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桐生市八坂神社例大祭"桐生祗園祭"見聞録

 平成19年8月4日、群馬県桐生市の八坂神社例大祭"桐生祇園祭"を見聞しました。8月4日、午後4時過ぎのJR桐生駅着の電車で、桐生入りしました。桐生祗園祭の鉾巡行は、4日の午後6時半開始ですので、それまでの間、先に桐生祗園祭の祭神である八坂神社を訪ねることにしました。但し、この日に訪問したのは八坂神社が合祀されている美和神社です。私が美和神社を知る経緯をお話しますと、桐生の祭礼に造詣の深い本町4丁目で書肆画廊を営む奈良彰一氏からお話しを伺っていたからです。

(左画像)美和神社正面。(右画像)神輿蔵と蔵脇の掲示板。

桐生の山の手と呼ばれる桐ヶ丘公園の隣接する静かな杜のなかに美和神社があり、その境内の北西隅に「八坂神社・神輿蔵」の扁額を掲げた神輿蔵がありました。そして、蔵の脇に掲示板が立てられておりました。木目も新しい掲示板で、書かれた説明文字も鮮明ですので、最近建て替えられものと思いました。掲示板の説明の中で、合祀の部分の要旨は、本町三丁目の地で永く厄除け神として祀られてきた牛頭天王(ごずてんのう)を祭神とした衆生院(しゅじょういん)は、神仏分離で明治3年に廃時となり、八坂神社と改名された。これを機会に「天王祭礼」は、「八坂祭礼」すなわち八坂祗園祭に移行した。そして、その本町三丁目の八坂神社そのものが、明治41年に美和神社に合祀され、美和神社の神域に神輿蔵のみ建造し、今に至っている、というものでした。

(左画像)神輿蔵脇の掲示板。(右画像)神輿蔵の扁額。

桐生祇園祭について、神輿蔵脇の掲示板の記述をそのまま載せます。

「八坂神社を祀る桐生祇園祭の歴史は古く、明暦二年(1656)を起源とした祭礼である。祇園祭は元来、天王祭礼とも云い、仏教の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を祭神に厄除け神として、京都祇園社に祀ったことにより全国に広まった神仏習合の祭りである。
桐生市本町(ほんちょう)三丁目の地(現、市営アパート)に衆生院(しゅうじょういん)という寺があった。元禄二年(1689)に市神(いちがみ)、牛頭天王社を造営したことにより、子供の手踊りが中心の素朴な祭りも徐々に賑わうようになった。元文三年(1738年)には衆生院の境内に神輿(みこし)蔵を造営し、それまで本町四丁目の伊勢屋に借置きしていた神輿を移したことにより本格的な祭礼の形が整ったのである。

その後、江戸中期になると祭礼屋台も造られ、各町思い思いの出し物で人を楽しませるようになった。主に狂言や練り物、曳き物などで競ったのである。江戸後期、安政の頃になると、惣六町(本町の六町会)では大型の祇園屋台を建造し、夜通し歌舞音曲で賑わったため、「関東の三大祭り」と呼ばれた所以である。 明治維新が実現し、神仏分離の布告が出されると、仏教の守護神である牛頭天王の神号は廃止され、素盞鳴命(スサノオノミコト)としたのである。

また、京都の祇園社が八坂神社と改めたため、八坂神社の社名が全国に広まった。桐生では明治三年に衆生院が廃寺となり、八坂神社と改名した。それまで天王祭礼と呼んでいた祭りは、これを機会に八坂祭典と正式に決めたのである。しかし、三丁目の地は明治十一年に山田郡警察署が新築されたため手狭になった。明治四十年には恵比寿新道が完成。明治四十一年七月十五日、末社と共に美和神社に合祀され、神輿蔵のみ建造し今日に至っている。 八坂祭典の名称は平成六年(1994)より桐生祇園祭と改めた。尚、安置されている神輿は五代目として平成十三年年八月完成した」

平成十七年八月吉日  桐生祇園祭   惣六町並びに横山町

桐生祗園祭の由来と現状

今も日本の各地のどこかで、毎日のように、祭りが行われてます。なかでも"祇園祭り"と名の付くお祭りが多いです。これら日本各地で行われている祭りは、毎年7月に行われる京都祇園祭りの地方版、と云ってもよいかも知れません。心のふるさと、日本人の京都との関わりの深さを感じさせます。

京都八坂神社の由緒を見ますと、八坂神社祇園祭の生い立ちが解説されております。その一部分を抜粋します。

「八坂神社の歴史は、平安建都の約150年前の斉明天皇2年(656)が、素盞鳴命(スサノヲノミコト)の神霊を京のこの地に祀ったことにはじまります。のちに、神仏習合思想により、素盞鳴命は祇園精舎の守護神、牛頭(ごず)天王と一体視されました。日本神話でも知られるように、素盞鳴命は、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコト(櫛名田比売命)を救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。
都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。八坂神社はながらく、「祇園社」「祇園感神院」などと称しましたが、神仏分離にともなって、明治4年(1871)「八坂神社」と改称しました」。 

次に、桐生の街を紹介します。 桐生市は北関東の織物の"まち"として、発展してきました。鎌倉時代の始め頃から、10代に渡ってこの地を治めた領主は桐生氏でした。桐生氏の中興の祖と呼ばれた桐生国綱が初めてこの地に築城し、領土を拡張し、よく民を治め、織物を奨励したのが、機織地としての興りであったそうです。

天正元年(1573年)桐生氏から、徳川の治世下になってからも、桐生は絹市の開始もあり、機業技術の革新と進歩で、益々繁盛した織物業で、桐生の町は都市形態も整えられ、次第に産業都市へと発展した。結果、絹織物では、京都西陣と肩を並べる迄にもなったのです。

「桐生市郷土読本」(昭和14年3月15日発行 桐生市教育会 編纂兼発行)参照。

桐生と江戸、京都との間の人と物の往来で、京や江戸の先進の生活文化が、桐生の地にももたらされたことは、容易に想像できます。江戸期はじめの明歴2年(1656)には神仏習合の牛頭天王を祭る天王祭を行っていた記録が残っており、頻繁に絹市場が開かれ、元禄2年(1689)には本町三丁目に市神社が造営され、市神社の祭りと衆生院の天王祭礼を一緒に行ってから一気に賑わう「天王祭礼」になったそうです。

附け祭りと云って山車や屋台の上に"なまず"や"牛若丸"など様々な飾り物を乗せたり、狂言などの芸能を楽しむようになりました。当初は中型程度でしたが、徐々に大型化しました。そして安政元年(1854)に、四丁目が巨大屋台を完成させた事により、安政6年(1859)には三丁目と五丁目が、そして一、二、六丁目も続き全六台の祭礼屋台が揃ったのです。

尚、同じ江戸期の文久2年(1862)に、三丁目は翁鉾と呼ぶ今も現存する山車を完成させております。三丁目が屋台と山車を一緒に所有できたということは、地場産業の織物業が盛んで、祭りを支援する篤志家が多く居たということでしょう。ひとつの町が複数の祭礼曳きものを持つということは、江戸の町を含め、他の町村にはあまり例がないことで、当時の桐生の財力の莫大さが想像できます。

江戸時代は勿論、明治以降になっても、織物業は繁盛し、仲買商人達は得た富を地元の祭礼行事にも役立て、豪華な祭礼曳きものを今に残してくれました。そのひとつが、明治8年(1875)に、桐生四丁目で買い継ぎ商を営んでいた豪商、磯部庄七が51才の時、趣向を凝らして豪華な鉾に、仕立てたものが、本町四丁目の鉾です。豪商の後見もあって、京都祇園の鉾にも匹敵する豪華で贅沢な仕様を備えた、関東一円でも最大の曳きものが誕生したのも、不思議ではなかったと思います。

美和神社の神輿蔵の掲示板の記述にありますように、明治になり神仏分離で、天王祭礼は八坂神社(旧衆生院)の祭礼の「八坂祭典」となり、江戸期と同じように、惣六町の鉾や屋台の巡行が桐生の街を賑わしておりましたが、明治末期頃から大正期、昭和期になると道路事情で巨大な鉾や屋台の巡行、曳き違いが難しくなり、八坂祭典附け祭りとしての鉾と屋台の出番が少なくなって、次第に八坂祭典の衰退が始まったのは、止む得ないことだったと、思います。

しかし、四丁目の奈良彰一氏をはじめとする桐生の天王祭、八坂祭典を研究してきた諸兄各位の発起で、平成元年に四丁目屋台が復活の旗を揚げ、平成6年には「桐生祇園祭」と改名。その翌年平成7年から一気に祇園祭が復活したのです。その間、四丁目鉾の巡行、三、四丁目の鉾の曳き違い、本町各街の屋台の巡行・展示、鉾座そして翁蔵の建設など着々と進化しています。

「桐生祗園・鉾・屋台、からくり人形の紹介リーフレット」(奈良彰一氏監修)参照。

桐生八木節まつり、祇園祭の協賛イベント会場案内図

毎年8月初旬に桐生市中心街で行われる祭りの名称は「桐生八木節まつり」です。桐生祗園祭の名称ではありません。今年の祭りリーフレットに「第44回」と書かれてますから、西暦1963年つまり昭和38年頃から、市の支援や商工会などの協賛を得て、春の商工祭、夏の祇園祭・七夕祭・秋の桐生祭その他地域の祭礼などをまとめて、毎年開催の統一された祭りの体裁が整ったということです。

左の画像は平成19年のリーフレットです。背景は四丁目の鉾と八木節の舞台櫓で、桐生祗園の縦四文字が添えられてます。

祭りの名称は「桐生まつり」でしたが、その後、昭和63年に「桐生八木節まつり」と改称されてます(参照:桐生市ホームページ・桐生八木節まつり)。この名称の変更は、我々祇園祭を愛するものにとっては、痛恨の一大事でした。

美和神社境内の神輿蔵の掲示板で、<江戸後期、安政の頃になると、惣六町(本町の六町会)では大型の祇園屋台を建造し、夜通し歌舞音曲で賑わった>と、あります様に、桐生の「天王祭礼」は300年以上に渡って、江戸・東京の周辺に、その豪華さと規模の大きさを誇っていたのですが、街路の架線、看板、車の増加などや、鉾や屋台の維持管理の負担増などの支障が重なって出て来ていた反面、観るだけでなく、自分も参加したい、という大勢のひとが参加できる踊り中心の祭りへと市民の関心が移って行ったのは時代の流れでした。これは桐生市だけの現象ではありません。八坂祭典附け祭りとしての鉾と屋台の出番が少なくなって、次第に八坂祭典の衰退が始まったのは、止む得ないことだったと、思います。

一方、大正から昭和の30年代に掛けて、桐生の織物産業が隆盛期を迎え、全国各地との物流や文化の交流も当然、盛んになっておりました。そのような中、軽快なリズムの笛、太鼓に合わせて歌う「音頭取り」の歯切れのよい歌声の八木節は、織物の街、桐生のシンボルとして全国各地に知られ、桐生織物の全国拡販に大きな貢献をしたのでした。夏が近づくと、大人ばかりでなく子供も、近くの広場に即席の舞台を作り、竹や空き缶を楽器がわりにして、八木節を真似ていたということですから、八木節が桐生の幅広い市民に馴染み深いものになっていて、祭りの焦点が八木節になっていったのは無理からぬことでしょう。

(左画像)末広通りの八木節祭りの飾り付け。(右画像)本町4丁目の八木節演奏舞台の櫓。高さ10メートル近い櫓が通りの辻々に建てられます。
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 平成19年桐生の一大イベントのひとつである"桐生八木節まつり"が終わった翌日8月6日の読売新聞の群馬版に、「織物の町」の心意気伝える、と題した「桐生八木節まつり」のニュースコラムが掲載されておりました。群馬県民に親しまれている"上毛かるた"に「そろいの支度で八木節音頭」という句があります。新聞のコラムの書き出しは、<威勢の良い「上州八木節音頭」や「国定忠治」の歌声とともに、太鼓や笛、鉦が軽快に響く。そろいの法被と鉢巻で、赤など鮮やかな唐傘や菅笠を手にした踊り手が華を添える・・」桐生市中心部は、毎年八月初旬、「桐生八木節まつり」一色に染まる・・>と、紹介しております。

八木節の発祥地として知られる栃木県足利市に隣接する桐生市は、群馬でも八木節の盛んな街として知られてます。<桐生に八木節が広まったのは、織物産業が隆盛期だった大正時代。業者は全国各地で〈桐生織物を)宣伝する際、景気付けに八木節を披露。「桐生の織物と八木節がともに発展、全国に広まった・・>、と、新聞コラムは伝えております。


 


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