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世良田祇園が復活しました!

このタイトル画像、日時、会場の案内は今年の祇園祭のリーフレットよりコピーしました。

"世良田祇園まつり"の世良田(せらだ)って、何処なの?" 先ずはそのご質問にお答えしましょう。
 このロゴをクリック下さい。

地図ソフト先駆者の"マピオン"で表示された地図が世良田です。地図の真ん中部分、国道354号(京都と日光を結んだ例弊使街道)の交差点の世良田の少し北側の群馬県太田市世良田町1497番地に八坂神社が鎮座してます。

次をクリックして、世良田・八坂神社についてをご覧下さい。

昨年の平成22年の世良田八坂神社祇園まつりは、ハイライトの屋台巡行がスタートする直前に、二時間にも及ぶ激しい雷雨に襲われ、参道から国道までが溢れた雨水で冠水し、やむなく中止になってしまいました。又、日中も雷雨を警戒してか、巡行支度の済んだ屋台には保護シートが被され、撮影も出来ぬ状態で終わってしまったので、今年の世良田祇園祭に期待を持って、7月23日(日)の正午、世良田町へ乗り込みました。

平成22年の暮れ、ローカル新聞の上毛新聞に世良田の祇園まつりの記事が掲載されました。

上毛新聞は朝刊のみの発行で、発行部数は約31万部。群馬県内普及率は4割を越え、読売新聞や朝日新聞を抑えて最も購読されている。関東の地方紙としては、栃木県の下野新聞とともに、発行地域内で全国紙を上回るシェアを持つ数少ない新聞です。Wikipedia参照

管理者が昨年の世良田八坂神社祇園祭で世良田町を訪問した時、地元の方から祇園祭の復活の話しが始まっていると聞いておりました。四年掛かりで行った世良田屋台8基の解体改修が平成21年で全て完了し、台座、車輪、飾り金具に至るまで、部材の改修が成り、彩色見栄えが一新し見事に世良田屋台が蘇っているのだから、大勢の町の人達に観てもらい、知ってもらうことは大事であり、その為には、地域毎にバラバラに運行している屋台巡行を8基が勢揃いする祇園祭に変えて行くべきで、今がそのチャンスだと話しておりました。

上毛新聞の記事は祭関係者の努力で、平成23年の祭から伝統ある八坂神社祇園祭が「世良田祇園まつり」として、再スタートすると云うニュースであり、祭大好き者には大歓迎の報道でした。本来、八坂神社祇園祭は神輿に乗られた祭神が旅所を訪れ、氏子地域を神幸し、還御する神輿まつりであり、その祭の"付けまつり"として、曳きもの屋台の巡行が行われるのですから、今年の祭で久しぶりに発行された祇園祭のリーフレット(このページの冒頭のタイトルの画像)のタイトルが「世良田祇園まつり」となって、行政センターの文言が入りながら、八坂神社の文言が無くなってます。主催の「世良田祇園まつり実行委員会」には、一部行政が参画し、助成もするわけですから、寺社名を避けたいのは仕方の無いことと管理者は思います。

京都の祇園祭りでも山鉾巡行は、山鉾を持つ町は例えば「財団法人・南観音山保存会」とか、「財団法人・長刀鉾保存会」などの組織を持ち、その上の「財団法人・祇園祭山鉾連合会」が京都市から毎年助成金を受け、各山鉾保存会に配分し、各山鉾町はその助成金で山鉾の巡行をしてます。京都八坂神社は神輿渡御を実行するだけで、山鉾巡行には一切関わりを持っておりません。

次の手書きマップは世良田町の主要の道路と建物、8基の屋台の待機場所、旅所を示します。

次に掲示させて頂いた絵図は、管理者が、平成22年の世良田祇園祭りの開催日の数日前に訪問申し上げた高橋氏より頂いた「上毛新田 世良田略絵図」です。高橋氏は、地元世良田町にお住まいで、古美術画廊「堀江」を経営なされながら、画廊内に「世良田村歴史資料室」を設置して、中世の武将新田氏の興亡を研究なされておられる「新田史研究会」世良田支部長の高橋宗二氏です。

画像をクリックしますと、拡大します。丸十のマウスポイントが出ていましたら、もう一度クリックします。拡大画面の左上の←(戻る)をクリックして、本ページに戻ります。


絵図の左下隅の弘化乙巳再記とありますが、120代仁孝天皇の御代の弘化2年(西暦1845)です。この絵図は上が南、下が北になってますから、上下を逆にしてご覧になりますと、本ページの冒頭のマピオンの地図と殆ど同じ街路図です。絵図の下の丸で囲まれた北の直ぐ左脇に牛頭天王と書かれてますのが今の八坂神社です。その位置から絵図の上へ眼を移し、丸の南の右側の木立に囲まれた広い区域が長楽寺と東照宮の境内です。東照宮の世話をした長楽寺の僧坊が境内を囲むように沢山建ってます。

「上毛新田 世良田略絵図」の拡大図をご覧ください。絵図の左上に縦書きで、「祇園会引き屋台併所々道法」とあります部分です。右の画像その部分を切り抜いたものです。

 左の画像は世良田略絵図の丸の東の付近を抜粋した図です。カラーペイントで囲まれら道路上に11基の屋台が整列しております。よくご覧になると、整列の屋台の右から2番目、3番目、4番目が小さく書かれてますのが確認できますが、この3基は"かざりやたい"(飾屋台)です。

 右の画像の内容は屋台名のリストで、右端から「@上丁 引きやたい A女塚 かざりやたい B境村(現、栄町) かざりやたい >C三ッ木 かざりやたい D上新田丁 やたい E今井丁 やたい F大門丁 やたい G新町 やたいH南大門丁(現、南八) やたい I下 丁 やたい J下新田丁 やたい」と、なってます。左の絵図の11基の隊列で、A、B、Cが小さく画かれてますのも、この順番を意識してのことと推察できます。

@からJまでの数字は管理者が付加。丁は今の町に相当しますが、現在は行政上の町名としては使われておりません。例えば、八坂神社は太田市世良田町1497番地です。
尚、下段は宿場までの距離を示してます。

この弘化2年(西暦1845)の絵図に示された屋台名の隊列順番は、当時の実際の屋台隊列巡行の順番であり、隊列の先頭は上丁。11基の屋台が勢揃い出来た昭和35年の巡行迄ではこの順番が守られていたそうです。

@の上丁は世良田郷の西の部落であり、常に隊列の先頭になるので、"引きやたい"となってます。A女塚、B境村、C三ッ木の3基は"かざりやたい"となってます。この3基の飾屋台の部落は世良田村の西部を北から南へ流れる早川の対岸の離れた立地の為、この3部落は昭和31年に佐波郡世良田村から分離して、隣町の佐波郡境町と合併しましたが、世良田祇園祭りには3基とも「客屋台」として、従来通りに八坂祇園祭に参加していたのです。

D上新田からJ下新田までは"やたい"となってます。

但し、地元の高橋氏のお話ですと、客屋台の3基が世良田祇園に参加したのは短い期間で、昭和35年の祭迄であったそうです。理由は交通量の増えた国道の屋台運行が不許可となった為、世良田に入って来られなくなり、又、下新田、南大門(現、南八)、今井の3基の屋台も国道を横断して、八坂神社へ出向けなくなって、屋台総数での勢揃いと巡行が出来なくなり、地域毎のバラバラな屋台運行となり、次第に祭りが衰退した。

世良田祇園祭り屋台は「やたい」と「かざり(飾)やたい」とに分けると理解し易い。巡行の際、辻々で歌舞、地芝居を上演したのが"やたい"であり、従って、やたいの構造にも歌舞や芝居が上演出来るように仕掛けが取り付けられていた。それが屋台の側面に取り付けられた「はね板」です(次の項目、"八基の屋台の規模と構造形式"での屋台模型図をご覧下さい)。はね板の上で役者が上演した。

屋台の前室に人形や飾物で飾っただけで、歌舞はやらないのが"かざりやたい"です。従って、"かざりやたい"の大きさは"やたい"より小型です。新町の"やたい"と女塚の"かざりやたい"とで、大きさの比較をしますと、「奥行き」と「間口」でそれぞれ2尺の違いがあります(次の項目、"八基の屋台の規模と構造形式"での解説をご覧下さい)。

絵図に有るように、既に江戸時代の世良田祇園祭りの屋台巡行であっても、世良田郷の西端の部落から東端の部落の順に、"かざりやたい"3台を挟んで、合計11基の屋台が決まった順番を守って、巡行をしていたことが想像できます。以降、世良田祇園の付け祭りの屋台についての記述は、8基の「やたい」を対象とします。


"世良田祇園まつり"八基の屋台の規模と構造形式
世良田祇園祭りに曳き出された祭り屋台の情報を探しておりましたところ、太田市教育委員会文化財課さんの御好意により、日本建築学会の調査資料が拝見でき、世良田祇園祭り屋台の貴重な情報を得ることが出来ました。
次に報告致します。

<ご連絡>下表の世良田祇園屋台寸法図と構造に関する記述は全て、日本建築学会関東支部研究報告集2001の「世良田祇園屋台の構造と性格」(米田圭介、黒津高行両氏著)より参照、コピーし、掲載致しました。

世良田屋台って、どんな"屋台"なのかな?

屋台の外形・外装

仕 様

上の画像は上町です。上町屋台の外形寸法は、上記の"八基の
屋台の規模と構造形式"建築学会
関東支部の調査数値を転載。
@奥行 18.3尺(5.5m) A間口 9.0尺(2.7m)
B棟高 15.0尺(4.5m)C 床高 5.7尺(1.7m)
D車輪径 4.3尺(1.3m)

世良田屋台は平面寸法、棟高、床高が各屋台とも同寸法か、僅かな違いで殆ど同型に近い。但し今井屋台は大正初期に焼失し、現屋台は近隣の木崎仲町から購入したもので、世良田型の他の7基より棟高が30センチ程高い。

今年の祇園祭のリーフレットに掲載されている世良田屋台8基の外形寸法の一覧表ですので、クリックしてご覧下さい。

「上毛新田 世良田略絵図」の拡大図をご覧ください。絵図の左上に縦書きで、「祇園会引き屋台併所々道法」とあります部分です。この弘化2年(西暦1845)の絵図に示された屋台名の配列順番は、そのまま当時は勿論、この順番は昭和35年迄の祭まで守られていたそうです。上丁は今の上町です。上丁は世良田郷の西の部落であり、常に隊列の先頭になるので、"引きやたい"となってます。

屋根の正面を飾る破風は鬼板、懸魚の彫刻が精緻で、彩色が豪華な唐破風です。屋台巡行の先頭の上町と最後尾の下新田の2基は、前面だけでなく、背面も唐破風であるが、他の屋台は背面の破風が飾りの無い切り破風です。世良田屋台8基の正面の唐破風の概要は外形寸法一覧表をご覧下さい。世良田祇園まつりの屋台は隊列巡行の順番が決まっていて、先頭は上町、最後尾は下新田と決まっております。この上町と下新田の屋台の破風は正面と背面ともが唐破風です。但し、今井は先代の屋台が焼失してしまい、今の屋台は隣町の木崎仲町から購入した屋台の為、本来の世良田祇園屋台の形式ではない正面と背面ともが唐破風です。 

豊かに彩色された彫刻は鬼板、懸魚、妻飾り欄間軒下と木鼻など屋台上部に集中してます。

「はね板」は"張出舞台"です。
幅が4尺(120p)の「はね板」は、屋台側面の幅一杯に軸吊されていて、これを外側に水平に倒して跳ね出すと、その分、床が両側に拡張される仕掛けです。
はね板を90°開閉する為の軸受けは2種類あり、扉の蝶番の様に"はね板"の枠に雄の金具を付け、屋台の側面の床框(とこがまち)に雌の金具を設ける方法と屋台四隅の柱に藁座(わらざ)を設け、藁座(わらざ)に「はね板」の両端の軸を差し込んで固定する。上町の「はね板」の軸受けは前者です。

世良田祇園祭りの屋台は"やたい"と"かざり(飾)やたい"とに分けられる。巡行の際、辻々で歌舞、地芝居を上演したのが"やたい"であり、従って、やたいの構造には歌舞や芝居が上演出来るように舞台を拡大する仕掛けが取り付けられていた。それが屋台の側面に取り付けられた「はね板」です。

"八基の屋台の規模と構造形式"をクリックして、屋台平面図で「はね板」の位置をご確認さい。「はね板」で広くなった舞台の上で役者が上演した。"かざり(飾)やたい"は役者の上演は無く、「はね板」も無く、舞台を人形や花で飾った。

祭り当日、8基の屋台とその屋台倉の中を直に観察して、「はね板」が屋台倉に保管されてあるか否かを確かめた結果は次の通りです。

「はね板」保管有りが上町、上新田、新町、大門、下町、下新田の6町で、「はね板」保管無しが今井、南八の2町です。保管されている「はね板」は、どの町のものも傷の無い新品同様ですから、屋台修復時に造り直したものと判断できます。将来、この「はね板」を迫り出して、昔ながらに屋台の上で歌舞が行われたら、楽しいですね。

南八の台輪です。尺幅の樫の木を十字形に組んで、鋼材とボルトで締め付ける台輪の作り方は改修した全山車に共通。各屋台の車輪径は世良田屋台8基の外形寸法一覧表でご覧下さい。

下新田の正面の台輪を持ち上げるハンド・フォークリフトです。四輪固定の曳きものは、方向変更、転回には前輪を引き摺るか、前輪を上に持ち上げるしかありません。前輪を持ち上げるには、梃子棒を使うか、機械のジャッキを使うしかありません。ハンドフォークは車輪が付いていて、前輪をジャッキアップしたままで方向変更の移動が可能なので便利です。方向変更が済んだら、ハンドフォークは外します。世良田八基の屋台の全てが使用してます。



屋台の内装・装備

仕 様

「ざしき」と呼ばれる"縁台"
屋台の中央間仕切りには、屋台本体とは別に組み立てられた縁台が設けられ、"はね板"で広くなった舞台には背景を演出する色彩豊かな襖が、縁台の周囲に立てられ、役者が芝居や舞をした。

世良田の8基の屋台の全てに「はね板」が設備されていた同様に、芝居や舞の舞台背景として各屋台には"縁台"が設置されていた。舞台背景として彩色豊富な襖絵が縁台を中心に左右に並べられたそうです。今年の祭で8基の屋台を確認したところ、"縁台"が舞台に設置されていた屋台は上町、大門、新町、下新田の4基だけでした。今井は"縁台"を屋台に載せずに、屋台倉の中に保管しておりました。昨年の祭では縁台は載せてありました。何故、載せないかと尋ねたら、お囃子衆以外の子供が沢山、屋台に乗せるので、との答えでした。今井と同様に"縁台"を載せて無い上新田と南八と下町の3基は、それぞれの屋台倉にも"縁台"が保管されておりませんでした。

今井屋台に乗せずに今井の屋台倉に保管されている"縁台"。

世良田屋台の後部は楽屋となる。南八屋台の背面には、楽屋の目隠し的な引き戸を立てた。

世良田下町屋台の前室に限って縁起絵の入って格子天井(ごうしてんじょう)が張ってあります。日本建築学会関東支部研究報告集2001の「世良田祇園屋台の構造と性格」(米田圭介、黒津高行両氏著)の記述に、下町の格子天井に「安政午林鐘 応需林甫」の墨書があり、安政5年(1858)6月に林甫(中村林助)による彩色が完了した、とあります。後室は垂木(たるき)天井です。

世良田屋台の天井は棟から軒に垂木(たるき)を渡す垂木天井です。

世良田屋台の舞台の両側面、前柱、中柱、後柱に丸木が渡してあります。紅白布を巻いた新町の手すり棒。「はね板」を載せて、「はね板」を拡げた舞台で芝居や舞を行うには不用な横木、手すりですが、芝居や舞を行わない現状では、舞台に乗せた子供達が掴まる安全棒になってます。

この新町屋台の側面の画像を覧てますと、この安全棒の下に「はね板」が舞台と同一面になる様に水平に張り出された姿が想像できます。祇園屋台の巡行の辻々で、芝居や舞がこの屋台の舞台と張り出し舞台の「はね板」の上で行なわれていた昔の世良田祇園屋台の様子が思い浮かんで参ります。



8基の屋台

仕 様

上町の屋台

江戸期の上毛新田世良田絵図にあるように世良田の祇園会の 屋台11基の屋台巡行の隊列順番は決まっており、常に巡行の先頭を受け持ったのが上町でした。この上町と隊列最後尾の下新田の屋台の破風は正面と背面ともが唐破風です。本来の世良田祇園屋台11基の形式は、先頭と最後尾の屋台は正面と背面ともが唐破風で、他の9基の屋台は正面が唐破風で、背面は切り破風です(但し、今井屋台は大正初めに焼失、隣村から購入した今の屋台は正面、背面とも唐破風です。焼失前の今井屋台の破風は正面は唐破風、背面は切り破風であったろうと想像します)。

上新田の屋台

日本建築学会関東支部研究報告集2001の「世良田祇園屋台の構造と性格」(米田圭介、黒津高行両氏著)の中の「世良田祇園屋台の製作年代と製作者」の記述で、上新田屋台について、@製作年代:安政3年(1856)4月 A製作者:「淵名村住人彫物師音八郎 B根拠:正面の懸魚と背面妻飾りに墨書 とあります。防雨シートが懸けられていて、屋根の唐破風が隠れています。

今井の屋台 

平成22年の世良田祇園まつりで、管理者が撮った今井の屋台。"縁台"が舞台に載っております。

今井の屋台 

平成23年の世良田祇園まつりでの今井の屋台。"縁台"が舞台に載っておりません。

今井の屋台 

背面からの撮影の画像ですが、屋根は唐破風です。今井は先代の屋台が焼失してしまい、今の屋台は隣町の木崎仲町から大正初期に購入した屋台だそうです。背面の破風も唐破風です。

大門の屋台 

正面の画像です。屋根は唐破風です。

大門の屋台 

大門の背面の画像です。屋根は切り破風です。背面にお囃子の太鼓が設置されてます。

新町の屋台

日本建築学会関東支部研究報告集2001の「世良田祇園屋台の構造と性格」(米田圭介、黒津高行両氏著)に掲載されてます「世良田祇園屋台の製作年代と製作者」の中で、新町屋台について、「@製作年代:文政4年(1821)6月 A製作者:「武州飯積村住人四代之工棟梁常衛門 B根拠:正面の妻飾りの陰刻」、とあります。8基の屋台の中で、最も古い屋台。

南八の屋台

日本建築学会関東支部研究報告集2001の「世良田祇園屋台の構造と性格」(米田圭介、黒津高行両氏著)に掲載されてます「世良田祇園屋台の製作年代と製作者」の中で、南八屋台の正面欄間の裏面に「明治二十一年再興 絵方彩色 大田街 中村年雄 仕手 清水新平 同所 塗師 長谷川善蔵」の墨書があり、南八会館蔵の「家台彩色費備録」の記述内容から、欄間墨書の再興とは「明治21年11月3日に彩色の修理が行われたと考える、とあります。

下町の屋台

下町屋台の前室に限って縁起絵の入って格子天井(ごうしてんじょう)が張ってあります。日本建築学会関東支部研究報告集2001の記述に、格子天井に「安政午林鐘 応需林甫」の墨書があり、安政5年(1858)6月に林甫(中村林助)による彩色が完了した、とあります。

下町の屋台

日本建築学会関東支部研究報告集2001の「世良田祇園屋台の構造と性格」(米田圭介、黒津高行両氏著)に掲載されてます「世良田祇園屋台の製作年代と製作者」の中で、下町屋台は安政4年(1857)9月の「屋台再色書掛覚書帳」によると、屋台の彫刻や飾り金具の新規追加、彫刻の彩色などの修理を行っており、「屋台普請諸掛覚帳控」の記述から安政5年(1858)6月に、屋台の上棟式を挙行したことがわかる、とあります。

下新田の屋台  正面

屋台隊列巡行の最後尾を常に担当する下新田屋台の屋根の破風は正面、背面とも唐破風です。同様に、隊列巡行の先頭を担当する上町屋台の屋根の破風は正面、背面とも唐破風です。

下新田の屋台  背面

本ページの冒頭でご紹介しました「上毛 新田 世良田略絵図」で、街道に整列する11基の屋台をご覧ください。屋台隊列は街道を下丁、中丁、上丁と進んで、総持寺に到着すると、上って来た街道を隊列をそのままで下るには、下新田が先頭になることが合理的ではなかったかと思います。その為に破風を正面、背面とも唐破風にしたのでは、と云うのはあくまでも管理者の勝手な想像です。


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