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オランダ王室展 「オランダ王室-知られざるロイヤル・コレクション」

  今年の西暦2000年を遡ること400年前の西暦1600年に、オランダ船が日本の九州に漂着して、日本とオランダの交流の始まったこと、外国との交流を絶った江戸幕府が、唯一 オランダ人だけは滞在を認めたことなどは、誰もが小中学校での歴史の教科で習ったことですが、殆どの人が普段の日常の生活では、このようなことは、意識してませんので、改めて云われて、なるほどそうだったか、と思う程度ではないでしょうか。

  
 でも、西暦1600年というと、この年は関ヶ原の年と覚えている人は以外に多いのではないかと、思います。多分、今のNHKの大河ドラマのフアンのなかには特に、多いかも知れません。私は、オランダと云われると、写真で見たチューリップと風車の風景が、頭に浮かぶ位の知識しかなく、オランダへ行ったこともない私には、オランダ王室と呼びかけられても、反応はいまひとつだったのです。

 市制施行100周年記念事業のメーンイベントのひとつとして、市の広報や新聞のローカル版などに大々的に予告報道をされ、開催日が近づくと、会場の高崎シティギャラリーの前に、ライトアップ式の大きなモニュメント看板が設置され、会場周辺のメイン道路の両側にはオランダ国旗の付いたオランダ王室展の吊し幟(のぼり)が、一斉に掲げられました。
 高崎市制100周年と日蘭交流400周年とを記念してのオランダ王室展は、6月11日(日)より 7月12日迄の一ヶ月間、会期中無休で、高崎シティギャラリーにて、公開されます。この王室展の開催は、国内では 高崎市と、東京国立博物館、京都国立博物館の3カ所だけが予定されていて、高崎が最初の開催だそうです。正直に申して、西洋の王様の生活の様子などは、普段の我々の日常生活には馴染みがなく、高貴な社会の生活文化への興味の度合いも、各人、それこそ千差万別だと思います。

 自分の手の届く範囲のものは、何でも先ず自分の眼で見て、手で触って、反応を確かめるという好奇心の持ち主を任じる私として、早速、開催初日の6月11日の夕方、オランダ王室展の見学鑑賞に行って来ました。

 照明の照度を落とした展覧会場は静粛でした。日曜の開催初日ですから、混雑を予想したたのですが、思いの外 来場者は少なかった。5月下旬に、オランダを公式訪問された我が国の両陛下を、最高のもてなしで迎えたと報道されておりましたオランダ現国王のベアトリクス女王を含め、代々の王様の肖像画が見事でした。

 正装した衣装の柄のひとつ、ひとつから、手や腕の肌の毛一本、一本までが鮮明に描写されている画像は、一国を君臨統治した自己の栄誉の証としてか、遺された親族、臣下が祖先、先君の威光にいつまでもすがっていたいが為に、お抱えの宮廷画家に描かせたものであろうと、勝手な想像をしました。まぁ、一般庶民には無縁なことです。在任中というより、子孫が後世になって、描かせたものが多いようでしたが、それにしても、二百年近く経った絵の画質の鮮明さには驚きました。

  肖像画と対比出来るように王家の家系図が掲示されてました。16 世紀頃、ライン川の河口付近の低地のネーデルランド地方の総督の一人で、当時の支配者スペインの圧政に対し、ネーデルランドの独立運動を指揮したたオラニエ家創始者でもあるウィレム総督が家系の始祖で、幾多の変遷を経て、19世紀始めに就任した初代オランダ国王ウイレム一世から、現国王ベアトリクス女王迄の家系の図表とその説明書きでした。

 それを読みながら、西洋史を専門的に勉強したことのない私の素朴な疑問(奇問)なんですが、西洋の王様や皇帝はどんな経緯から、その地位を就いたのかと、思いました。西洋の王様は、フランスのナポレオンにしろ、ウィレム一世にしろ、権力を持ち、治世に長けた者が、"俺は今から、この国の王様になるぞ"とでも云って、その地位に就いたのかなぁ、とふと思ったりしました。

 高崎市の広報とホームページの事前報道で、「オランダ王室のコレクションより、絵画、工芸品、調度品、宝飾品の優品を一堂に集めて展覧するものです・・」となってましたが、会場内には、冠、首飾り、腕輪、指輪などの宝飾品は見あたらなかったが、宝石箱とアートキャビネット的な工芸品はありました。調度品として、王室の晩餐会のテーブルを再現した調度類は、金・銀で縁取られた燭台やら、皿、フォーク、グラス類などが多数、展示されていて、普段はお目に掛かれないものばかりで、なかなか素晴らしかった。

 会場内では、写真、ビデオの撮影の禁止は勿論、模写も禁止で、万年筆なども使用禁止となっており、会場のあちこちには、細身で上背のある美男の警備員が立ち番しており、それとなくこちらに向ける鋭い監視の眼が怖くて、メモすらできなかった位ですから、ことによったらと、鞄に忍ばせたカメラは入れっぱなしのままでした。なんであれ、会場内の撮影は厳禁ですので、それに従いました。この様なときの取材の隠し技を内緒でお教えします。屋内の展覧会に限らず、山車祭り見学の時も、私はそうしてますが、miniマイク付のテレコを携行して、メモ代わりに、要点を小声で録音しておくと、後で便利です。勿論、この日もテレコを持参して、忘れ易い年号とか、人名などを、その場で、小声で録音しました。

 調度品のなかで、これはと、私の眼に付いたものが二つありました。ひとつは、シャンデリアで、もうひとつは、高さが2メートルほどのフロアータイプの燭台(しょくだい)でした。シャンデリアと12本のローソクが載る燭台は、その本体(ボディー)が明らかに、花瓶の形をしたセトモノの壺を利用してます。我々が日常、家の玄関や座敷の床の間で見かける花瓶とおなじで、白の下地に花絵が描かれたセトモノ、有田焼き、伊万里焼きと呼ばれる陶磁器製の壺、そのものが使われておりました。

掲載の画像は、入場券の半券を撮影したものです。燭台がどんな感じのものかを知って頂くだけのピンぼけ画像です。8の字形本体の二段の白っぽい部分は磁器製です。

読売新聞 6月初旬の紙面上に、長崎のハウステンボスの神近社長のコラムが載っており、ヨーロッパへ送り出された日本のセトモノ 陶磁器について、こんなことを述べておりますので紹介します。

「肥前の焼き物は、嵯峨藩主 鍋島直茂候が朝鮮出兵の折り、朝鮮から陶工を連れ帰ったことに始まる。彼らは有田で染め付けを焼いていた。1657年、当時の出島商館長ワーヘナールが中国・景徳鎮の陶磁器を持ち込み、代用品を焼いてくれるよう鍋島候に依頼した。有田、波佐見、三川内に多くの窯が作られ、大量の磁器が焼かれるようになったのは、これがキッカケだった。十七世紀のヨーロッパでは磁器は焼かれておらず、景徳鎮の器をオランダ東インド会社(VOC)が買い付け、アムステルダムへ運び、ヨーロッパ中の王侯貴族が集まって、オークションが開かれた。ところが明末の内乱で、景徳鎮の磁器は運び出すことができなくなり、その代用品を有田に求めたのである。

 有田では数年間、景徳鎮の磁器の代用品を焼いていたが、柿右衛門の色絵が高く売れることから、染錦をつくり出した。赤と青と黄色を基調とした華やかな染め錦はヨーロッパで大人気となり、伊万里と呼ばれた。

 その伊万里も1720年頃から輸出が少なくなったが、出島からVOCによって、運び出された伊万里は、百二十七万枚と記録されています。
 この輝かしい歴史は、今も続いており、若い陶工達が次々に誕生している。十四代柿右衛門とは長い付き合いだ。当然といえば当然だが、彼は生まれたときから柿右衛門の焼き物に囲まれて生活している。食器も花瓶も灰皿も箸置きも全てだそうだ。その慣性が柿右衛門ならではの慣性を磨き、あの濁し手と呼ばれる乳白色の白磁を作り出している。

 日本の西端で焼かれた肥前磁器が、現代でも日本を代表する焼き物として続いているのは、人から人へとその精神と技術が伝えられているからであろう。今年は日蘭修好四百年の記念すべき年、肥前磁器が千年後まで輝き続けて欲しいと願っている。」

 展示品目のなかに "絵画"とありましたが、肖像画以外はこれはと思う絵の展示は無かった。画才のない私が云々(うんぬん)するのは僭越で、失礼とは思いますが、ルーベンスやレンブラントの名が出ていた作品も、画用紙大のデッサン的な絵と、版画でした。画家名で期待した人はどう感じたかな。

 展示最終の東西交流のスペースに、明治維新直前の1862年、オランダを訪問した遣欧使節団の竹内下野守、松平岩見守、京極能登守達が、オランダ国王ウイレム三世との謁見した時の記念写真で、それぞれ一人ひとりの丁髷、帯刀の武士正装姿の写真(絵ではない)が掲示されておりました。当時、既にこれだけの鮮明な写真撮影技術があったとは驚きでした。

 家に帰って、yahooで見つけたオランダ独立戦争の記述を読んで、オランダの生い立ちから、西洋の国で唯一、鎖国の我が国と交流ができた理由など、見てきたばかりのオランダ王室展の内容と合わせて、大変勉強になったので、ご紹介します。参考までですが、同じくyahooで見つけたオランダとはを見て、オランダと云う国は、面積の狭い、人口も少ないながら、400年の間、日本人の生活文化に多大な影響を与えてくれたありがたい隣人なのだと、思いました。オランダは、昔も今も、人類の文化の進展に貢献を続ける大国のひとつだと思いました。

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