平成19年桐生祗園祭 鉾巡行、曳き違いは、8月4日午後6時25分から開始です。先ずは、神社奉納の尺八演奏の後、四丁目の佐々木町会長の挨拶、組み頭の木遣朗詠が流れる中、本町通りを北に向って、いよいよ四丁目鉾の巡行開始です。同じ時刻に、本町通を南に向って三丁目の翁鉾も巡行を開始した筈です。四丁目鉾は大太鼓が一基、小太鼓が五基に、篠笛が一本、鉦がひとつの囃子衆の陣構えで、鉾の下座両側の外欄間には丸提灯が一列に提げられ、夜陰の中、鉾の屋根の上の露台、素戔鳴命の乗る三味線胴はフットライトに浮き上がって、お囃子のなかを曳かれ行く鉾の幽玄な眺めは観客を魅了してやみません。あーとほーる鉾座前の交差点に差しかかると、鉾は停止しました。鉾巡行の見栄場面となる鉾の大回転が行われます。鉾が停止した位置で、ひとまわり360度の回転をするのです。重量10d近い鉾を廻すのですから、熟練と慎重な作業が要求されます。鉾の方向転換を行う時は、梃子棒(てこぼう)で鉾の車輪を持ち上げてから、台座(土台)から 10センチ角の樫材の心棒を降ろし、梃子棒を外して、浮いた状態になった鉾を、心棒を中心にして回転させて、鉾の向きを変えるのです。
鉾の人形の乗る三味線胴は下に降ろされ露台のなかにスッポリ収納されますが、それでも高さが6メートル近くもありますので、回転操作を誤れば鉾の転倒の危険もあります。この最初の停止してから大回り前の台座の下の作業が予測より長い時間が掛った感じがしました。とにかく、慎重に安全が要求される難しい回転作業です。
鉾の四つの車輪が浮いた状態になると、鉾が水平になるように法被姿の若衆十数人が台座を抱えるようにして、時計廻りにゆっくりと押しますと、鉾は少しずつ回転を始めました。そして、巨体の鉾が最初の位置に戻ると、鉾の周囲を囲むように息を呑んで見詰めていた観客から、大きな拍手が起こりました。私も思わずカメラを持つ手を外して、拍手をいたしました。台座の下の心棒を元に戻し、露台に収納した三味線胴と人形が元に戻されて、鉾は巡行を再開しました。
100メートルほどの短い距離を進んで鉾は停止しました。ここで三丁目の翁鉾の到着を待ちます。四丁目鉾の巡行の指揮を執る奈良彰一氏の熱気のこもった声が響きます。「三丁目の翁鉾が四丁目に入りました。まもなく翁鉾の到着です!」のアナウンスで、その方向を観ると、背の高い品のよい貴婦人の雰囲気を醸し出す翁鉾ががゆっくりした歩みで、こちらへ向って来ます。二層四方幕の四隅と翁像を囲むボンボリ型提灯が鉾の優雅さを一層、際立てております。降臨する祭神を迎える依り代として、品格と優美さ保つ翁鉾の造形美に、うっとりと魅せられてしまった瞬間です。桐生祗園祭の真髄と呼ばれる2基の巨大鉾の出会い、共演!そして曳き別れの時、午後7時20分が近づいてきました。下の★印へと続きます。
当番町について |
桐生祇園祭の真髄と呼ばれる鉾の曳き違いは、"当番町"が三丁目か四丁目の時に、その実現の可能性があります。ここで、桐生祇園祭の当番町についてご説明します。既にご存知の様に、桐生市本町は 壱、弐、三、四、五、六 の6つの丁目に分かれております。それぞれの呼び方は壱丁目とか、三丁目とか、と呼びますが、山車、鉾の扁額や法被などの表記は、第壱街、第三街となっております。 毎年の祇園祭(明治の初め迄は天王祭)は、この六丁が順番で、当番町(丁)を勤めます。当番町は屋台を出します。三丁目と四丁目は屋台の外、鉾もあります。 次ぎの表は、平成12年以降の当番町(当番丁)の一覧表です。神仏分離で、八坂神社の祭りとなった後も、天王番と呼んでいたので、今でも天王番と呼ぶひとが多い様です。今年の曳き違いのセレモンーでも、四丁目の会長さんが挨拶の中で、"天王番"と云ってました。 又、この四丁目の会長さんは、同じ挨拶の中で、今年の平成19年の年番町は四丁目ですが、天王祭礼時代を含めて、丁度、249番目の年番町になると、話しておりました。とにかく桐生祗園祭は歴史のある祭礼だな、と思いましたし、その様なしっかりした記録も残っていることも凄いなぁ、と感心しました。 |
当番町 | 平成12年(2000) | 平成13年(2001) | 平成14年(2002) | 平成15年(2003) | 平成16年(2004) | 平成17(2005)年 | 平成18年(2006) |
本町○丁目 | 三丁目 "鉾" | 四丁目 "鉾" | 五丁目 | 六丁目 | 壱丁目 | 弐丁目 | 三丁目 "鉾" |
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当番町 | 平19年(2007) | 平成20年(2008) | 平成21年(2009) | 平成22年(2010) | 平成23年(2011) | 平成24年(2012) | 平成25年(2013) |
丁目 | 四丁目 "鉾" | 五丁目 | 六丁目 | 壱丁目 | 弐丁目 | 三丁目 | 四丁目 |
当番町表の年号欄がアクア色(藍緑色)の平成12年、18年、19年は三、四丁目とも鉾が出場してますので、鉾の曳き違いが実現されました。平成12年に四丁目の鉾座が竣工・オープンしたのでその記念で、当番町ではなかった四丁目が、鉾を特別に出場させたのです。来年、平成20年以降で、次ぎの鉾が出場するのは、この当番表の通りであれば、当番町が三丁目となる平成24年(2012)の年となります。
この平成12年8月6日の両鉾の曳き違いを地元紙、桐生タイムスは一面トップ、しかも大きい写真入りで揃い踏みの様子を報道しておりました。<「"百二十五年の"夢"、ここにかなう・・」そろい踏みするのは、1895年(明治28年)以来実に105年ぶり。曳き違いについては祇園祭の記録にないということから、現存するこの2基が完成して以来、125年の時を経て、初めて曳き違ったことになる>と、熱っぽく報道しておりました。
この画像は、平成12年8月7日の桐生タイムスの一面記事に掲載された2基の鉾の曳き違いの場面の画像です。桐生タイムスさんより提供です。ご協力に感謝します。画像手前後ろ姿は翁鉾、奥のこちら向きが四丁目鉾。 |
上の★印からの続きです。
2基の鉾の囃子衆が競い合うお囃子「やっしゃ(八っ社)」の叩き合い |
「只今、三丁目の翁鉾の到着です!拍手でもってお迎え下さい!」と、奈良彰一氏の興奮気味のアナウンスが流れた時は、翁鉾本体が30メートル先に迫って来てます。既に、曳き綱の先頭を歩く祭り浴衣姿の三丁目の役員が、四丁目の役員と腰を折っての慇懃な挨拶が交わされてます。迎える四丁目の鉾の囃子衆は、一段とバチさばきが大きくなり、笛や鉦衆の調子をとる腕の振れも大きくなって、叩き合いはもう、始まってます。
向かい合う2基の鉾の間で、鉾曳き違いのセレモニーが始まりました。奈良彰一氏の司会で、四丁目の佐々木町会長の挨拶。要旨は、昨年、年番町であった三丁目さんからの要請で、四丁目も鉾を出場したそのお返しで、今年は三番町さんへ翁鉾の特別出場をお願いしたところ、快諾戴いて、今日の鉾の曳き違いが実現したのだとの、報告がありました。希望は、6年に1回の年番を待たずに、毎年は無理としても、少なくとも隔年の鉾、屋台の出場を確保下さるように、惣六町の皆様へお願いしたいのです。そうなれば、桐生祗園祭の独立開催も検討されるものと、信じます。 三丁目町会長の挨拶、市長の挨拶でセレモニーは終了し、お囃子曲"八っ社"で、叩き合いが始まりました。四丁目鉾の露台の左右の2名、正面左右の向拝柱(ごはいばしら)脇の2名の法被、祭り浴衣姿の煽り人が、扇子を大きく左右前後に打つ振る。双方とも負けじと囃子の叩き合いが続くうち、司会者の"勝負あった!"の掛け声が響いて、四丁目の勝ちが宣告されると同時に、観客の拍手の中、巡行の再開が告げられました。 四丁目鉾は三丁目の翁蔵へと進みます。途中、奈良彰一氏の解説で、今、鉾が通り過ぎる祭り"四手"が張られた場所は、明治末に美和神社に合祀される迄、祀られていた「八坂神社」の跡地であるとアナウンスがあり、市営アパートの前で、鉾は一時停止し、黙祷の後、巡行を再開した。桐生祗園祭の祭神を敬うという、祭事に携わる者としての心配りに敬意を感じた次第です。祭りの表面だけを追うのでなく、その奥を極めるという精神は真似たいと思いました。 翁蔵前で、今度は半回転、180度の回転をして、四:丁目鉾は、今来た本町通を南に向って、巡行を再開しました。同じころ、三丁目翁鉾は鉾座の前で半回転し、二度目の曳き違い場所の東和銀行前へ向っておるところであろう。
鉾巡行と曳き違いの場面をビデオでご覧下さい! | |
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