世良田「八坂神社祇園まつり」の歴史

"抜粋引用文"です

引用文献:「郷土芸能と行事 群馬県」著者  萩原 進氏 

 萩原 進 著 「郷土芸能と行事 群馬県」煥乎堂 昭和32年(1957)より抜粋   著者紹介  [萩原 進(はぎわら すすむ、1913年7月23日 - 1997年1月20日)は、日本の歴史 学者である。群馬県吾妻郡長野原町出身。群馬県の郷土史研究に従事。群馬県議会図書室長、 前橋市立図書館長を歴任。1973年 群馬県政功労者 知事表彰 1981年 上毛新聞出版文化特別 賞 1983年 勲五等双光旭日章。wikipedia]

上州の三大祭りといえば、高崎市の小林山の七草(一月六日夜から七日)、利根郡月夜の町 の茂左衛門地蔵祭り(春秋彼岸の中日)と、この世良田の祇園夏祭りである。ことに世良田 の祇園祭りは関東でも指折りの評判のあるにぎやかな祭りで、ことに祇園祭りとしても歴史 が古く、しかもにぎやかさにおいて関東の大祭のひとつとされている。

世良田の祇園は、夏の七月二十五日六日と行われるが、その準備は七月一日から開始され る。七月一日に村の入り口に「八丁じめ」を張る。この「しめ」はすでにこの日から世良田の 宿が祭に入ったことを意味するといわれ、或いは、平安朝時代に、京都の祇園が疫病流行を防 ぐ目的から始められたことから、祇園本来の趣旨が悪疫防除にあるという古い信仰を示すもの かも知れない。

また八坂神社の神職と奉仕者は、大祭に備えての「斉みごと」に入る。七月一日よりヒノキ を以て火打ち石で火を起した浄火をこれからとり、この火で麦飯を炊き、十五日まで神に供え る。また二十五日の祭の終了までは、神職以下一般村民も悉く精進潔斉して、殺生を戒め、魚 鳥獣肉などを摂らないことにしていたが、現在はその習俗も大分こわれてきた。

祭の次第は本殿からの神体のを二つの御輿に移すいわゆる御輿の渡御に始まる。神が神殿を 出てその氏子の村をめぐるという習俗は古いものであろうが、八坂神社の祭はこれを「神幸式」 と呼んでいる。

神幸式は二回に亘って行われるが、第一回を七月十五日(以前は六月七日)に行う。これを 「神事始め」と呼んでいる。俗に「ご隠居さま祭」(ごいんきょさま祭)と呼んでいる。これ に対して七月二十五日(以前は六月十五日)の祭を本祭と呼び、又の名を「当住様祭」(とう じゅうさま祭)という。このように、隠居、当住と呼ぶに至ったのは、八坂神社に二つの御輿 があり、古いものをご隠居様と呼び、新しいのを当住様と呼んで、十五日にご隠居の方が出御 し、二十五日に当住様が出御するからである。隠居と当住というのは家族制度の隠居したもの を隠居、その後の当主を当住という。ご隠居の方が格が上というか先代である。先の祭であり 後の祭りであろうか。

七月十五日のご隠居様祭りは、七月十五日の夜に始まる。当夜は神職神社総代や関係者が参 列して拝殿で神事を執り行い、やがて神体を御輿に移した後、輿丁数十人によって持たれ、氏子 区域一円を巡る渡御を行い、終わるとかねて設けてある「お旅所」に安置されて、二十五日の祭 まで毎日供物を捧げられる。二十五日の早暁に本殿に還御する。

七月二十五日は当住様の御輿が出御するが、この時の助け屋台が世良田村の上町、下町、上新田、 今井、新町、大門、南八、下新田の各宿から出され、それぞれ村の若い衆が乗り、装をこらし、 屋台囃子も賑やかに繰り出す。 

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