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信州あづみ野・池田町 "八幡神社祭典"見聞録

 

 この度の長野県池田町の祭礼を見学する発端は、今から2年前の平成19年3月、管理者の所属する山車祭り研究会の会合で、大先輩のK氏から、信州北安曇の池田町で、高崎から来たという山車が今でも現役で曳れているのを観てきたと話し掛けられ、へぇほんとですかぁ、とK氏が撮られた写真を見て、驚きました。

それは、埼玉、群馬で多く見られる鉾台型の山車の白黒写真でしたが、大変鮮明に映っており、山車の前で、山車の引き綱を持って並んでいる町の皆さんの支度は、大人から子供さんの全てが和服です。その後ろに、町の皆さんに隠れて車輪は見えませんが、腰高の山車の前面部は豪華な唐破風の屋根を載せた囃子台、後方部は幕で囲まれた二段式の鉾台になっており、その天辺には弁財天人形の立ち姿が載る江戸末期から明治に掛けて、埼玉を中心にした江戸周辺の多くの町村で、盛んに造られた江戸型鉾台式の山車の威容が映ってました。この右の画像をクリックしますと、拡大画像に変わります。
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 この画像は三丁目公民館に掲示されている額入りの写真を管理者が撮影したもので、K氏が管理者に見せてくれた写真もK氏がこの公民館で撮影したものでした。

池田町の祭礼に造詣の深いご当地の本町二丁目にお住まいの小林三郎氏から頂いた資料に拠りますと、三丁目舞台は明治43年(1910)に高崎から池田町へ嫁入りしたそうです。その三年後の大正3年に、嫁入りした山車の実家の高崎市本町二丁目で、三丁目山車の妹になる山車が誕生しました。この妹山車も今も健在で、この妹山車の上鉾の勾蘭に立つ人形は、池田町三丁目の弁才天を少し小振りにした、三丁目の姉によく似た姉同様に美形の弁天様です。そして、高崎の本町(もとまち)二丁目山車も、ご覧下さい。改造前の池田町三丁目弁天様山車より小振りに造られてます。

更に、K氏から、この古写真の他に、K氏が撮影した池田町の8台の舞台の写真を見せて貰いました。その時、K氏は「松本型舞台群の中に、たった1台だけ、関東の上州高崎から、はるばるやって来た江戸型人形山車が存在するのは、大変珍しい光景であった。この"孤高の曳山"は安曇野の地において、独り孤軍奮闘し、また異彩を放ち続けていた。遠く信州に赴いた、この弁才天の山車のことを、高崎では果たして、どれ程の人々に、その存在が知られているのだろうか?」と、おっしゃられたK氏の言葉に、管理者は非常に感動しました。本来は昨年の祭典時に訪問したかったのですが都合が付かず、今年、平成21年9月23日に当地、池田町へやって参りました。


23日午前7時16分高崎発の新幹線に乗り、長野駅でJR信越線、篠ノ井線と乗り継いで、明科には9時18分に到着しました。高崎を出て、軽井沢駅に近づくと、外は濃霧が立ち込めていて、出掛け前に聴いた天気予報は前日迄の晴天が今日から崩れそうな様子でしたので、今日は雨かと覚悟してましたが、明科のホームに降りたら、僅かに雨の降った跡がありましたが、曇りでしたのでホットしました。バス停の町営バスの池田行きは既に9時に出た後で、次は正午過ぎですので、タクシーで池田町役場へ向かいました。

9月になって、池田町へ行く準備を始めました。訪問の目的というか動機が、祭典全体を単に見物するだけでなく、来年で丁度100年、一世紀もの昔に、池田町が管理者の地元の高崎から譲り受けた山車が、三丁目の祭礼舞台として今でも現役で活躍している様子と、創建から120年も経つ曳山がこれまでの長い年月に渡り活動できたのは、池田町の皆さんの保存・維持活動が優れていたからだと思い、これまでどんな保存活動をなされていたか、関連する資料が残されていないかを取材したかったのです。それには、ぶっつけ本番の訪問では到底無理と思い、池田町役場へ事前の相談の電話を掛けました。

町役場へ電話して、100年前に群馬から池田町へ譲り渡された祭礼の曳山のことで調べたいと用件を伝えたところ、電話応対をしてくれた職員さんが、文化財的な事柄と解釈なされたのか、教育委員会へ電話を廻してくれました。代わって応対に出てくれた教育委員会の職員さんが、後で知ったのですが、幸いにも町の祭礼に詳しい関係者さんや池田町各町の公民館の責任者さんと面識が有る方でしたので、それらの方々へ管理者の訪問目的などを伝えて下さって、当日の面会の段取りを付けてくださいましたので、祭礼当日の多忙の中、スムースな面会が出来、祭り情報収集が予期した以上に出来ました。

そして、この応対をしてくれた教育委員会の職員さんが祭礼の関係資料や、祭礼時には多忙が予想されるので、合う時間が取れないだろうという公民館さんからは事前に資料を貰われて、祭り前に管理者に送付下さったので、管理者の事前勉強に大変、役立ちました。 又、池田町のゼンリン市街地図をお送り下さったので、管理者が最初に参拝を希望した八幡神社が役場の隣であることや、各町の公民館の場所も事前に知ることが出来て大変助かりました。池田町へのアプローチ方法についてもご助言を頂き、電車であれば明科経由が時間的に有利なことなどを教えて頂き、真に助かりました。


祭神を祀る八幡神社は町役場の南隣に位置し、この朝、境内は屋台店の組み立て作業の人達で賑やかでした。拡声器からは祭り音頭の歌声が、小雨曇を吹き飛ばさんかの勢いで、境内中に鳴り響いておりました。豪華な屋根に覆われた相撲の土俵は立派でしたし、境内には8台の舞台を収納する8棟の舞台蔵(クリックしますと蔵の画面にリンクします。画面の左上隅の戻る(←)で、このページへお戻り下さい)が横一列に並んでおりました。

朝、7時半に各町の年番全員は神社の収納倉の前に集合。倉から引き出した舞台を各町の年番達が自町の公民館前まで曳いて行き、舞台の飾り付けを致します。境内には祭典二日目の24日に曳き出される車輪の台座と骨格の柱が斜めに取り付けられた飾りつけ前のお舟が待機してました。

池田町の小林三郎氏のお話しですと、八幡神社は池田地域の産土神(うぶすなかみ)として祭祀されており、三百数十年前の江戸初期に草創された誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とする神社です。

豊町にあった"土の神"の埴安比売之命(はにやすひめのみこと)を祭神とする十二神社が、明治41年に、政府の一町村一神社を目指す神社合併策で、八幡神社に合祀され、八幡神社の相殿となってますので、今の八幡神社祭典は八幡神社と十二神社の祭礼とも云えるのです。合祀される以前は、二社は別々の祭礼を行っていたので、なかでも十二神社は農耕の神であり、十二神社の祭りは豊作を祈願する氏子農民の祭りであり、祭りは盛大であったと想像できます。


八幡神社祭典は、本来、ふたつの神社の祭礼だったのだ

池田町教育委員会発行の「池田町の文化財・第3号」(2003・1発行)に、池田町の神社祭礼と舞台について、「池田の舞台(山車)」のタイトルで、次の記述があります。記述通りをそのまま引用します。

『池田八幡神社には、八幡神社と共に十二神社が祀られている。これは明治41年の神社合併により、豊町にあった十二神社を合祀したもので、9月23・24日を十二神社、同月24・25日を八幡神社の祭礼とした。十二神社の祭日には、町内の舞台8台が曳かれ、八幡神社の祭日には2艘の舟曳きと奉納相撲がなされてきた。

その後祭日を9月23・24日の二日とし、23日の宵祭りに舞台曳き、24日の昼祭りには舟曳きと奉納相撲がなされるようになり今日に及んでいる。今では舞台曳きが十二神社の出し物であることが忘れられ、八幡神社の出し物と思っている人が多くなっているようである。

宵祭りに曳かれる8台の舞台はなかなか見事であり、近隣には例が見られない。きらびやかな幕などで飾られ、提灯に灯をともした8台の舞台が八幡神社の境内に集まり、舞台の上で小中学生により囃子が奏され、舞台から乗り出した若衆の掛け声がかかると祭りは最高潮に達する。

舞台は元は2台だけで、2・3・4丁目(上町)と、一丁目・吾妻町・豊町(下町)で曳いていたのだという。現在は各町内毎に一台備え8台になっている』

と、解説してます。

この記述の最後の部分にある"舞台は元は〜"の"元は"とは、何時ごろの年代を指すのか不明ですが、「2・3・4丁目(上町)と、一丁目・吾妻町・豊町(下町)」の2台の舞台は、前者は上町(わでまち)の舞台、後者は横町(よこちょう)の舞台と呼称していたそうです。

小林三郎氏は、十二神社の祭礼の舞台の呼び名が初めて出て来たのは、江戸期の明和6年(1770)の記述に、"舞台引きに付き、氏子85人方の内15人方が麻の上下着用し警固に付く"とあり、今から239年も前に、池田には簡単構造の舞台の存在が思考されると、話されております。記述の中の"警固"に付くとは、八幡神社と十二神社の祭礼が一日違いの為、毎年の様に口論から喧嘩となるので、庄屋や役人が警固に付いたとのことです。

池田町の祭礼を観て、他所では見られない池田町独特の祭典運営を知って、管理者は驚きました。それは「同義会と祭典旗」の存在です。小林氏のお話ですと、江戸期から明治期頃、祭典時の喧嘩が絶えないため、同義会を設立し、祭典旗を敬い祭礼を執り行う思考が生まれた。十二神社舞台曳行は、総年番長・同義会委員長・各町年番長・各町同義会委員などで執り行う。八幡神社舟曳行は、同義会委員長・各町同義会委員が管理する。相撲は勧進元、現在は氏子総代が任を執るなど、徹底した運営管理を行っていた様子が伺えました。その流れは今でもしっかりと池田町に引き継がれておると、町の皆さんは話されておりました。

祭典旗は祭典執行に於いて、絶対に権威あるものに付き、何人と云えども、会員なるものは祭典旗より先に出てはならぬ。舞台曳行及び舟曳行は、いかなる場合でも祭典旗が先頭に立つ。いかなる場合でも、同義会員は祭典旗を追い越してはならぬ。今年の祭典では、祭典旗は本町五丁目が執行してます。23日午前11時20分、五丁目広場に五丁目同義会委員全員集合。11時50分、五丁目広場出発。祭典旗を捧げる旗手の後を同義会委員が従う。
小林三郎氏からお聞きしたのですが、総年番は一年交代で、今年平成21年が五丁目、来年が四丁目、再来年が三丁目となり、舞台の曳行の逆巡番で交代しますので、今年担当した五丁目は8年後に、又担当となります。


9月23日(水・祝)「祭典旗と舞台の曳行順路」図をご覧下さい。図の右上に五丁目広場(A)から、11時50分 祭典旗が出発。県道大町明科線を南下し、四丁目、三丁目、二丁目、東町、吾妻、一丁目、豊と、8町を廻り八幡神社拝殿へ進み、祭神に拝謁します。巡行する祭典旗が各町に到着すると、同義会の半纏を着た若衆は順路道筋に並び、同義会の名称を連呼して、旗を送迎します。祭典旗の歓送が済むと、各町の舞台はそれぞれ町内回りに出発します。各町の舞台は一回目の祭典旗通過後から、二回目の通過前までに、町内廻りを行うことになります。

午後、二回目の祭典旗の巡行は、午前の一回目とは意味合いが違い、祭礼初日の祭りメイン行事である宵祭りの全町の舞台の隊列巡行を指揮するものです。

曳行順路図の左上の豊町(B)を15時50分に出発した祭典旗と同義会委員の隊列の後を追う形で豊町の舞台が巡行を開始します。県道大町・明科線に入った祭典旗一行は、16時10分、一丁目に到着。16時20分、祭典旗一行出発。豊町舞台の後に一丁目舞台が従う。県道筋にない吾妻町の舞台は北安タクシーの角で待機し、祭典旗一行が通過したら、その後に従って巡行を開始する。

東町の舞台も県道脇で待機し、祭典旗一行の通過後、一行に続いて巡行開始。祭典旗と舞台の隊列は県道大町・明科線を真っ直ぐ北上する形で、途中で二丁目、三丁目、四丁目の舞台を後に従えて、17時40分に五丁目に到着する。管理者はこの二回目の祭典旗の行進を二丁目交差点で観ました。二丁目交差点には二丁目の舞台と二丁目同義会の会員が待機して、先頭の祭典旗の到着を迎えます。その時の様子をビデオでご覧下さい。同義会委員が独特の節廻しで合唱する歌も聞いて下さい。上の「祭典旗の到着」をクリックしますと、ビデオ画像が出ます。プレイヤーの右上の×で、お戻り下さい。

この後、提灯の点灯、及び夕食と休憩の後、五丁目発18時10分、八幡神社へ向け出発。宵祭りの舞台の隊列巡行が再開された。

ここまでの記述は、「八幡神社祭典行事日程 第1日目」の内容を読み、道案内で神社まで同行して下さった三丁目のヘアサロン・白馬の田中さんのお話しを聞いて、この日程通りの運行管理がなされているとの前提で、宵山巡行の様子を再現しました。
上の「日程表」をクリックし、表示された日程表画像の上にマウスを乗せると、中に+の付いた○が現れますから、画像をクリックしますと拡大します。左上隅の戻る(←)で、このページへお戻り下さい。

実際に管理者が宵祭りの巡行を観覧したのは、県道大町・明科線の二丁目交差点で、二丁目舞台が隊列に加わるところと、本町三丁目のヘアサロン・白馬さんの前で、神社に向かう8台の通過を鑑賞し、その後、八幡神社に移って、祭典旗が拝殿に到着して、巫女の祓いを受けた場面から、8台の舞台が横に整列を終わるまでを観覧しました。管理者が実際に鑑賞した場面は、静止画像とビデオ画像で、このホームページの中でご紹介します。

八幡神社祭典で曳行される8台の舞台の紹介です

曳行隊列番号・舞台の町名

御神像

@ 豊 町(ゆたかちょう、横町)

三番叟

A 本町一丁目(ほんちょういっちょうめ、下町)

神武天皇

B 吾妻町(あずまちょう)

御 幣

C 東 町(ひがしまち)

御 幣

D 本町二丁目(ほんちょうにちょうめ、中町)

加藤清正

E 本町三丁目(ほんちょうさんちょうめ、上 町・わでまち)

弁才天

F 本町四丁目(ほんちょうよんちょうめ、安良町・あらまち)

大黒天

G 本町五丁目(ほんちょうごちょうめ、新 町・しんまち)

楠木正成

舞台町名をクリックしますと、舞台の画像にリンクします。
左上隅の←(戻る)で、このページにお戻り下さい。

曳行順路図の左上の豊町(B)を15時50分に出発した祭典旗と同義会委員の隊列の後を追う形で豊町の舞台が巡行を開始します。県道大町・明科線に入った祭典旗一行は、16時10分、一丁目に到着。16時20分、祭典旗一行出発。豊町舞台の後に一丁目舞台が従う。県道筋にない吾妻町の舞台は北安タクシーの角で待機し、祭典旗一行が通過したら、その後に従って巡行を開始する。

東町の舞台も県道脇で待機し、祭典旗一行の通過後、一行に続いて巡行開始。祭典旗と舞台の隊列は県道大町・明科線を真っ直ぐ北上する形で、途中で二丁目、三丁目、四丁目の舞台を後に従えて、17時40分に五丁目に到着する。この巡行の様子をビデオ画像に撮りましたので、ご覧下さい。


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20分

豊町を16時前に出発した祭典旗と同義会委員の隊列の後を、
豊町、本町一丁目、吾妻、東、本町二丁目、三丁目と続き、五丁目
でUターンして、四丁目、五丁目も加わり、八幡神社へ向かう夜の舞台の巡行の様子をビデオでご覧下さい。右のバナーをクリックして下さい。



〜祭礼二日目は、"お舟の曳き廻し" 〜です

神社の彫刻に造詣の深い小林三郎氏より頂戴した資料に拠りますと、八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、社殿には八幡神社の相殿(あいどの)として九頭竜神(くずりゅうじん)を祀っていたが、明治41年(1908)に相殿の祭神の九頭竜神(くずりゅうじん)を合祀し、誉田別命(ほんだわけのみこと)は産業の神、産土神(うぶすなかみ)として、又、九頭竜神(くずりゅうじん)は水の神、農耕の神として広く池田町民に敬われております。
社殿にはそれまで八幡神社の相殿として九頭竜神(くずりゅうじん)を祀っていたが、九頭竜神を八幡神社に合祀して、十二神社を相殿に迎い入れ、現在に至っております。十二神社の祭神は土の神、埴安比売之命(はにやすひめのみこと)です。本来、お舟は八幡神社の祭礼の曳きもので、舞台は十二神社の曳きものでしたが、お舟と舞台は今では八幡神社の祭礼の曳きものとして、一緒に語られるのが普通になっております。八幡神社の祭典の初日の23日は舞台曳き、二日目の24日は舟曳きとなっております。


<祭典旗と舟の曳行時間>
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前日23日は午後11時近くまで、八幡神社境内は、横一列に整列した舞台がライトに浮かび上がり、叩き合いの笛、太鼓の音、そして囃子衆の歓声が行き交う中、八台の舞台の前で同議会の法被を着た各町の若者、100数十名が円陣を組んで、尻取り風に唄う歌声が境内に大きくこだまするという、曳山祭り独特の宴の喧騒さは、町の人達に新たな感動を与え、家路へと向かわせたことでしょう。

そして、前夜の疲れは何のその、朝6時半、宿泊旅館を飛び出して、神社へ急ぎました。曇天小雨の昨日の天気が嘘の様に、朝から強い日差しが注ぐ、前夜の喧騒さが嘘の様に静まり返っていた境内の鳥居の脇に、既に2艘の舟が待機してました。


下の画像は、祭り初日の朝、池田町入りして、直ぐに参拝した八幡神社の境内に駐機していた組み立て前の2艘の舟を撮影したものです。この2艘はその後、組み立てられて翌日24日の朝の出発まで待機していたのです。小林三郎氏のお話ですと、台輪・台座の四隅の上に四本の角柱を立てて、お囃子衆が乗る囃子座の床を作る。台座の前後にそれぞれ丸2本柱、計4本を斜めに取り付け、幕と松で飾る。前輪は小型2輪、後輪は大型2輪の御所車、前で舵取り、後でブレーキ操作。


<祭典旗と舟の順路>祭典二日目のお舟の巡行経路を今年の総年番五丁目刊行の冊子「八幡神社祭典」(クリックして下さい)の中の行事日程(第2日目)をコピーして、左図にご紹介します。  画像をクリックし、表示される画像にマウスを乗せ、中に+の付いた○が出たら、再度クリックします。2倍に拡大します。左上隅の戻る(←)で、このページへお戻り下さい。

<祭典旗と舟の曳行時間>(クリックしてください)にあります様に、午前7時20分に舟の出発前のお祓い式が行われ、拝殿で出発の礼拝を済ませた祭典旗を先頭に、午前7時半、舟の曳行が開始されました。陽光が眩い快晴な朝でした。

上(四町)舟

下(四町)舟


今年、平成21年の上舟町は本町二丁目
です。来年は五丁目で、四、三、二丁目
の順番で舟曳きを担当します。
この四町を上四町と呼びます。


今年、平成21年の下舟町は豊町です。来年
は東町で、吾妻町、本町一丁目、豊町
の順番で舟曳きを担当します。
この四町を下四町と呼びます。


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24日、朝7時半、八幡神社の拝殿に詣でた祭典旗の後に続いて、上舟の二丁目が笛・太鼓の軽快なお囃子を響かせながら八幡神社を出発し、続いて下舟の豊町が同様に囃子を響かせ元気に出発しました。その出発の様子をビデオ撮影しておりましたので、ご視聴下さい。お舟が出発した後、県道大町・明科線の"べんべん"の角を東町に進んだ付近で、お舟の曳行を撮影した場面迄の短いビデオです。尚、当日朝は、前日の曇天小雨が嘘の様な晴天で日射が強く、カメラのブライト調整が悪く、画面が白っぽくなってますが、ご了承下さい。右のバナーをクリックして下さい。


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