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祝おう! 高崎市の100歳の誕生日だ!

 4月1日(土)は、朝から快晴でした。いよいよ高崎市の市制施行100周年の日を迎えました。群馬音楽センター周辺のシンフォニーロードの全ての街灯には100周年の記念の幟幕が張られ、歩道脇には新たに、沢山の花壇が据えられておりました。大きくふくらみ始めた濠の桜の芽が朝日に照らされ、いつもの早朝のウオーキングで見慣れた風景とは違って、目に入る眺めがなんとなく心躍るものに感じました。
100歳の誕生日を祝う記念式典は、音楽センターで、各界合わせて約2千の人達が出席して行われました。群馬交響楽団の「市民のためのファンファーレ」で開幕し、松浦市長の、数多くの先人と市民の努力で、北関東有数の都市になった。21世紀にむけて、市民中心の元気あふれる街にしたい旨の挨拶の後、来賓の県知事からは、福田、中曽根両元首相を輩出した高崎の時代を先取りする果敢な旺盛な精神を、益々これからも生かして欲しいとの祝辞があり、中曽根元首相自身の挨拶もありました。

この後、祝典に華を添える箏曲の演奏が圧巻でした。高崎芸術短大の宮下 伸先生の作曲した 箏とオーケストラのための祝楽「煌(こう)」が、群馬交響楽団と宮下先生自身の演奏で披露されました。全身を躍動させながら、琴の弦の上に白い爪を縦横無尽に走らせ、弦を弾いて奏でる琴の音は、オーケストラの弦楽とよく協和して、せせらぎから激流に変わり、そして次第に悠然とした流れとなる大河を思わせる静と動を巧みに表現した響きで、会場一杯の大きな拍手が湧いておりました。

この演奏の画像は、読売新聞高崎支局殿より、ご提供頂きました。ご協力に厚く、感謝申し上げます。画像をクリックすると、拡大します。

 

 4月2日(日)午後2時より、市制100周年を祝賀する"市民の集い"「未来・げんき・高崎100年記念コンサート」が、群馬音楽センターで開催されました。ハガキで応募した市民で満席となった音楽センターの舞台の両側には、大型スクリーンが設置され、プロローグの『高崎100年のあゆみ』の映像が映し出され、車輪の大きな大八荷車や下駄履き着物姿の市民や昔懐かしい街並みが紹介される度に、"あっ、そうだ、そうだったなぁ" などの、昔を懐かしむどよめきに似た声が客席のあちこちから、聞こえて来ました。

 
 N響の指揮者として有名な北原幸男氏の指揮で、ヨハン・シュトラウスUの歌劇「こうもり」序曲と「春の声」の2曲の演奏がありました。専用の音楽ホールで、しかも我が眼の前で、プロの楽団員が真剣な表情で演奏する楽器から、ストレートに降り注がれる音声を全身で受けて聴く生演奏の凄さに、まことに強烈な感動を味わいました。改めて、生演奏の素晴らしさを感じました。

ウオーター オブ ライフを名乗る異色のアーチストの清水和彦さんが、自作自演の高崎を紹介する「ダルマ・ソナタ1999」をギター、ハーモニカで軽快に唄いますと、そのユーモアな歌詞で、ホール中が笑いで包まれ、楽しいなごやかな気分になりました。

 つづいて、ともに高崎市在住で、東京芸大出身の、現在歌曲界で大活躍の天田美佐子(メゾソプラノ)さん、種井静夫(テノール)さんの歌で、歌劇カルメンの「ハバネラ」、トスカの「星は光りぬ」など、プロの歌唱を堪能させて貰いました。高崎市少年少女合唱団、市立京が島小学校合唱部の皆んな可愛いい100名もの合唱団が、岩谷時子作曲、芥川也寸志作曲の「音楽の好きな街」などを精一杯、唄ってくれました。

 その後に、前日と同じ、宮下先生の箏とオーケストラのための祝楽「煌(こう)」の演奏があり、観客の市民から大拍手が送られました。

 市制100周年を祝賀する"市民の集い"の締めは、群響の演奏です。静かな出だしから、ホルン、打楽器の元気な盛り上がり、そして夕日の沈みを想わせる輝きながら次第に静寂へと進むスメタナ作曲の交響詩「モルドウ」の群響の演奏は、気高く、情緒溢れるもので、市制施行100周年の市民の集いのエンディングとして、まことにふさわしいものでした。

 

 最後、挨拶に立った松浦市長が、北原指揮者に替わって、指揮台でタクトを執りますと、会場から歓声と拍手が沸き上がりました。総起立した群響楽団員に送られて退場する市長の満面の笑顔は、市制100周年に立ち会った市長としての喜びが溢れておりました。思えば、この群馬交響楽団こそ、今日迄の市制100年の歩みの中で、高崎市民が創り、育てた比類なき文化遺産であり、市制100周年の祝典で、その存在に輝かしく、スポットライトが当たられておりますことに、市民のひとりとして、まことに嬉しく、心からの祝意を申し上げます。

 同じ2日は、"春の主役は子供たち、家族で楽しめる祝祭イベントを!"との掛け声で、音楽センター前のもてなし広場をメイン会場にして、ウオークラリーの「子ども百見隊」や野外ライブ「夢ステージ」、「もてなし茶屋」などが行われておりました。

 子ども百見隊は、受付で参加徽章のワッペンを胸に着け、もてなし広場をスタートして、高崎の過去、現在を知って貰うために、神社、建物など市内各所に設けられた100ヶ所のポイントをクリアするウオークラリーです。父兄と一緒の幼稚園児や小学生から、中学、高校生、各地域の子供会やボーイスカウト隊などの沢山のグループが、個々にチェック表を持って、市街を歩いて、ポイントの立て看板を順番に廻る競技で、最後の100ポイントは、市役所正面ロビーです。次々と早足で駆けつける子供達は皆、目的を達成した元気な笑顔でした。これなら、ラリーの目的であった子供達に「大好きな街高崎」の現状と未来を考え、感じ取って貰おうとの成果が、期待できると思いました。

 一方、もてなし広場では、様々な風船を使ったゲームやピエロに扮した大道芸人のパフォーマンスとパントマイムのアトラクションなどが繰り広げられた「夢ステージ」と、広場を囲んで、イタリアの料理人によるマーケットなど、ドリンクや食べ物などの様々なお店が立ち並び、飲んで、食べて、談笑して、外国気分も混じって、華やか雰囲気が一杯の「もてなし茶屋」が盛況でした。

 

何と!国指定無形重文の栃木県烏山町の"山あげ祭"の特別公演だ!

 前橋市に本社を置く上毛(じょうもう)新聞社は、4月8日の朝刊に、山あげ祭りの記事を掲載しておりましたので、記事の冒頭部分を引用して、原文のままご紹介します。

上毛新聞社主催の高崎移動編集局が八日、九日の両日、高崎市高松町の旧市役所跡地・もてなし広場で開かれる。メーン行事は栃木県烏山町に伝わる「山あげ祭」で、きょう八日午前十時半と午後零時半の二回上演される。「山あげ祭」は室町時代に始められ、日本一の野外劇として、国の重要無形民族文化財に指定されている。第一級の名高い祭りながら同町以外ではほとんど公演されたことがなく「門外不出」。上毛新聞社が、高崎市制百周年を記念して招いた。7日には同町の「日野町若衆団」(斎藤豊筆頭世話人)の三十人が会場入り。祭りで向拝(ごはい)と呼ぶ山車を組立て、大きなもので高さ十一メートル、幅七メートル以上にもなる巨大なうちわ型の「山」と呼ばれる舞台背景の準備に入った。 きょうの出し物は「将門(まさかど)」。午前十一時から、山の前で常磐津に合わせ、お囃子(はやし)、踊り手が舞いを披露する。烏山町は「野外公演」を記念して、午前十時から先着三百人に、同町特産のうどんを無料配布する。
この「山あげ祭」の踊台(舞台)の画像は、上毛新聞社の提供です。上毛新聞 9日朝刊に掲載されたものです。この画像のコピー又は転載は、禁止します。希望する場合は、必ず、下記へ連絡して下さい。〒371-8666 前橋市古市町1-5-21 上毛新聞社 編集局 総務部  
 この上毛新聞社提供以外の画像は、2000年4月8日に、 高崎市「もてなし広場」で行われた「山あげ祭」日野町の公演の模様を、このHPの作者が撮影したものです。

 4月8日に、高崎で「山あげ祭」の公演があるとの情報は、3月の半ば頃、日野町若衆団の世話人のおひとりでおられる堀江竜也氏からのメールで、初めて知りました。上毛新聞の高崎移動編集局さんが企画したイベントであった為か、高崎市の市制100周年係 の行事一覧に掲載がなっかたので、逆に、堀江氏に問い合わせをした経緯もありました。

 8日(土)の午前9時が少し過ぎ、もてなし広場は、既に大勢の人が集まっておりました。お堀の桜は、まだ二分咲きといったところでしたが、からりとした晴天で気持ちのよい朝でした。周囲に、全国陶器祭りの天幕が軒を連ねる「もてなし広場」の南側、丁度、音楽センターの相向かいの広場の入り口を少し、中に入った所に、祭礼の"屋台"が一基、置かれておりました。

 鱗(うろこ)を逆立てた太い胴の龍が巻き付く二本の向拝柱(ごはいばしら)の上には、漆黒の塗りに金色の彫刻金具が輝く唐破風式の屋根が載り、鶴と波の懸魚はもとより、丁々発止と立ち向かう童子と天狗の殺陣姿は、躍動感に溢れており、綺麗に彩色された花鳥や松などの精緻な彫刻の数々で埋まった、これぞまさに絢爛豪華と賞賛する以外に、言葉がみつからない立派な日野町の「山あげ祭」の"屋台"でした。

"屋台"の画像をクリックしますと、拡大します。

 屋台の中では、4、5人の囃子衆が、笛、太鼓を盛んに演奏しておりました。テンポの速い軽快なお囃子(RealAudio 30秒 154KB)は、埼玉南部の入間、飯能、川越の仁羽(にんば)、栃木、鹿沼のお囃子に酷似してます。これらの地域と烏山とで、何らかのつながりがあったのかも知れません。
 先着300名の列に混じって、烏山町名産のうどんのプレゼントをありがたく貰いましたが、その天幕の場所は、烏山町観光協会の数人の係員が「山あげ祭」のパンフレットを配布したり、烏山の民芸品や特産品を販売している場所でした。「山あげ祭」は、本で読んだ以外は、見るのは初めてなので、どんな祭りなのかと、ひとりの係員に尋ねたところ、たいへん親切にいろいろと教えて呉れました。その時の説明と頂いたパンフレットで、「山あげ祭」の様子が概要、理解できました。

 パンフレットによりますと、今から450年も前の昔、疫病消除、五穀豊穣を祈願して、永禄三年(1560年)に、烏山城下の八雲神社に、鎮守牛頭天王(素戔鳴命 すなのおのみこと)を祀った。この神社の祭礼には、当初、奉納余興として、相撲や神楽獅子舞などが行われていたが、次第に踊りが演じられるようになって、元禄期には狂言が行われ、宝暦年間には常磐津の勃興から、江戸歌舞伎舞踊が盛んになり、烏山でも本格的歌舞伎舞踊が取り入れられ、同時に舞台装置や舞台背景も、「山あげ」により大規模になり、江戸末期には、こんにちのような全国でも類似を見ない絢爛豪華な野外歌舞伎の形態になったのだそうです。烏山町のガイド嬢による「山あげ祭の紹介」の音声です。RealAudio 70秒 358KB. 

 この「山あげ祭」の野外歌舞伎に似た祭礼の屋台芝居として、現存するものに、夜祭りで有名な秩父まつりの屋台芝居があります。秩父では、屋台上の舞台で歌舞伎を上演します。秩父まつりの「屋台曳き踊り」と「屋台芝居」は、「山あげ祭」と同様に、国指定重要無形民俗文化財です。巡行中に、任意の所で行う「屋台曳き踊り」は、屋台上の舞台で行われますが、「屋台芝居」の歌舞伎は、据え置いた屋台の左右両側に、袖と呼ばれる張り出し舞台を増設し、屋台上の舞台と合わせた広い舞台の上で、観衆に歌舞伎を披露しています。平成10年 秩父まつり 当番町の上町屋台の「屋台芝居」の画像です。演目は、秩父歌舞伎のひとつの 白波五人男でした。

 屋台の両袖に舞台を増設して、屋台の舞台上での上演にこだわった秩父とは対照的に、烏山の「山あげ祭」では、屋台の舞台は、形式的に残し、独立した大型の舞台を野外に設置し、多種多様な舞台背景を配置したスケールの大きい歌舞伎芝居の形に変化していったものと、考えます。烏山でも、元は、今の秩父の「屋台芝居」と同じように、屋台の上で上演していた踊り芝居から、常磐津の興りで、江戸で歌舞伎舞踊が盛んになり、烏山でも本格的歌舞伎舞踊が取り入れられ、いつしか舞台が外に出て、その舞台を飾る背景として、山や川の波などの舞台装置が考えられ、広い舞台で、動きのある舞台演出が考案されて、今に至ったものと、推察します。烏山町の踊り手とお囃子衆の紹介のアナウンスの声をお聴き下さい。RealAudio 50秒 256KB.

 お囃子を演奏している屋台を、「山あげ祭」では「向拝(ごはい)」と呼んでます。御拝とも書きますが、一般的に、神社仏閣の拝殿正面の、突き出た廂(ひさし)のある階段部分を、向拝(ごはい)と呼びます。神社、仏閣の廂(ひさし)は、破風の付いた豪華な屋根です。それ以上に、彫刻や金箔、飾り金具で飾られた屋台や山車の屋根は一層豪華です。従って、屋台や山車の前正面の二本の柱を、向拝柱(ごはいばしら)と呼んでます。 ですから、屋台そのものを、向拝(ごはい)と呼んでも、何らおかしくもありません。

 「山あげ祭」では、向拝と呼ばれる屋台の意義が大きく変化して来たことが分かります。屋台は、所作(しょさ 踊り芝居)を行う舞台ではなく、舞台背景としての存在感が大きくなってます。所作の無いときは、休むことなくお囃子を奏でて、祭りの雰囲気を見事に醸し出しております。そして、黒の漆塗りに飾り金具が映え、豪華な彫刻や極彩色に彩られた花鳥で飾られた唐破風の屋根や、みごとな彫りの龍が巻き付く向拝柱などは、舞台の雰囲気づくりに無くてはならない思いがします。

 「山」は、所作の背景で、観客の前に据えられた舞台(踊台、地車じんぐるま)から、道路上約100メートルの間の一番奥に、大山(おおやま)が置かれ、中山(なかやま)、前山、館(やかた)、橋、波など遠近よろしく配置され、所作の実演中は、その進行に合わせて、木頭(指揮者)の拍子木を合図に、一斉に背景の山を千変万化する仕掛けが工夫されております。そして、よく訓練された100名以上の若衆達が、一糸乱れぬ団体行動で裏方を勤めます。所作狂言は、常磐津の三味線にのって、美しい衣装を着けた町の踊り娘(こ)達が、舞いを披露します。全国でも類のない絢爛豪華な野外劇を演出するのです。昭和五十四年、国の重要無形民俗文化財に指定されております。

高崎市役所の21階の展望台から、公演進行中の「山あげ祭」を撮影した画像です。クリックしますと拡大します。

 「山あげ祭」のパンフレットに載ってます「山あげ配置図」です。この図の様に、普段は御所車の付く台座の上に載っている向拝(屋台)は、舞台の公演が始まるときは、向拝の本体を台座から外して横にへ移動させ、御所車の台座は花道に代わります。直径60センチの木製の車が四隅に付いた台車(地車じんぐるま)は、山の材料や道具類を運搬する外、公演時に、その上に踏み板を並べ、舞台(踊台)に変身します。

 以下、もてなし広場で、烏山町観光協会の人からお聞きした「山あげ祭」のお話しを整理してみますと、現在、烏山では、日野町、泉町、金井町、鍛冶町、元田町、仲町の六町内が、六年間に一回、廻ってくる年番で祭りの実行を担当している。毎年七月の第四土曜日を含む金、土、日の三日間行われる。平成12年の今年は、7月21日・22日・23日で、泉町が年番町です。各町内には、精巧な彫刻人形を飾り付けた屋台(向拝)や、山あげの大道具が倉庫に保管されているという。

 準備では、背景の山あげの山を作るのが一大事業になる。山は野外劇の演目によって変えます。主な演目でも「将門」「戻り橋」「宗晴」「忠信」など 全て、背景が違うから、年番町は、予め演目を決めて、山の準備に入りますが、一ヶ月前から町内総出で、竹を細く割り、網代に編んで、そこに烏山特産の和紙を幾重にも張り付けて仕上げる。想像しただけでも、大変な作業だな と思います。踊り手は、幼少のころから稽古を始めないと、満足な演技はできない。年番の年には待ったなしの重責が待ってますので、気が抜けないとのこと。

 山あげ祭りは、常磐津と舞台の演技者は全て女性に限られ、男性は舞台に上がれないそうです。舞台造り、背景の館、波の組立、山の準備などの全ての設営は、全て男性だけの仕事と、決まってます。山あげ祭の見所は、舞台上の立ち回りや艶やかな衣装の踊りなどの華やかな面だけでなく、背景の動き、例えば、山を立ててから、更に上に上げる「せり上げ」や、舞台上の所作に合わせて、山の風景の全体を変える「切り返し」、山全体が回転する「ひしぎ」、水の感じをだすのに電気照明や花火を使う「滝」など、町の人達の手作りの舞台装置や、仕掛けも祭りの見所になってます。敢えて云えば、舞台装置をテキパキと組み立てる大勢の若衆の活躍の様子の全てが、山あげ祭りの大きな見所なのです。この重要で、むづかしい裏方の仕事が若衆の大事な役目になってます。それぞれが、永い伝統をもって受け継がれたやり方、手法があって、それを守って行うことが大切だ。それ自体が、国指定重要無形民芸文化財なのですから、いい加減にするわけには行かないのです。

「切り返し」で、山の風景が変わってます。














 烏山の若衆の皆さんが、材料を運び、組立を行っておる様子を、傍らで拝見させて頂きました。その手慣れた、しかも、真剣な作業振りには、すごいなぁ、と驚きと敬意を感じました。広場に資材を持ち込んだ後、全若衆が集合して、世話役からの訓話の後、無事の公演を祈念しての大きな手締めをして、一斉に組立作業が始まりました。高崎では、桜の咲く頃は、春の突風がよく吹きます。前日は穏やかでしたが、当日は朝から、北よりの風が強く、広場を囲む様に立てられている100周年の幟旗が、強い風に煽られて、バタバタと音をたてておりました。丁度、私の眼の前で、二人の若衆が館の屋根をセットしようとした時に、強い突風が起き、屋根が落下してしまいました。二度三度やり直しをして、やっと組み付けられましたが、側に居ても、ハラハラしてしまいました。

若衆の画像は、クリックで、拡大します。

 前山、中山は既に立てられましたが、大山は、まだ地面に横たわったままです。畳2枚の大きさのパネルを縦横何枚も組み付けて一枚の大山が完成しますが、高さが10メートル以上、幅が7メートルにもなる"うちわ"のお化け見たいなものですから、強風は危険です。予め、群馬は空っ風が強いとの認識で、風対策を考えて、山の製作をなされたと、後で伺いましたが、用意してきた幾条ものロープを使って、風の凪の瞬間を狙って、一気に立てるしかありません。

 木頭(指揮者)の拍子木の鳴るのを、今か今かと、待つこと数十分、広場の拡声器から、木頭の拍子木が入りました!との大きなアナウンスが発せられると、広場の全員の眼が大山の方向に、釘付けになりました。あがり始めた大山は、幾度か風に煽られて、少し斜めになったりしましたが、風の向きをうまく読んだのでしょう、幾本もの支えの綱を巧みに操って、わずか1分位の間に、ピタッと、大山を立てた瞬間、広場から拍手と歓声が起こりました。大成功です。これは、豊富な体験から生まれた技のなせるもので、もう既に、芸 の領域なっておると、云っても過言でありません。山があがった瞬間、感動しました。大山があがった緊張の瞬間を、烏山町のガイドのアナウンスの声でお確かめ下さい。RealAudio 50秒 179KB。その後は、重石の入った数十俵の米俵を、土台に乗せて、しっかりと固定します。全てが、手際よく進行します。やぁ、立派でした。

 平成12年4月8日、高崎市制施行100周年を祝って、上毛新聞社の招きで、日野町を中心にした烏山町の皆さんが、わざわざ来高下さって、「山あげ祭」の特別公演を演じて頂いたものを観覧させて頂き、聞きしに勝る内容で、大きな感動を受けました。高崎市の為に、百数十人もの大勢の方が、多くの祭り道具を携行して、公演に駆けつけて頂いたことに、一市民として、心から、厚く御礼を申しあげます。

 このレポートは、私の個人のホームページではありますが、日本各地の祭り愛好者はもとより、その他、幅広い方々の眼にも触れるかもしれません。烏山町の素晴らしい郷土芸能が、少しでも広く、多くの人達に知られることの一助になれば、本懐です。機会をつくって、烏山町の現地での「山あげ祭」を観覧し、山車祭り見聞録として、まとめてみたいと、考えてます。実際に、祭礼を行う町へ脚を運んで、町の皆さんの実際の様子を拝見して、町全体の雰囲気を、眼や耳、鼻で、直かに感じ取って、町の臭いが伝わって来るような見聞録にしたいと、考えております。

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