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"世良田八坂神社のご紹介"

世良田八坂神社です。左右の画像をクリックしますと、拡大します。拡大画面の左上の←をクリックして、本ページにお戻り下さい。右は拝殿の正面です。左は拝殿と本殿の側面ですが、本殿は落ち着いた優美さの戦国桃山風様式で群馬県の重文に指定されております。側面画像の右脇に神輿渡御に使われる"当住様"(とうじゅさま)神輿が待機しているのが見えます。共に平成22年祇園祭の初日に撮影しました。

左の世良田八坂神社の鳥居の画像をクリックしますと、鳥居の正面向って右側の掲示板の八坂神社の由来がご覧になれます。

拡大画像の左上の←戻るで、本ページへお戻り下さい。尚、世良田八坂神社の具体的な詳しい解説を地元の研究者からお聞きしてますので、次をご覧下さい。

平成22年度の世良田八坂神社例大祭の初日の7月24日、管理者は世良田町を訪問しました。日中は快晴の祭り日和でしたが、夕刻から凄い雷雨に襲われ、祭メイン行事の午後7時からの祭り屋台の巡行は中止になってしまいました。

これからご紹介する世良田八坂神社を始め、世良田町の歴史についての記述は、平成22年の世良田祇園祭りの開催日の数日前に、地元世良田町にお住まいで、古美術画廊「堀江」を経営なされながら、画廊内に「世良田村歴史資料室」を設置して、中世の武将新田氏の興亡を研究なされておられる「新田史研究会」世良田支部長の高橋宗二氏をお訪ねして、氏より世良田祇園祭りに関する詳しいお話を伺いました。そのお話と氏より頂いた資料を基に、管理者が纏めたものです。

高橋氏の解説によりますと、祇園祭は、つまり祇園信仰は幾つかに分類出来て、ひとつは水に関する祇園で、有名なのは尾張国(愛知県)の津島天王社で神輿渡しを舟によって行われる「舟祭り」で、群馬県玉村町の利根川の水神祭など各地にあります。ふたつ目は、牛頭天王を市神とする祇園祭で、「市場(いちば)」が催されるのを常とした祭で、各地の大半の祇園祭がこの部類である。三つ目が山に関する祇園で、群馬県片品村越本の牛頭天王の祇園祭があります様に、我が国各地の山里で観られます。四つ目は、類似的な祇園で、諸方に行われる祇園祭に影響を受けて発生した祭で、神輿渡しを祇園と称している祭である。

このうち、群馬県内で主流の「市神(市場の神)」に関する祇園祭の代表である世良田八坂神社の祇園祭を研究すると、地元の世良田山長楽寺蔵の文書の中に、鎌倉時代の徳冶二年(1307)には「四日市」、嘉暦二年(1327)には「六日市庭(いちば)」と出ているとおり、世良田の八坂神社は牛頭天王を祀る祇園社であったが、明治維新時の神仏分離の政策で、全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、素戔鳴尊を祭神とする神社として強制的に再編された。

同じく地元の普門寺蔵の「上野国新田祇園牛頭天王縁起」によると、新田祇園殿として貞観十八年(876)の創建とある。その後、鎌倉時代の末期の元弘三年(1333)五月八日、新田義貞は、新田庄中今居郷の新田館(現在の大田市世良田町の総持寺の地)で挙兵したが、その前の挙兵の儀を八坂神社の社殿で執り行なったと云われている。

世良田八坂神社と尾張国の津島天王社の絆は何であったか。氏の解説によると、室町時代の始め、応永年間(1394〜1427)に尾張国(現在の愛知県)津島の「津島天王社」の分霊を世良田八坂神社に移してたと云われる。その理由は、時の世は南北朝の時代で、南朝の後醍醐天皇の息子宗良親王の子、尹良(ただなが)親王が新田一族世良田政義の娘を娶ったことから、妻の地「世良田郷」に分霊したのである。

尹良(ただなが)親王は新田義貞が戦死後も新田一族と共に、北朝方の足利勢と各地で転戦したが敗色濃く、態勢の挽回を図るため、上野国寺尾城にて、新田氏の分家の世良田氏五代の棟梁新田政義ら側近と策を巡らした。そこで政義の娘は尹良(ただなが)親王に嫁ぎ、良王(よしたか)君を生んだ。その後、尹良(ただなが)親王は信州浪合村で足利勢と交戦し討ち死した。

良王君は追撃を逃れ、尾張国大橋定元の奴野城に入り、良王君の嫡男信重が大橋家を継ぎ、二男良新(よしちか)が津島神社の神主となり、祖父尹良(ただなが)親王を若宮として祀ったという。一方、新田氏世良田一族は、尹良(ただなが)親王の母堂の兄世良田政親(まさちか)が中心となって、母堂の地「世良田郷」に津島天王社の分霊を勧請し、以後、「新田の天王様」として世良田八坂神社は崇敬の対象になった。

時代が下り、尾張国では守護代を代々務める織田家が尾張一国を手中に治め、信長の父織田信秀は勤皇に尽くし天皇の内裏修繕、伊勢神宮へ献金など神への崇敬心が強かった。父親の影響を受け、信長も尾張国の熱田神宮、津島天王社を崇敬した。

中でも津島天王社は、後醍醐天皇の息子宗良親王の御子尹良(ただなが)親王が新田一族世良田政義の娘と結ばれ、その御子良王(よしたか)の二男良新(よしちか)が神主となっていることに信長は感銘を受け、良新の祖父母の郷里の地、世良田八坂神社の本殿造営を寄贈、本殿の扉に織田家の家紋の木瓜紋(きうりもん)が入っている。元禄16年の銘のある氏子より寄進された社宝の御鏡に木瓜紋が入っていることからも、江戸元禄時代には、信長が本殿を造営したことが世間には知れ渡っていたと、思われる。画像は高橋氏の提供。

市神として崇敬された八坂神社は「世良田の天王様」として栄え、戦国時代には武門の神として幾多の武将が神前にひれ伏し、江戸時代には武門の神から一般庶民の神として、「無病息災、家内安全、商売繁盛」の牛頭天王、もしくは祇園殿と呼ばれ、祇園祭が盛大に行われるようになり、明治維新を迎え、維新政府の神仏分離政策で牛頭天王の天王社から素戔鳴尊の八坂神社となるのである。

関東に於いて、その賑やかさと豪華さに於いて、指折りの三大祭りと呼ばれるものがあった。それは東京浅草の「神田明神祭り」、埼玉県秩父市の「妙見祭り」と新田郡尾島町世良田、八坂神社の「世良田祇園」で、古くから天下に鳴り響いていた。毎年七月二十四日、二十五日に行われていたが、近年は七月の第四土曜日と日曜日に変更された。かっては各部落から十一台の祭り屋台が出て、賑やかな祭り囃子と男性的な神輿渡しが売り物であった。

次に掲示させて頂いた絵図は、高橋氏より頂いた「上毛新田 世良田略絵図」です。

画像をクリックしますと、拡大します。
丸十のマウスポイントが出ていましたら、もう一度クリックします。
拡大画面の左上の←(戻る)をクリックして、本ページに戻ります。


絵図の左下隅の弘化乙巳再記とありますが、120代仁孝天皇の御代の弘化2年(西暦1845)です。この絵図を180度回してご覧になりますと、本ページの冒頭のマピオンの地図と殆ど同じ街路図です。絵図の下の丸の北の直ぐ左脇に牛頭天王と書かれてますのが今の八坂神社です。その位置から絵図の上へ眼を移し、丸の南の右側の木立に囲まれた広い区域が長楽寺と東照宮の境内です。東照宮の世話をした長楽寺の僧坊が境内を囲むように沢山建ってます。

絵図の上の中ほど(左図のカラーで囲んだ部分)をご覧ください。東照宮の鳥居の右脇に「義季(よしすえ)の墓」とありますが、この義季は新田源氏の開祖の源義家(武勇伝のある八幡太郎義家)の孫の義重の四男の義季で、世良田郷に館を構え、最初に世良田氏を称するようになったので、世良田氏の開祖は義季であり、後世になって、徳川家の先祖として遇された。

義季から七代目の世良田氏の棟梁は世良田親氏(ちかうじ)で、松平太郎佐衛門尉(まつだいらたろうざえもんのじょう)、徳川二郎三郎と名乗り、松平の祖とされた。この時点で家系図上では世良田源氏は消滅した。家康が天下を獲り、幕府を開くに際し、家康は松平から徳川に変わり、新田源氏の末裔であるとして、征夷大将軍に就任した。



世良田町は "徳川家康の父祖の地"

平成22年7月24,25の世良田八坂神社の祇園祭りの見聞に先立って、祭り数日前に世良田町を訪問しました。世良田町にお住まいの新田史研究に造詣の深い高橋宗二氏にお会いでき、お聞きした世良田八坂神社に関わるお話の内容は、既に本ページ冒頭にてご紹介致しました。清和源氏の末裔の新田氏の興隆に伴って発展した新田の荘の世良田郷の存在がまたまた、脚光を浴びることになった。戦国時代を生き抜いて、天下人となった徳川家康が、この地、世良田に大きく関わって来たのです。

徳川家康が大阪夏、冬の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開くための征夷大将軍に就任するには、家康が清和天皇に繋がる源氏の末裔であることを示す必要から、源義家を祖とする新田源氏の末裔の九代目の世良田家棟梁の源親氏(みなもとちかうじ)が家康の祖、松平太郎佐衛門尉であると宣言して、世良田村の郷のひとつの得川村を徳川村に改称して、地元の長楽寺の寺領を百石に増領するなどして保護した。

三代将軍家光は日光東照宮の造営に際し、旧東照宮を長楽寺境内に移築して、社領二百石を与え、長楽寺を東照宮の別当寺にして、世良田村を徳川の祖の地として、治水土木工事などは幕府で行うなどいろいろ面倒を診たので、人々の往来も多くなり、市場も開かれ、八坂神社の天王祭には関東周辺から参拝者が押し掛け、江戸期を通じて上野国世良田村は栄えた。


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