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青梅街道筋の居囃子、"粋で、いなせで、威勢のよいお囃子"


青梅市内で活躍する9つの囃子連が、街道筋に居囃子を設置して参加しています。山車町の囃子衆はそれぞれの囃子連を組織して、山車の巡行時のお囃子をしてます。仲町と滝之上町にはふたつの囃子連があるようですから、山車町だけで14の囃子連がある勘定になります。それ以外の9つの囃子連が大祭の青梅街道筋に居囃子を披露して、祭を盛り上げておりました。お詫びですが、師岡囃子連(おまつりマップの居囃子@)と友田町郷土芸能保存会(おまつりマップの居囃子G)のふたつの居囃子の画像は、管理者が撮り洩らしてしまい、この見聞録には掲載されておりませんので、ご了承ください。

居囃子の画像に添えてあります解説は、大祭リーフレットの「居囃子紹介」の内容をそのまま、掲載致しました。

駒木町囃子連・居囃子 マップA

二俣尾桃花連・居囃子 マップB


江戸時代から150年以上の活動。高い技能と威勢のよさを兼ね備えるお囃子が魅力。

明治15年頃、神田・山の手流座敷囃子を伝承。昔より桃源郷と云われ、二俣尾桃花連と名付ける。
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上長渕囃子連・居囃子 マップC

和田町囃子保存会・居囃子 マップD


以前は裏宿町の山車に乗っていた囃子連。設立から約40年。華やかで賑やかなお囃子が特徴。
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明治15年設立。一時途絶えるが、昭和期に復活。会員の年齢層は幅広く、お囃子も味わい深い。
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藤若囃子連・居囃子 マップE

下長渕囃子連・居囃子 マップF


大正7年設立。味のある絡みが特徴の船橋流の目黒囃子は、じっくりと聞いてみたい。
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青梅ではあまり見られない金杉流のお囃子と、神楽の所作を取り入れた舞は必見。
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河辺町囃子保存会・居囃子 マップH

囃粋会(そうすいかい)


御見せするのは明治後期より伝わる神田
囃子。若手とベテランの競演で河辺の囃
子を艶やかに演じます。
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駅頭で手渡された「青梅大祭」のリーフレットに、誠に粋な呼称の「青梅・囃粋会」の説明が載ってます。
「青梅大祭に参加する23の囃子連のうち、18団体が集まって結成されているのが『青梅・囃粋会』です。伝統芸能の継承は勿論、地域活性化のためのさまざまな活動も展開中。お祭をさらに盛り上げて行こうとの意気込みに燃えています。」と、説明がありますが、祭礼当日以外でもいろいろなイベントに参加なさって、青梅の山車囃子を演奏されているのだな、と想像しました。
青梅の皆さんは、ほんとにお祭好きなんだなぁ、と感心しました。

十二町の山車の"競り合い"、"ケンカ囃子"


毎年の大祭に二日目に、各町の山車は他町の祭典会所に祝儀の礼をしながら街道を巡行し、途中、待機中の他町の山車や街道筋の居囃子の前を通る際には、停止し囃子舞台を回転させて、相手に対面して競演を挑み、祭を盛り上げます。正午過ぎ、住吉神社斜め前での三町の競演を見聞しましたが、青梅大祭のリーフレットの"おまつりマップ(3日)"を見ましたら、夕刻に青梅街道上の決めた場所3ヶ所で、山車の競演が行われるとの記載がありましたので、その内の2ヶ所、青梅駅前の四町競演と市民会館前の旧氏子の五町競演の様子を見聞しましたので、昼過ぎに見た三町と合わせて、ビデオ画像でお伝えします。

大祭本部前、競演そのT

大祭本部前、競演そのU・五町競演


上町、仲町の山車が、大柳町を下る滝之上町、天ヶ瀬町、大柳町を順に見送ります。
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見送った後、上町、仲町の山車に森下町、本町、住江(宮本)町の山車が合流して、人形を所有する旧氏子五町の山車の競演が大祭のクライマックスを飾ります。

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ます。

駅前、四町競演

住吉神社前、三町競演

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青梅駅前交差点に、西分町、勝沼町、本町、住江町(宮本)の4台の山車が集結。 さまざまな形で競い合いが行われるこの競演シーンは、青梅大祭切っての見所になっています。
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住吉神社の向い側の街道脇に住江(宮本)町、本町、上町の3町の山車が横一列に勢揃いして、囃子の競演で盛り上がって居るところに、滝之上町の山車が接近。囃子の打ち合いに挑みます。

石川博司氏の青梅大祭に繰り出す十二町の"山車"の解説

平成21年の青梅大祭を見聞させて頂いて、先ず感じましたのは、天候に恵まれたとは云え、見物客の多いことには驚きました。そして街中を巡行する祭礼曳きものの山車のお囃子だけでなく、九ヶ所もの居囃子の舞台の上の精力的な演奏・演技が祭りの雰囲気をいやがうえにも盛り立てておりました。"祭囃子"、これぞ祭礼の原点だなぁ、との思いを強くしました。

大祭時だけでなく、お囃子を郷土芸能として広めて、その後継維持を目的とする「青梅囃粋会」なるお囃子愛好会の存在と、その会が祭礼時に限らず、随時、活動していることを知り、地元郷土の祭囃子保存会に所属している管理者としても「青梅囃粋会」さんの活動に賞賛の拍手をお送り致します。そして、青梅市の皆様の祭囃子好きなことにも、大きな拍手をお送りします。

人形場と呼ばれる旧氏子山車町の山車人形が飾られている会所には、それぞれの町内の祭礼に関する印刷物が用意されており、それらを読みますと、青梅の町民皆さんが山車に対する誇りと強い愛着をお持ちであることを感じました。

青梅市本町にお住まいの石川博司様は、祭礼山車、屋台の愛好家・研究家でおられ、日本各地の神社祭礼の曳きもの並びに獅子舞に造詣の深い方で、特に首都圏の祭礼に関する石川様の著書は多々ございます。この青梅大祭の見聞録をまとめるに当たり、石川様の著書の「住吉祭礼昭和史」の中の「平成八年山車巡り」(発行 ともしび会)の"青梅・住吉祭礼"の内容を、石川様のご了承を頂きましたので、そのまま引用させて頂きます。

大祭当日に配布された「青梅大祭」のリーフレットのスペースでは、表わしきれない「青梅・住吉祭礼」の真髄がヒストリカルに語られております。是非、ご覧下さい。


  石川博司 著
   「平成八年山車巡り」(発行 ともしび会)

   〔内 容〕

 

◎青梅・住吉祭礼

◎遠州・横須賀の山車

◎川越まつり

◎飯能まつり

◎栃木まつり

◎秩父夜祭

◎ 青梅・住吉祭礼

名古屋にあるまつり同好会から平成8年4月20日に発行された『まつり通信』第423号に、私が「青梅・住吉祭礼の山車」を発表した。それを引用すると  青梅・住吉祭礼の山車  五月二日と三日の両日は、東京都青梅市青梅・住吉神社の祭礼である。祭りには、各町内から十二台の山車が青梅街道に繰り出し、西多摩地方随一の人出で賑わう。山車の擦れ違う際に屋台囃子の競演が行われる。これを青梅では「セリアイ」と呼んでいる。

 住吉神社の例祭は、江戸時代の記録をみても、近隣の村がこの日を農休みにする位だったから、この辺りでは大きな祭りであった。当時の祭りは、旧暦の三月二十七、二十八日に行なわれている。明治六年からは、新暦に切変わったために、一月遅れの四月二十七、二十八日に変り、さらに、昭和四十四年からは、五月のゴールデンウィークに変更されて現行の二、三日に定着した。

 この住吉祭礼でいつ頃から山車が曳き出されたのか、確かなことはわかっていない。本町には、現在使われている山車が買い入れられた時の文書が残っていて、これによると明治十七年であったことがわかる。しかし、これには、前に使っていた山車を他所に売り渡して新規購入の山車の資金に当てているから、山車を曳き出した年代はさらに遡る。

 戦前までは、街道沿いにある住江町・本町・仲町・上町・森下の五町内が出す五台の山車が曳かれたが、戦後になってから裏宿・滝ノ上・天ケ瀬・大柳の氏子町内や勝沼・西分・日向和田の氏子外の町内のものが加わり、今日みられるような十二台に増加した。

 明治時代の山車は、5町内のものいずれも三層高欄上に人形を飾って曳かれていた。本町・仲町・上町・森下には、明治三、四十年代に撮られた山車の写真が残っていて、当時の状況を知ることができる。この頃は、祭りが終ると山車を取りはずして土蔵にしまい、祭りの時には蔵から出してきて山車を組立てていた。山車は、明治四十四年に街道に電線が架設されたために、大正以降には、現在のように屋根部が改造されて屋台の形になり、民家に人形場をしつらえて人形を飾るように変わった。

 現在の仲町の山車は、御大典にあわせて昭和三年四月に新造された。当時としては画期的な廻り舞台機構が採用され、金属製の梶切り棒やパイプを使った梯子など新機軸がみられる。旧来の山車は、市内の下長淵に売り渡された。

 勝沼では、昭和二十五年に武蔵野市関前・島村邸にあった飾り山車を十万円で買い取った。現在の山車は、同年に飾り山車の竜の彫り物だけを用い、峰岸木工で新しい車台を造り、大工の西村・阿部・吉野・岡部・中村の五人がまとめ、田中板金が屋根を担当した。いずれも町内の職人の作業である。

 西分では、御大典のために大正四年に造られた山車が老朽化したので、昭和十七年に西分神社遷宮百年祭の念事業の一つとして山車が新造された。古い山車は、市内の畑中に三十万円で売却された。

 大柳では、昭和五十九年に下長淵から山車を買入れた。この山車は、昭和の御大典で山車を新造した仲町が下長淵に売り渡し、さらに下長淵が山車を新造したのを機会に大柳へ譲った。町内の大工がこの山車を大幅に補修して使用している。

 日向和田の山車は、昭和六十二年に完成した。下長淵の山車を建造した群馬県・上州御輿協同組合に発注した総欅造りの山車である。山車建造と格納庫建設を含めて、費用の総額が3千万円のぼるという。

平成元年には裏宿で秋川市の宮大工に注文して作った待望の山車が完成し、同七年には天ケ瀬が新潟県村上市で山車を作った。これで自前の山車を持たないのは、現在、十二町内中で滝の上1町内になった。

 これまで明治時代に撮られた山車の写真が、仲町(撮影年不明)・上町(明治32年撮影)・森下(明治39年撮影)とあったが、今年、上町の武藤常吉氏宅から本町を先頭に仲町と上町の3台の山車を写したものが発見された。明治末期の撮影とおもわれる。

 この武藤氏の写真をみると、山車を含めて当時の様子がうかがわれる。現在みられない街道の両側には木が植わっているし、町内境にはノボリがたてられている。現行の山車では、大太鼓が柱の上部につけられて、立った姿勢で太鼓を打ってるが、写真(本町の山車の場合)をみたところでは、太鼓が引幕の下の柱中部に固定され、座って叩いている。

 今年は、昨年のような山車の新造もなく、例年通りの12台の山車が曳かれた。以前、セリアイの時にみられた狂態がなくなり、すっきり囃子の競演がたのしめる。青梅街道には、和田・藤橋・下長淵など市内9カ所の囃子連の居囃子がおこなわれた。


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