「上毛新田 世良田略絵図」の拡大図をご覧ください。絵図の左上に縦書きで、「祇園会引き屋台併所々道法」とあります部分です。右の画像その部分を切り抜いたものです。 左の画像は世良田略絵図の丸の東の付近を抜粋した図です。カラーペイントで囲まれら道路上に11基の屋台が整列しております。よくご覧になると、整列の屋台の右から2番目、3番目、4番目が小さく書かれてますのが確認できますが、この3基は"かざりやたい"(飾屋台)です。
右の画像の内容は屋台名のリストで、右端から「@上丁 引きやたい A女塚 かざりやたい B境村(現、栄町) かざりやたい >C三ッ木 かざりやたい D上新田丁 やたい E今井丁 やたい F大門丁 やたい G新町 やたいH南大門丁(現、南八) やたい I下 丁 やたい J下新田丁 やたい」と、なってます。左の絵図の11基の隊列で、A、B、Cが小さく画かれてますのも、この順番を意識してのことと推察できます。
@からJまでの数字は管理者が付加。丁は今の町に相当しますが、現在は行政上の町名としては使われておりません。例えば、八坂神社は太田市世良田町1497番地です。
尚、下段は宿場までの距離を示してます。
この弘化2年(西暦1845)の絵図に示された屋台名の隊列順番は、当時の実際の屋台隊列巡行の順番であり、隊列の先頭は上丁。11基の屋台が勢揃い出来た昭和35年の巡行迄ではこの順番が守られていたそうです。
@の上丁は世良田郷の西の部落であり、常に隊列の先頭になるので、"引きやたい"となってます。A女塚、B境村、C三ッ木の3基は"かざりやたい"となってます。この3基の飾屋台の部落は世良田村の西部を北から南へ流れる早川の対岸の離れた立地の為、この3部落は昭和31年に佐波郡世良田村から分離して、隣町の佐波郡境町と合併しましたが、世良田祇園祭りには3基とも「客屋台」として、従来通りに八坂祇園祭に参加していたのです。
D上新田からJ下新田までは"やたい"となってます。
但し、地元の高橋氏のお話ですと、客屋台の3基が世良田祇園に参加したのは短い期間で、昭和35年の祭迄であったそうです。理由は交通量の増えた国道の屋台運行が不許可となった為、世良田に入って来られなくなり、又、下新田、南大門(現、南八)、今井の3基の屋台も国道を横断して、八坂神社へ出向けなくなって、屋台総数での勢揃いと巡行が出来なくなり、地域毎のバラバラな屋台運行となり、次第に祭りが衰退した。
世良田祇園祭り屋台は「やたい」と「かざり(飾)やたい」とに分けると理解し易い。巡行の際、辻々で歌舞、地芝居を上演したのが"やたい"であり、従って、やたいの構造にも歌舞や芝居が上演出来るように仕掛けが取り付けられていた。それが屋台の側面に取り付けられた「はね板」です(次の項目、"八基の屋台の規模と構造形式"での屋台模型図をご覧下さい)。はね板の上で役者が上演した。
屋台の前室に人形や飾物で飾っただけで、歌舞はやらないのが"かざりやたい"です。従って、"かざりやたい"の大きさは"やたい"より小型です。新町の"やたい"と女塚の"かざりやたい"とで、大きさの比較をしますと、「奥行き」と「間口」でそれぞれ2尺の違いがあります(次の項目、"八基の屋台の規模と構造形式"での解説をご覧下さい)。
絵図に有るように、既に江戸時代の世良田祇園祭りの屋台巡行であっても、世良田郷の西端の部落から東端の部落の順に、"かざりやたい"3台を挟んで、合計11基の屋台が決まった順番を守って、巡行をしていたことが想像できます。以降、世良田祇園の付け祭りの屋台についての記述は、8基の「やたい」を対象とします。