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川 越

"川越山車まつり"

 10月18日(土)に、川越へ行って参りました。翌日19日の方が、祭りは最高潮 で面白いと思いつつ、同行したいという家内の都合もあって、初日の訪問となりました。

 川越市は以前、仕事の関係で何度か行ったことがありましたが、街の中を歩くのは初 めてでした。JR駅でお祭りの案内のパンフレットが貰えましたので助かりました。 佐原の時もそうでしたが、伝統があって、観光客が押し掛ける有名なお祭りがあるとこ ろは、サービスが好いですね。道路地図は勿論、各町内の山車の紹介の写真と解説が載 っている立派なもので、大変参考になりました。流石が、北の小江戸といわれほど繁栄 した城下町、今も江戸情緒を残す蔵の町、川越は、自分たちの祭りに自信と誇りを持っ て、暖かくお客さんを迎えているのが、よくわかりました。

 最初に見ましたのは幸町(元、鍛冶町)の山車でした。私の今一番の関心が、山車の 構造がどうなってるかということもあって、早速、山車のそばによってとくと見させて 貰いました。パンフレットの説明ですと、天保年間に修理をした記録があり、昭和3年 に廻り舞台に大改造したとありましたが、実際にそばで見て、驚いたのは、先ず、山車 が大きいことでした。話には聴いてましたが、昔の神田明神祭り当時の江戸型山車,そ のものなのでしょう。若干、彫刻などの部分部分に傷みが出てましたが、県指定文化財 としての重みを持つ山車でした。

 迫り上がり構造の二層の鉾の上、中、下の高欄は大きく形も良く、各所に貼ってある 飾り彫りの金具や、欄間の鳳凰の彫刻も精巧で、赤と黒の漆に良く映え、上の鉾に張り 廻した幕には龍などの金糸銀糸の刺繍が躍って、絢爛豪華な装いで見応え充分でした。 江戸神田祭り当時の山車を描いた版画には、囃し台に屋根がありませんでしたが、それ を証明するように、この幸町の山車の囃し台には唐破風の屋根はありませんでした。

 4輪の台車(パンフレットには"せいご台"となってます)の上に、山車の囃し台と、山 車の天辺の人形までの2層の鉾が乗っている型式で、廻り舞台と呼ばれる構造でした。 囃子連中と天狐の面の踊り手が踊っている正面の舞台が90度回転して居て、4輪の台 車と直角になってましたので、廻り舞台の意味がすぐにわかりました。

 その後,対面した外の山車と向き合って、囃しや踊りで叩き合いをする"ひっかわせ" の場面も見ましたが、いとも簡単にスムースに山車の向きを変えられのは、この廻り舞 台の本領発揮でした。おおげさに云えば、固定している4輪の台車の上で、山車の本体 が360度,ぐるりと回転出来るのですね。当然、大きな重量のある山車ですので、大 勢の男衆が回転させるのですが、それにしても、よく考えた構造と感心しました。

 4輪は完全に固定されてますから、山車巡行で方向を変えるのにどうするかを、山車 の側に居た半纏姿の棟梁風の人に尋ねましたら、30トンのジャッキで持ち上げるのさ, との返事でした。これだけでは、実際の場面が想像できなかったのですが、幸い、夕方 5時頃から、宵山の山車揃いが始まり、メイン道路に集合するため山車が動き出したの です。

 連雀町交差点で、左折して中町方向へ進む山車をとくと見させて貰いました。交差点 の真ん中まで進んで山車を止めました。鳶の姿の大人が1人山車の台車の下に潜り込み ました。手慣れた様子で、大きなジャッキを台車の中心あたりに据え付け始めました。 暫くすると台車ごと山車が浮いて、車輪が道路面から10センチ位、離れました。する と、数人の男衆がゆっくりと山車の前後部を斜めに押して、山車の向きを90度、変え るのでした。 わぁー、なるほどなぁ〜,と感心しました。

 囃し台は、どの山車も同じ型式でした。正面向かって右の向拝柱の内側に締太鼓が2 つ、枠に取り付けられ、左の柱に大太鼓が黄色や青の布で縛り付けられてます。そして 、囃し台正面の大太鼓と締太鼓の間の高欄の位置が舞台となって、獅子、狐、ヒョット コ、お多福などの面をつけ、派手な衣装で、身振り、手振りもおもしろおかしく踊って ました。連続の踊りですから、さぞお疲れのことと思いますが、佐原の山車は曳き衆が 踊りを披露するように、山車祭りは踊りがあって、一層、祭りの雰囲気が盛り上がるこ とも認識させられました。

 笛や鉦の人達は囃し台の奥に立って演奏してました。山車囃子は江戸葛西囃子、神田 囃子から引き継いだものだそうですが、同じルーツであると云われているわたしの住む 関東北部の山車囃しとは大変に違いがありました。しかし、神楽の旋律などの影響もあ ったでしょうし、350有余年の長い山車祭りの歴史があっての結果で、今の川越山車祭 りの囃しが存在するのだ、と素直に受け取れば好いことです。

 ここで今回の川越 山車祭りの見学で、実際に私が現場で録音した囃しの音をご披露します。幸町と志多町 の山車が向かい合って、叩き合い(RealAudio,118kb.1分)を見せて呉れたときのも のです。テンポの好い曲で、聴いていると踊り手の身振り、手振りの姿が目の前に浮か んで来ますね。残念ながら曲名は確認出来ませんでした。パンフレットによりますと、 川越祭りの囃しは、文化、文政の時代に江戸から伝わったものであり、どれも源流は、 江戸葛西囃子、神田囃子だ。流儀は王蔵流(おうぞうりゅう)、芝金杉流(しばかなす ぎりゅう)、堤崎流(つつみさきりゅう)に大別される、とありますが、この曲は何流 なのかな? 今後、情報を集めたいと思ってます。

 祭り初日の山車の巡行は各町内の範囲を少し運行する程度で、夕方に各山車が蔵作り の商店が並ぶ江戸情緒の残るメイン道路に集合する宵山までには、かなりの時間の余裕 がありましたので、その間、川越市立博物館へ行きました。運良く博物館では、祭りに 因んで、「川越氷川祭礼の展開」(期間10/4〜11/3)と題する企画展が行われてました 。

 早速、見させて貰いました。展示内容が豊富で、しかも,江戸時代の天下祭りといわ れた江戸山王祭り、神田祭り当時の資料で、東京をはじめ、各地の資料館、図書館、博 物館、神社そして個人で所蔵されているものを集めて、展示をしてました。一部展示替 えで展示されないものをふくめてると83点の資料が期間中、展示されてるそうです。

 各種の彩色祭礼絵巻、絵馬、祭礼図などの資料をひとつひとつ見ながら感じましたの は、昔の日本人は祭りに対する意気込みは高く、山車、屋台の練り物の製作には情熱を 注ぎ込んで、彩色、形なども現代の祭りのものと遜色のない大変、芸術性の高いものを 作っていたことを偲ばせる資料内容でした。資料価値の高いものばかりでした。

 幕末から明治に掛けての山車の囃し台には屋根がなかったことが展示の幾つかの資料 で確認できましたし、加えて、囃し台の締め太鼓の取り付け枠の形や面をつけた踊り手 が描かれている様子が、今の川越の山車と同じであったことは、驚きでした。大きさ、 形などから川越の山車こそ江戸型山車の後継されたものであって、その文化財的価値が 大変高いことがよく理解できました。

 冒頭、申し上げましたように、川越まつりの初日でしたので、出場の全部の山車を見 るには宵山まで残らねばならなかったのですが、帰りのJRの時刻制約もあって、後ろ 髪を引かれる思いで家路につきました。しかし、逆に初日だから山車を側でゆっくり見 ることもできたし、夕方までの待ち時間で博物館を時間を掛けて見学できたので、収穫 は多かったと思ってます。勿論、来年又、見物に行く積もりです。

 

幸町の山車  実際にそばで見て、驚いたのは、先ず、山車が大きいことでした。昔の神田 明神祭り当時の江戸型山車,そのものなのでしょう。正面の舞台が90度回転して居て 、4輪の台車と直角になってましたので、廻り舞台の意味がすぐにわかりまし た。若干、彫刻などの部分部分に傷みが出てましたが、県指定文化財としての重みを持 つ山車でした。人形は小狐丸。県指定文化財。

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志多町の山車 幸町と同様、唐破風の屋根はありません。原型は安政3年、昭和 20年代に二重鉾、廻り舞台の現在の形に改造。迫り上がり構造の二層の鉾の上、中、 下の高欄は大きく形も良く、欄間の彫刻や、各所に貼ってある金属の飾り彫りは精巧で 、黒の漆に良く映えてました。江戸神田祭り当時の山車を描いた版画には、囃し台に屋 根がありませんでしたが、それを証明するように、この志多町や幸町の山車の囃し台に は唐破風の屋根はありませんでした。人形は弁慶。県指定の文化財。

 幸町と志多町の山車が向き合って、囃しや踊りで叩き 合いをする"ひっかわせ"の場面です。スムースに山車の向きを変えられのは、 川越の出しの廻り舞台の本領発揮でした。固定している4輪の台車の上で、山車の本体 が360度,ぐるりと回転出来るのです。当然、大きな重量のある山車ですので、大勢 の男衆が回転させるのですが、それにしても、よく考えた構造と感心しました。

新富町二丁目 の山車 パンフレットの案内では、新富町は山車ではなく"屋台"と紹介している。 平成9年に白木造りで完成。出来立てのほやほや。4輪、廻り舞台で、囃し台と後部の 鉾の上に二段型式の唐破風屋根をもつのが特徴。この写真から廻り舞台の様子がよくわ かると思います。




 




 交差点の真ん中迄進んで、山車を止めました。鳶の姿の大人が1人山車の 台車の下に潜り込みました。手慣れた様子で、大きなジャッキを台車の中心あたりに据 え付け始めました。暫くすると台車ごと山車が浮いて、車輪が道路面から10センチ位、 離れました。すると、数人の男衆がゆっくりと山車の前後部を斜めに押して、山車の 向きを90度、変えるのでした。 わぁー、なるほどなぁ〜,と感心しました。
 
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