桐生と江戸、京都との間の人と物の往来で、京や江戸の先進の生活文化が、桐生の地にももたらされたことは、容易に想像できます。江戸期はじめの明歴2年(1656)には神仏習合の牛頭天王を祭る天王祭を行っていた記録が残っており、頻繁に絹市場が開かれ、元禄2年(1689)には本町三丁目に市神社が造営され、市神社の祭りと衆生院の天王祭礼を一緒に行ってから一気に賑わう「天王祭礼」になったそうです。附け祭りと云って山車や屋台の上に"なまず"や"牛若丸"など様々な飾り物を乗せたり、狂言などの芸能を楽しむようになりました。当初は中型程度でしたが、徐々に大型化しました。そして安政元年(1854)に、四丁目が巨大屋台を完成させた事により、安政6年(1859)には三丁目と五丁目が、そして一、二、六丁目も続き全六台の祭礼屋台が揃ったのです。
尚、同じ江戸期の文久2年(1862)に、三丁目は翁鉾と呼ぶ今も現存する山車を完成させております。三丁目が屋台と山車を一緒に所有できたということは、地場産業の織物業が盛んで、祭りを支援する篤志家が多く居たということでしょう。ひとつの町が複数の祭礼曳きものを持つということは、江戸の町を含め、他の町村にはあまり例がないことで、当時の桐生の財力の莫大さが想像できます。
江戸時代は勿論、明治以降になっても、織物業は繁盛し、仲買商人達は得た富を地元の祭礼行事にも役立て、豪華な祭礼曳きものを今に残してくれました。そのひとつが、明治8年(1875)に、桐生四丁目で買い継ぎ商を営んでいた豪商、磯部庄七が51才の時、趣向を凝らして豪華な鉾に、仕立てたものが、本町四丁目の鉾です。豪商の後見もあって、京都祇園の鉾にも匹敵する豪華で贅沢な仕様を備えた、関東一円でも最大の曳きものが誕生したのも、不思議ではなかったと思います。
美和神社の神輿蔵の掲示板の記述にありますように、明治になり神仏分離で、天王祭礼は八坂神社(旧衆生院)の祭礼の「八坂祭典」となり、江戸期と同じように、惣六町の鉾や屋台の巡行が桐生の街を賑わしておりましたが、明治末期頃から大正期、昭和期になると道路事情で巨大な鉾や屋台の巡行、曳き違いが難しくなり、八坂祭典附け祭りとしての鉾と屋台の出番が少なくなって、次第に八坂祭典の衰退が始まったのは、止む得ないことだったと、思います。
しかし、四丁目の奈良彰一氏をはじめとする桐生の天王祭、八坂祭典を研究してきた諸兄各位の発起で、平成元年に四丁目屋台が復活の旗を揚げ、平成6年には「桐生祇園祭」と改名。その翌年平成7年から一気に祇園祭が復活したのです。その間、四丁目鉾の巡行、三、四丁目の鉾の曳き違い、本町各街の屋台の巡行・展示、鉾座そして翁蔵の建設など着々と進化しています。
「桐生祗園・鉾・屋台、からくり人形の紹介リーフレット」(奈良彰一氏監修)参照。
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