◎ 青梅・住吉祭礼
名古屋にあるまつり同好会から平成8年4月20日に発行された『まつり通信』第423号に、私が「青梅・住吉祭礼の山車」を発表した。それを引用すると
青梅・住吉祭礼の山車
五月二日と三日の両日は、東京都青梅市青梅・住吉神社の祭礼である。祭りには、各町内から十二台の山車が青梅街道に繰り出し、西多摩地方随一の人出で賑わう。山車の擦れ違う際に屋台囃子の競演が行われる。これを青梅では「セリアイ」と呼んでいる。
住吉神社の例祭は、江戸時代の記録をみても、近隣の村がこの日を農休みにする位だったから、この辺りでは大きな祭りであった。当時の祭りは、旧暦の三月二十七、二十八日に行なわれている。明治六年からは、新暦に切変わったために、一月遅れの四月二十七、二十八日に変り、さらに、昭和四十四年からは、五月のゴールデンウィークに変更されて現行の二、三日に定着した。
この住吉祭礼でいつ頃から山車が曳き出されたのか、確かなことはわかっていない。本町には、現在使われている山車が買い入れられた時の文書が残っていて、これによると明治十七年であったことがわかる。しかし、これには、前に使っていた山車を他所に売り渡して新規購入の山車の資金に当てているから、山車を曳き出した年代はさらに遡る。
戦前までは、街道沿いにある住江町・本町・仲町・上町・森下の五町内が出す五台の山車が曳かれたが、戦後になってから裏宿・滝ノ上・天ケ瀬・大柳の氏子町内や勝沼・西分・日向和田の氏子外の町内のものが加わり、今日みられるような十二台に増加した。
明治時代の山車は、5町内のものいずれも三層高欄上に人形を飾って曳かれていた。本町・仲町・上町・森下には、明治三、四十年代に撮られた山車の写真が残っていて、当時の状況を知ることができる。この頃は、祭りが終ると山車を取りはずして土蔵にしまい、祭りの時には蔵から出してきて山車を組立てていた。山車は、明治四十四年に街道に電線が架設されたために、大正以降には、現在のように屋根部が改造されて屋台の形になり、民家に人形場をしつらえて人形を飾るように変わった。
現在の仲町の山車は、御大典にあわせて昭和三年四月に新造された。当時としては画期的な廻り舞台機構が採用され、金属製の梶切り棒やパイプを使った梯子など新機軸がみられる。旧来の山車は、市内の下長淵に売り渡された。
勝沼では、昭和二十五年に武蔵野市関前・島村邸にあった飾り山車を十万円で買い取った。現在の山車は、同年に飾り山車の竜の彫り物だけを用い、峰岸木工で新しい車台を造り、大工の西村・阿部・吉野・岡部・中村の五人がまとめ、田中板金が屋根を担当した。いずれも町内の職人の作業である。
西分では、御大典のために大正四年に造られた山車が老朽化したので、昭和十七年に西分神社遷宮百年祭の念事業の一つとして山車が新造された。古い山車は、市内の畑中に三十万円で売却された。
大柳では、昭和五十九年に下長淵から山車を買入れた。この山車は、昭和の御大典で山車を新造した仲町が下長淵に売り渡し、さらに下長淵が山車を新造したのを機会に大柳へ譲った。町内の大工がこの山車を大幅に補修して使用している。
日向和田の山車は、昭和六十二年に完成した。下長淵の山車を建造した群馬県・上州御輿協同組合に発注した総欅造りの山車である。山車建造と格納庫建設を含めて、費用の総額が3千万円のぼるという。
平成元年には裏宿で秋川市の宮大工に注文して作った待望の山車が完成し、同七年には天ケ瀬が新潟県村上市で山車を作った。これで自前の山車を持たないのは、現在、十二町内中で滝の上1町内になった。
これまで明治時代に撮られた山車の写真が、仲町(撮影年不明)・上町(明治32年撮影)・森下(明治39年撮影)とあったが、今年、上町の武藤常吉氏宅から本町を先頭に仲町と上町の3台の山車を写したものが発見された。明治末期の撮影とおもわれる。
この武藤氏の写真をみると、山車を含めて当時の様子がうかがわれる。現在みられない街道の両側には木が植わっているし、町内境にはノボリがたてられている。現行の山車では、大太鼓が柱の上部につけられて、立った姿勢で太鼓を打ってるが、写真(本町の山車の場合)をみたところでは、太鼓が引幕の下の柱中部に固定され、座って叩いている。
今年は、昨年のような山車の新造もなく、例年通りの12台の山車が曳かれた。以前、セリアイの時にみられた狂態がなくなり、すっきり囃子の競演がたのしめる。青梅街道には、和田・藤橋・下長淵など市内9カ所の囃子連の居囃子がおこなわれた。