踊り屋台正面の左右の向拝柱(ごはいばしら)には、見事と申し上げる以外に表現のできない昇り竜、降り竜の彫刻が、橋場町の踊り屋台を観る人達の眼を釘付けにします。右が昇り竜、左が降り竜です。龍をクリックしますと、拡大しますので、彫りの細部迄ご覧になれます。「新町史」の記述に、「明治16年、東京上野より新町まで鉄道が開通することになり、開通記念の大祭を開催 するため、新町各町内が活気づいた。前年の15年に仲町が人形山車、橋場町が踊り屋台を、同時に新調したほか、各町内もそれぞれ屋台を調えた」とありますが、新町の町中を流れる神奈川を国道17号(中山道)で渡ると埼玉県本庄市、JR高崎線では新町駅から上り二つ目が本庄駅ですから、新町と本庄の両町は、明治16年の鉄道開通は全く同じ出来事、慶事であったわけです。
絵守すみよし著"原舟月三代の記"に、舟月は「明治15年(1882)には、埼玉県本庄市の宮本町の人形山車を請け負い、人形は「日本武尊」(山車とともに現存)で、山車上段の四方幕は雲龍図を三代目が描き、神田玉亀が刺繍している」と、あります。
鉄道開通を待つ沿線の町、村の住民にとっては、生涯の最高の慶事であって、祝賀祭りの山車・屋台の新調を競っていた様子が伺えます。三代記によれば、本庄の宮本町の世話役と舟月との間で取り交わした山車作製依頼の契約書や、山車製作に関わる書簡がいくつも現存しており、その中に8月22日付けには、当年の祭に山車を間に合わせるため、舟月が手抜きをするのではとの本庄世話人の心配に、舟月が手抜きはせずにご注文通りに造る、と応えているほどで、隣り同士の新町と本庄は競って祭りの準備をしていたのではと、想像できます。
明治15年に、新町仲町の人形山車と踊り屋台の製作を同時に、時の名士、三代目原舟月が請け負ったという事実を考えると、当時の新町の町民の生活基盤の蓄積の裏付けが想像できます。江戸初期からの有力宿場町で、蓄えもあったからと推察できます。