青梅大祭のリーフレットの冒頭に、「青梅大祭の歴史と見所」の表題で、次ぎの解説があります。それをそのまま、転載させて戴きます。『山車人形は江戸末期に青梅の産業であった青梅縞(しま)などで活況を呈していた青梅の商人たちが買い求めたと言われています。山車人形は江戸の人形師たちが腕を振るった傑作揃いで、明治の終りまでは山車の上に高く飾られて巡航し、氏子である五町、すなわち現在山車人形を所有する住江町(すみえちょう)、本町(ほんちょう)、仲町(なかちょう)、上町(かみちょう)、森下町(もりしたちょう)の5台の山車は豪華絢爛を謳われたものです』。 『その後、電線が張られると山車は現在の屋台の形での巡行となり、人形は町内に飾られるようになりました。戦後になり、滝之上町(たきのうえちょう)、大柳町(おおやなちょう)、天ヶ瀬町(あまがせちょう)、裏宿町(うらじゅくちょう)そして西分町(にしぶちょう)、勝沼町(かつぬまちょう)、日向和田町(ひなたわだちょう)も加わり、現在の12台の巡行となっています。 青梅大祭の見所は、華やかな衣装で山車を先導する拍子木と手古舞、粋ないでたちで唱ずる町内衆の木遣り、山車が行き交うときの"競り合い"は祭のもうひとつの見所、それは青梅ならでのケンカ囃子と呼ばれている威勢のいい囃子、また街道を埋め尽くす露天の数々』と、リーフレットは解説しております。
|