丁目公民館に持ち運ばれ、保管されました。
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後輪と車軸

改造内容


左の改造後の三丁目舞台の後輪と、改造直前の三丁目舞台の正面画像の後輪とを比較して下さい。気付かれたかと思いますが、改造前の左右の後輪は片仮名の"ハの字"になってます。明治43年に高崎から池田町へ嫁入りした弁天様山車は、昭和58年の改造時には既に70年という長い年月を経ておりました。車軸と車輪の軸受けが劣化したのかも知れません。樫の木製の285センチの車軸を鋼鉄製に代えました。伊藤和美さんのお話ですと、取り外された車軸は今でも元の大幕、四方幕とともに、公民館の蔵に保存されているそうです。

提灯掛け

改造内容


唐破風屋根を支える竜の彫刻が巻かれている左右の向拝柱(ごはいばしら)の外側に立てられた丸棒の柱は、舞台正面、唐破風屋根の前面に提灯を吊るす横棒を設ける為に置かれた。一層の欄間の上の勾欄、二層の素晴らしい彫刻の三味線胴が、周囲に提げられる提灯で隠れてしまうのは少し残念に感じますが、舞台の姿により似せる為にはやむを得ないです。新設された庇に提灯が提げられたので、三丁目舞台は四段の提灯吊りとなり、他の舞台より一段分、提灯が多い。

舞台の身長と幅の測定

改造内容


三丁目公民館で、改造時に飛騨高山の請け負い業者から提出された舞台の横断面図をコピーさせて頂きました。その図を模写したのが左図です。

舞台の二層鉾台を最高に上へ伸ばした地上面からの高さは、図の寸法を合計した4,460mmになります。改造前の寸法が不明ですので、高さ、幅が変更修正があったのかは分りません。
参考までに、弁天様が生まれた実家の高崎市本町(もとまち)二丁目の隣りの高崎市本町一丁目の昔の山車も、池田町へ嫁入りした弁天様山車と同じ大きさでしたので、高崎市内巡行が出来なくなり、高崎に隣接する倉賀野町仲町に譲り渡されていて、今でも現役で倉賀野神社の祭りには曳行されております。
この山車は幕などの装備品は交換されておりますが、構造には改造変更は加えられておりませんので、この倉賀野町仲町の山車の寸法を仲町の区長である井上勝氏にお聞きしましたところ、倉賀野神社に提出した寸法図が保管されており、その写しを頂戴しました。それに拠りますと、二層の手摺の擬宝珠勾欄の天辺までの地上からの高さは4,720mmです。また、幅は2,500mmですので、池田町の弁天様舞台との大きな差はありません。

従って、弁天様舞台の構造物で目立つ改造は、台座の車軸と車輪の強化工事、囃子台の拡張工事、囃子台両側面の庇の設置工事ということになります。山車(舞台)の本体の高さ、幅の変更は無かったと思います。構造物ではありませんが、弁天様人形の改造も大掛かりでした。大幕、四方幕は新調されてます。

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池田町八幡神社祭典を鑑賞しての感想を申し上げます

この度、池田町八幡神社祭典を見学させて貰おうと思った動機は、このホームページの冒頭でも紹介させて頂きましたが、池田町の祭典を観覧した祭り仲間のK氏からのこの言葉でした。三丁目の舞台について「"孤高の曳山"は安曇野の地において、独り孤軍奮闘し、また異彩を放ち続けていた。遠く信州に赴いた、この弁才天の山車のことを、君の住む高崎では果たして、どれ程の人々に、その存在が知られているのだろうか?」と、話されたK氏の言葉に、管理者は非常に感動し、高崎の住民として強い関心を感じたからです。

訪問に先立って、池田町役場に相談の電話をお掛けしたときに応対に出て下さって、事前にお祭り資料をご送付下さった池田町教育委員会の職員さんの暖かいご配慮に感謝申し上げます。祭礼当日の多忙な時間を管理者の応対の時間に割いて下されて、保管資料の閲覧をさせて下さった三丁目公民館の皆さん、土地勘の無い管理者に同行して、わざわざ町内を案内して下さった三丁目の田中様、写真と資料を提供下さり、お話を聞かせて下された二丁目の小林三郎様、三丁目の小林 哲様、伊藤和美様、井口博文様へ厚く御礼申し上げます。

わずか二日間の滞在でしたが予想以上の池田町の祭り舞台とお舟の情報を頂戴できましたので、ページの内容がより充実したものになりました。このページを通じ、池田町八幡神社祭典の様子が全国のお祭り愛好家諸氏に知って頂く一助になれば管理者として真に幸甚です。池田町の同義会という祭り組織の存在は管理者には驚きでしたし、大変興味を感じました。

百数十年の伝統をしっかり受け継いで、毎年の祭礼の準備と指示がマンネリにならず、ルールを守って祭りを運営する組織が確立していることに、感心しました。二丁目、三丁目は「山車管理委員会」を設け、山車舞台の管理方法を文書化して、祭り終了時に舞台の装飾品を一点、一点実数確認をして、管理台帳の数との照合を必ず行い、次年度の年番者に差異の有無の申し送りを実行して、責任の所在を明確にする体制が出来ております。同義会と各町の年番、そして山車管理委員会の三つの柱の存在は、舞台と舟の維持管理と、池田町の祭礼手法の維持管理に大きく貢献していくものと確信させて頂きました。ありがとうございました。

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