"引用文" です


 

千枚分銅

江戸時代に分銅座でつくられ市中に流通した分銅についてみてみよう。そもそも分銅には、金銀などの貴金属を非常備蓄用(多くは軍事用)として大きな繭の形に鋳出す千枚分銅(原材料から金分銅・銀分銅ともいう)と、天秤に掛かる片方の皿の上に乗せて貴金属や薬種などの計量に使用された金銀掛分銅との二種類が存在したが、ここでは、計量に使用された分銅ということで、後者についてみていくことにする。 江戸時代の分銅は例外なく繭型をしており、世界史的にはヴァイオリン型分銅に分類される。表面にはその分銅固有の重量が計数表示され、さらに、製作責任者である後藤四郎兵衛の花押が線刻されるとともに、豊臣秀吉から許可されたという後藤家の家紋である五三桐の極印が押される。 市中に出回った分銅は19種類あった。最大が500目で、順に300目・200目・100目・50目・40目・30目・20目・10目・5匁・4匁・3匁・2匁・1匁・5分(ふん)・4分・3分・2分、そして、最小が1分である。これらのうち500目と300目の分銅はバラで個別に取り扱われ、200目から1分までの17個の分銅はセットでまとめて取り扱われた。後者のセットの組を、揃いで1面または1流と呼んだ。なお、後藤四郎兵衛家には1分以下の極小分銅が5疋・4疋・3疋・2疋・1疋の5個セットで多数存在しているが、これらの法令上の規定が見当たらず、具体的な用途については不明である。 ところで、後藤四郎兵衛家には極小分銅の他に、非常に簡略なつくりの比較的大型の分銅も残されている。形態は繭型であることに変わりはないが、表面に線刻された計数および後藤の姓が、市中に出回った分銅に比べて粗略なのである。ところが、これらの分銅の裏を返してみると「本正」の文字が横に並べて刻まれており、これらの分銅がとりもなおさず基準分銅であることを示している。これを近代風にいえばキログラム原器ということになろうか。基準分銅の厳密な重量計測など本格的調査は、その具体的な使われ方の解明も含めて今後の課題である。 分銅の値段は後藤家からの出願によって幕府勘定方が許可する仕組みになっており、その価額は時代によって変化した。史料の上で確認できる寛文年間以降における分銅の値段の変化を大雑把に追ってみると、江戸時代を通じて寛文年間と正徳4年(1747)の2回ほど値下げを行っているが、その他の改定はすべて値上げである。値下げの理由は原料となる銅の価格低下であった。元文3年(1738)になると分銅の値段は安定し、500目1個が銀18匁3分、300目1個12匁2分、200目以下1面が33匁と定められた。その後百年以上にわたって分銅の値段には変化がなかったから、江戸時代の分銅の値段は元文年間制定の値段をもって代表させてよいかも知れない。しかし、幕末になると、弘化4年以降頻繁に分銅の値上げが行われ、ついには元文年間の値段の2倍半にまで高騰する。なお弘化4年以降の値上げはすべて期限付きであり、1年間〜5年間に限定しての値上げであったが、実際には値上げの期限切れと同時に次の値上げ申請が分銅座から出願されているので、分銅の値段が元文年間の水準に戻ることはなかった。また、弘化年間以降の値段は、すべて、元文年間制定の値段の何割増しにするかという形で改定されている。このことからも、元文年間に制定された値段が江戸時代における分銅価格の基準とみなすことができよう。 分銅の値段を構成した要素は、原料となる銅の相場・吹下値段・工料そして分銅座の利潤である。吹下値段は、吹下職人に支払われる賃金部分である。工料というのは、試方値段あるいは細工料ともいい、分銅の微調整・分銅の重量の計測・極印の押捺という細工方の工程に応じて、毛切料・極印料そして試料として各職人に支払われるべき賃金・手数料部分のことである。これに分銅座としての利益分が加えられて分銅の値段を決定した。 「計量史とは」の後藤四郎米兵衛の分銅家業 より抜粋。 URL http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/baba/baba/study1.html  。
"高岡御車山見聞録"へ戻る