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 三陸の大津波被災地を訪問しました。<石巻漁港編>

掲載しました地図は、2012年9月11日(火曜日)、読売新聞・東京朝刊34ページに載った東日本大震災1年6か月のタイトルの特集記事のなかの地図をコピー致したものです。図中の濃い方形の数は死亡者、薄い方形の数は不明者を示すと注釈があります。

石巻漁港を訪問

この地図は、昭文社発行 県別マップル道路地図 宮城県版p52より抜粋コピーしたものです。
石巻湾から襲った津波は、この地図の示す殆どの地域に浸水し、建造物を破壊し、多くの犠牲者を生み出しました。上の画像は旧北上川を遡る津波。 石巻市の三陸河北新報社発行の「大津波襲来・石巻地方の記録」の写真集の中の"内海橋を乗り越えて、川を遡る大津波"のタイトルの凄惨な写真のひとつを転載させて貰いました。

二日目、9月5日(水曜日)5日朝、6時26分発の仙石線、石巻行き快速に乗車。 石巻は漁港の町と承知しておりました。今次の東日本大震災前までは、水揚げ岸壁の長さと魚市場の建物の大きさは、いずれも日本一を誇り、水揚げ量、水揚げ高ともに日本有数の大漁港と聞いておりました。5日、石巻地域の大きな津波被災地でもある石巻漁港へ、最初に訪問するつもりで、それも早朝に出掛けた理由は、漁港での朝のセリの様子と、漁船の岸壁での水揚げの様子が見たかったからです。その後、津波被災地の様子を見聞させて貰う計画でした。

これから、初めての石巻漁港の見学の様子を御知らせ致します。

これから報告致します漁港の見学の後に、地図の湊、明神、街並の三町を歩きました。加工団地の県道を日和大橋の手前で右折して、明神町に入りました。住宅地の道路には、車や人通りは全くなく、雑草が道に倒れかかるようになっている 先方に、壊滅したままの民家が見えました。 流失か倒壊して、コンクリの基礎だけ残した空き地が道の両側に続いておりました。一年半を経過した今、新築の家や、新築工事中の家が一軒も見当たらないのは、町の再建計画など、行政上の問題があり、手がつけられないのかも知れません。

尚、以下の画像のご説明文の最後に、☆があります画像は、クリックしますと拡大します。

画像の左側の白いテント張りの建物が魚市場です。加工団地は、市場の北側の県道の両側に工場が並んでますが、大津波から一年半が経っても、被害を受けた当時の破壊されたままの姿でした。加工工場は、どこか別の所で操業しているのでしょう、市場の駐車場には十数台の大型トラックが待機してました。民家と同じで、国や県の行政の震災復興、再建計画が決まらないから、放置されているのでは、と思いました。☆
311大津波で、魚市場の建屋は潰れてしまい、その場で、現在再建進行中です。長い漁港岸壁が幸いして、岸壁の西寄りの別の位置に、骨組みシート張りの仮建屋を建てて、市場は再開してます。☆
出港待ちと思われるイカ釣り漁船が十隻ほど、並んで係留されておりました。甲板には、沢山の集魚灯が吊り下げられており、海なし県育ちの管理者には、とても興味を感じました。☆
一隻の漁船から、サンマの陸揚げ中でした。直径が1メーター半位の網をクレーンで操作して、船底からサンマをすくい上げて、岸壁の受け取り機に移します。待ちかまえた数人の作業員が、サンマを手際よく分別して、フォークリフトで待機する運搬箱に入れ、その上から氷の粒を撒いて運び出す作業は、テキパキとスピード感があり、見ていてとても面白かったです。☆
上の場面を遠くから撮った画像です。魚市場の建屋の前もそうでしたが、カモメが数百羽の大群で集まっており、海面だけでなく、陸の建屋の屋根、電線の上、駐車中の車の屋根にも停まって、こぼれ魚を狙って、飛びまわり、その鳴き声は騒音を超えておりました。☆
放射性セシウムの暫定規制値に基ずく測定。陸揚げ作業の片隅で、検体を慎重に測定する担当者。データーを厳重に管理し、万一の時に、大事な証拠になりますので、厄介な事ですが頑張って欲しいと思いました。☆
石巻漁港の様子の一部をビデオmp4にしました。
石巻漁港
をクリックして、ご覧下さい。
 

 


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