鉾留は、羽根を広げた「胡蝶」で、辻丹甫の構想より飯野仁兵衛が明和元年(1764)に作ったという。大羽根二枚と小羽根二枚を持つ胡蝶。胡蝶は桐材の張り合わせを彫刻して、布着せ、漆塗り、金箔押しした後、仕上げに生漆の拭き漆に
よって金箔を固めている。羽根には補強のために
帯鉄板が埋め込まれている。羽根の模様部分と目には黒漆塗りが施されている(蝶の胴体が画像では花に隠れて見えない)。冊子「高岡御車山」の中の"御車山の工芸"より、抜粋しました。
| 本 座本座は「大黒天」で、頭巾を被り、右手に打ち出 の小槌、左手に袋を持ち、両脇に米俵が置かれている。相座は、からくりで太鼓を打つ「唐子」である。ともに宝暦年間(1751〜63)の辻丹甫の作品である。どの人形の表現も厳しさの中に柔和さを浮かべており、作者の非凡な力量がうかがえる。漆の塗ってない木地に先に彫刻をして、その後に漆作業を行う漆工を、堆朱、堆黒と区別して、擬堆朱、擬堆黒と呼ぶ。擬堆黒(ぎついこく)の高欄は、辻丹甫の作と伝えられ、腰板に山水模様を描き、七宝製の擬宝珠を飾る。高欄の彫刻・塗りとも江戸時代の技術の最高水準を示しており、高岡彫刻漆器 の最高峰とも云えるのである。 |
| 冊子「高岡御車山」は、木舟町を次ぎのように紹介してます。木舟町は、高岡築城に際して、旧木舟城下(福岡町木舟)から移住した人々により作られた町である。 町割に際して、割り当てられたなかで、最上の地を選んだけあって、守山町・木舟町・小馬出町と続く旧北陸道に面する三ケ町は「通筋(とおりすじ)」と呼ばれ、開町以来近年に至るまで高岡の中心地であった。木舟町御車山も、このような町内の由緒にふさわしい華麗なもので、飾り山の細部に至るまで名工の手による工芸品で飾られている。御車山の装飾に使われる美術工芸品としての漆工品が大量に出現したのは、宝暦・明和年代以降である。辻丹甫は、高岡漆器の祖と云われ、明和年代(1764〜71)に京都から擬堆朱(ぎついしゅ)や存星(ぞんせい)などの技法を伝えたと云われる。 御車山においては、木舟町の大黒天・唐子人形などが辻丹甫の作と伝えられ、彫刻と漆芸にそれまでの職人には見られない非凡な技の冴えをみせている。 |
| 幔 幕現在の幔幕は、朱地の綴織に金糸、銀糸で宝珠模 様を刺繍したもので、昭和7年に京都で買い求めたものである。前幕は、緋羅紗地に金糸、銀糸で宝珠模様を刺繍したもので、宵祭の時には山宿前 で地山に取り付けられ展示されている。 以上、本座及び幔幕の解説は、冊子「高岡御車山の中の"木舟町御車山の解説"より抜粋しました。 |