池田町へ嫁入りした弁天様山車の形状は、江戸時代末期の文久年代頃から江戸天下まつりに出てきた山車のスタイルで、二輪(牛が曳く)か三輪、四輪(人が曳く)の土台の前部がお囃子台で、後部が鉾台になっていて、鉾の天辺に人形を載せる鉾台型山車と呼ばれたものです。
この鉾台型山車は、最初の型はお囃子台には屋根が無く、屋根が付いたのは暫く後になってからでした。後部の鉾も最初は一段だけでしたが、二段となって二重鉾台の形に、屋根も最初は天幕でしたが、唐破風式の屋根を載せた形式に発展して、江戸末期から明治に掛けて造られた山車の中で、最も豪華な山車になりました。
屋根付きの二重鉾台型山車は江戸周辺地域で、盛んに造られるようになったのです。埼玉の川越、熊谷、深谷、本庄、大宮、上尾、越生、群馬の高崎、渋川などで、明治期に沢山の鉾台型山車が登場したのです。
明治維新で武家屋敷と町民住まいである町屋との境の木戸が廃止された高崎では、街中を自由に山車が曳き廻せるようになり、各町が競って大型の山車を造ったのです。
文明開化の世の中、やがて高崎市街地に市内電車が走るようになり、道路の中心に線路が施設され、その上に電車線といわれた電線(架線)が張られ、その電線を保持するため道路の両側に電柱が建ち、引っ張り線が道路を横断する形で張られ、山車の運行が出来なくなりました。
高崎市役所発行の「高崎市史」の"高崎のあゆみ"に、明治43年(1910)「高崎ー渋川間に鉄道開通」と記載されてます。弁天様が池田町へ輿入れした年と合致します。
右の曳き出されるところの池田町三丁目舞台の写真は、三丁目の小林 哲(あきら)様から、ご提供頂きました。小林 哲様が自身で撮られた巡行に曳き出される改造前の姿の弁天様舞台の写真です。弁天様舞台は昭和58年9月に改造着手し、昭和59年9月23日の祭礼で、改造完成のお披露目(入魂式)をしておりますから、この改造前の写真は真に貴重な写真と申し上げても過言ではありません。画像をクリックしますと拡大します。左上隅の戻る(←)で、このページへお戻り下さい。
この拡大した写真をご覧頂くと、一層と二層の幕が神社境内の高崎から来たばかりの三丁目山車の白黒写真の幕と同じであることがお分かりなると思います。池田町へ弁天様が嫁入りして以来、昭和56年8月の改造着手迄の70年間、嫁入りした当時のままの山車の姿で曳行されていたことを知り、高崎から来た山車が長年、大切に保管されていたということに、高崎の住民として、感謝申し上げます。