Sory,Japanese only.



寄居町の一本柱形式の山車と笠鉾の構造について


 寄居町指定文化財の茅町の山車

 寄居町の山車を特徴づけているのが、一本柱です。管理者が日頃、御指導を仰ぐ山車祭研究者のお話では、寄居では江戸時代前期頃から、鎮守宗像神社の例大祭で、寄居独自の形式の笠鉾の曳行があったことを示す文献が残っておるそうで、それに拠ると、寄居秋祭りでは先ず、笠鉾が造られ、時代が下がるにつれて踊り屋台や山車が加わったと考えられる。当時の笠鉾が現存する笠鉾の祖先と想像できるが、江戸系か京都系の笠鉾だったかは資料が皆無なため、不明とのことです。文献の字句から車が付いていたことは確かであろうとのことです。今の寄居秋まつりでは、この一本柱構造の宮本区、常木区の2基の笠鉾と、同じく一本柱構造の茅町、栄町、武町の山車3基と、一本柱でない別構造の花町の笠鉾1基と本町、中町の山車2基で、総計8基の寄居独自の形の進化した山車・笠鉾が街を練りあるく様は、他所では見られない独特の雰囲気を醸し出しております。

山車・笠鉾最上部の台座について

 茅町の山車の最上部の台座。台座の周囲には勾欄を廻して、下には四方幕を吊る。四方幕は緋羅紗に鳳凰の刺繍である。この台座は、車軸が付く車台(シャーシ)中央に立つ一本柱で支えられ、その柱を取り囲むように四本柱が立つ。四本柱から持ち送り(横へ突き出た腕木)が四隅へ上下二段に出て、提灯掛けを受ける。四本柱の上部の欄間には雲に鶴の彫刻がはめられている。総体の黒漆に飾り金具が映え、寄居型山車独特の細身の優美な上半身を形づくっている。最上部の台座では太鼓に乗った諫鼓鶏が大きく翼を拡げる・・・、これが本来の諫鼓鶏山車の姿ですが、電線架設後は、鶏でなく、宗像神社の万度(まんど)が掲げられている。
 一本柱で支えられる最上部の台座の勾欄が四方面の形式は、この茅町の山車だけです。


 栄町の山車です。人形が乗る台座は関東では極めて珍しい六角形をしており、周囲には擬宝珠勾欄を廻して、六角台座の六面の欄間には牡丹に唐草の彫刻、雲の彫刻を交互にはめてある。下には六方幕を吊る。六方幕は緋羅紗に鶴の刺繍である。六角の台座は、車軸が付く車台中央に立つ一本柱で支えられ、その柱を取り囲むように四本柱が立つ。四本柱からは雲の彫刻を施した持ち送りが、四隅へ上下二段に出て提灯掛けを受ける。四面の提灯掛けの前と後には飛龍、左右には龍の彫刻がからみ、一段と豪華になっている。四本柱の上部には、雲に鶴の欄間彫刻が、下部の蹴込は波の彫刻である。


栄町と同じ一本柱の六角台座形式の武町の山車です。漆塗りに飾り金具打ち、極彩色の彫刻を飾った豪華な山車です。台座は六面の擬宝珠勾欄、六方幕は緋羅紗に蕪(かぶ)の刺繍。雲に鳳凰の欄間彫刻、波に飛龍の蹴込彫刻。上段が雲に飛龍、下段が雲の持ち送り彫刻。茅町、栄町と同様に、細身が美しい寄居型一本柱山車です。


宮本区の笠鉾です。漆塗りに金具打ち、極彩色の彫刻を飾った寄居型笠鉾です。最上部には榊と万度が飾られ、万度の下には一層の笠がある。笠には緋の水引幕を吊る。笠の軸部には造り花を上向きに差込、周囲へ放射状に垂らしている。笠は車台中央に立つ一本柱に取り付いており、その柱を囲むように四本柱が立つ。四本柱からは雲に龍(上段)と波(下段)の彫刻が施された持ち送りが出て、提灯掛けを受ける。四本柱の下部には蹴込彫刻がはめられる。言い換えれば、一本柱の先端に、勾欄を廻した台座を載せたのが茅町や栄町の寄居型山車で、台座でなく笠をもつ万度を載せ、笠の頭から造花を放射状に垂らしたのが寄居型笠鉾と云えます。笠鉾から山車への進化が感じられます。宮本区の外に、常木区がこの形式の笠鉾です。

中間部の囃子台について

 車軸の付く車台(シャーシ)から高さで二尺位上に床(土台)を設けて、その床の四本柱に囲まれた空間が囃子台です。この様式は、寄居型山車・笠鉾に共通する構造です。囃子台の中央を一本柱が貫通し、一本柱を囲む四本柱の下部の持ち送りと囃子台の床(土台)との間の蹴込(けこみ)部分には彫刻がはめられている。茅町の蹴込彫刻は雲と唐獅子です。床(土台)周囲には勾欄が廻る。この山車の勾欄は、平桁上に組み物を置き、架木を受ける手の込んだ造りで、漆に飾り金具が映える立派な勾欄に仕上げてある。江戸時代初期の一本柱形式の曳き山を継承した文化財的意義の高い山車です。すり鉦が吊される囃子台には、大太鼓1、小太鼓2が並ぶ。

 左 武町の囃子台。右 栄町。ともに一本柱が中央を貫通して立つ。


腰廻りの組み物と彫刻について

 勾欄を廻した囃子台の床(土台)下から車軸が付く車台(シャーシ)迄の間を腰回りと、ここでは呼ぶ。腰回りは組物と腰支輪で重厚な腰組に仕上がっている。腰組の飾りは、車台に立つ四本柱の外側に別な柱を設けて支え、その外側柱にも彫刻を施して、一段と豪華になっている。腰組の下には緋羅紗の腰幕を吊す。車台は現在は三輪であるが、大正末頃迄は二輪だったという。三輪に改造時に、一輪上部に荷台が設けられた。

 ここでは、寄居町から文化財に指定されている茅町山車の腰回りの組み物と彫刻をご紹介します。 


茅町山車の腰組の外柱を飾る精巧な彫刻 "獅子の子落とし"と木鼻の唐獅子。腰組の四隅の外柱に取り付けられている中のひとつで、後ろ右隅の彫刻。


 茅町山車の腰支輪の前面の飛龍(上の画像)と後面の波と龍(下の画像)の彫刻。

 昭和49年4月14日、埼玉県文化財調査委員会の文化財専門調査委員の文化財調査が行われ、茅町山車の白木彫刻、特に腰組・腰支輪の前後面の龍の彫刻は非常に厚みがあり、バックより浮かして彫り上げている点は、大変な技術を要する傑作であるとのの高い評価を受けてます。


高い評価を受ける寄居町山車彫刻

 寄居町の山車、笠鉾に取り付けられている彫刻類は精巧で繊細です。安土桃山の戦国時代に遡る中世から、江戸、明治へと各代を通じて、北関東一帯を支配した領主の活動拠点であった寄居は、各地との文化交流が旺盛であったことは容易に想像できます。各地の優れた彫刻文化が寄居の山車・笠鉾に取り入れられたことも、極く自然のことと思えます。

 寄居町役場のご厚意で入手できた文化財専門家による茅町山車の鑑定調査の報告書の内容をご紹介します。寄居の山車・鉾の優れた彫刻の一端を知ることができます。

 昭和48年12月15日に、寄居町文化財指定申請にもとづく茅町の山車の実物調査が行われた。この調査に引き続いて、翌年の49年4月14日、埼玉県文化財調査委員会の文化財専門調査委員の綿密な調査が行われた。調査終了後の調査員の講評を、寄居町議の長谷川弘一氏が纏めた報告書を、寄居町役場の商工観光課のご好意で入手できました。

 この報告書「寄居町の文化財・茅町閑古鶏」によると、調査委員の見解は、文化財指定の申請資料の記載のにある彫刻師後藤功祐師の関わりについては、寄居町と関係があったとはいえ、当時の日本の彫刻界の最高権威者であった後藤功祐師が直接、寄居の山車製作に手を出して、係り切る余裕はなかったと思われると述べ、確たる物証がないことからして、師が自分に替わるべきものに製作せしめたものだろうとの見解が述べられている。そして、茅町山車の彫刻はその重厚な出来栄えからして、功祐師と交遊のあった上州新田郡尾島村の高沢介之助の作品である、と記述してます。

 報告書は更に、茅町の山車彫刻について、こう記述しております。茅町の白木彫刻、特に前後面の龍の彫刻は非常に厚みがあり、バックより浮かして彫り上げている点は、大変な技術を要する傑作であり、おそらく介之助が功祐師の付託を受け、これに応えべく、金銭を度外視し、一世一代の作品たるべく、精魂を傾けて彫り上げたものであろう。 同時代に近隣の熊谷の河原ケ戸に飯田岩次郎師という彫刻師が居り、当地方随一の技術者として、多くの作品を残されているが、現在では介之助師の方が上だと評価されている。 

 茅町の前後面の龍と両側面の千鳥の彫刻は、近隣の川越の十数台の山車の彫刻、国の指定文化財を受けている秩父の屋台の彫刻に比しても、決して遜色ない出来栄えである。飛騨、富山、石川辺りは昔から彫刻の巨匠を生んだ伝統ある土地柄である。飛騨高山の花車製造に当たり、当時の日本一の彫刻師を広く全国に求めたが、満足すべき者は、なかなか探し得ず、遂に信州の津川和四郎師を探し当て、あの国宝となった花車が造られた。その彫刻は極めて優秀であるが、この茅町の前後面の龍と両側面の千鳥の彫刻は、和四郎師の作品

と較べて何等遜色がないと述べ、花車は、彫刻師だけを取り上げて評価すべきものではなく、花車全体的の観点から之を見るべきものであるが、今日この様な作品を彫る宮彫刻師はいない。この様な深味のある彫刻は、もう出来ないであろう、と報告書は記述しております。
 彫刻は欅(けやき)の"はだ"を見せる所に価値がある。手入には細心の注意を払い、この貴重なる作品を得難き美術品、芸術品として大切に保存して、末代まで是非残して貰う様、努力して下さい、と報告書は結んでおります。
掲載の茅町の龍・千鳥の画像は、祭当日、管理者が撮影した。


上州尾島村の彫り師 高沢介之助について

 管理者の住む上州・群馬の歴史に少し触れさせて下さい。群馬県の東南に位置する新田郡の新田町と尾島町の両町と、その東側に隣接する太田市の一部とを合わせた一帯は、12世紀の初め頃、八幡太郎義家の孫、義重が新田の荘を開き、新田氏の祖となり、子孫には鎌倉幕府倒幕の端緒の武功を立てた新田義貞はじめ、中世に勇名を馳せた武人を輩出した新田氏一族の故郷でした。その一帯は現在、"新田荘遺跡"と呼ばれる国指定史跡になってます。

 新田氏の始祖である義重の子、義季(よしすえ)は親・義重から荘園の一部を譲られ、今の尾島町世良田一帯を世良田郷として開拓し、郷内を流れる利根川流域を徳川と命名し、自らを徳川義季と称した。徳川家康の始祖である。義季より数えて9代目の徳川親氏は南朝側にいたため、勢いを増した北朝側に徳川郷を追われ、三河松平郷に落ち延び、松平姓を名乗った。その7代目が三河を統一した家康であって、世良田郷を開拓した徳川義季にあやかり、徳川に改姓した。

 徳川二代将軍秀忠が造営した日光東照宮を全面改装したの三代将軍家光は、徳川発祥の地の守護神として、旧日光東照宮の多宝塔、唐門、拝殿を世良田の地に移築し、本殿は新造して東照宮を勧請した。世良田東照宮の誕生でした。このように、徳川氏のかかわりが深く、江戸時代を通じて、中央の文化・文物と交流が多かったことなど、寺社造営に欠かせぬ彫刻文化がこの世良田地区を中心とした界隈に発展し、多くの彫り師が江戸初期から中、後期に渡って活躍できた素地があったと思われる。

 上州花輪村(現在の勢多郡東村)は、尾島町の西隣りです。江戸初期に、花輪村出身の彫刻師高松又八郎は、優れた彫刻技術を十数人の門人に受け継がせ、花輪彫刻村の黄金時代を築いた。門人のひとりに石原家があり、初代石原常八が活躍した寛政年間(1751〜1800)頃の花輪村は全国にも類をみない彫物師の里となった。石原常八の二代目常八、石原主信(もとのぶ)の子のひとりに、石原改之助・知信がいた。三代目常八・恒蔵と協力して、各地の社寺に優れた彫刻を残している。

 明治に入り、尾島村(現尾島町)に居を移し石原姓から地名の高沢に改姓して、高沢改之助と称した。尾島三丁目屋台人形・スサノオミコトや中瀬の屋台彫刻などがあるが、尾島阿久津の稲荷神社拝殿の向拝の龍、深谷の鬼子母神社の登り・降り龍、亀岡の亀岡神社など、関東一円に渡って、社寺の彫刻作品が多い。明治18年頃より、宮内庁の仕事を担当。明治24年9月18日、東京にて客死。58歳。

 このページの記述内容のひとつ「高い評価を受ける寄居町山車彫刻」の中で記述しました・・・埼玉県文化財調査委員会の文化財専門調査委員の綿密な調査が行われた。調査終了後の調査員の講評を、寄居町議の長谷川弘一氏が纏めた報告書・・の記述の中で、・・・近隣の熊谷の河ケ戸に飯田岩次郎師という彫刻師が居り、当地方随一の技術者として、多くの作品を残されているが、現在では介之助師の方が上だと評価されている・・・の中にある飯田岩次郎師は、花輪村の初代石原常八の門下生のひとり、飯田仙之助の息子で彫り師飯田家二代目後継ぎで、秩父出身の山車研究家のお話では、夜祭りで名高い秩父の屋台の彫刻も手がけておるほどの彫りの名手であったわけです。その飯田岩次郎師も花輪村出身の彫師でした。同時代に活躍した岩次郎師と改之助は、お互いがよいライバルであったのでしょう。

 以上の"上州尾島村の彫り師 高沢介之助については"、尾島町教育委員会文化財事務所のご好意で提供を受けた「たくみの里・花輪の名彫工 石原常八と星野政八」の冊子と尾島町観光協会のホームページを参照しました。


寄居町の山車総覧
          
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寄居秋まつりでは、@一本柱構造の茅町、武町、栄町の山車3基と同じく一本柱構造の宮本区、常木区の2基の笠鉾、A一本柱でない別構造の本町、中町の山車2基と花町の笠鉾1基とで、総計8基の寄居独自の形で進化した山車・笠鉾が街を練りあるく様は、他所では見られない独特の雰囲気を醸し出しております。

左画像:武町  右画像:栄町

山車天辺の台座は車軸が付く車台中央に立つ一本柱で支えられ、その柱を取り囲むように四本柱が立つ。

後部から眺めた茅町の山車。最上部の台座は一本柱で支える。台座の周囲には勾欄を廻して、下には四方幕を吊る。

本町の山車。最上部の台座は一本柱で支えられのではなく、車軸の付く車台に立つ6本柱に載っている。一本柱形式でなく、四方幕を吊る鉾台形式なれど、四隅の四本柱に施工した上下二段の持ち送りや、腰組の様式は茅町などの寄居一本柱型山車と同じです。

中町の山車。本町と同様に、車台に立つ6柱に鉾台が載る。鉾台を囲むように四本柱が別に立つ。彫刻を施した持ち送りが四本柱から上下二段に四隅へ出ているが、今では提灯掛けを覆うように、胴幕を吊っている。

花町の笠鉾。花町は寄居旧市街の町内で、山車・笠鉾を出していたが、明治17年の大火で全て焼失した。他町のように山車が再建されることもなく、現在の笠鉾は、平成元年に町内の人達の手作りで製作されたもの。

常木区の笠鉾は、漆塗りに金具打ち、極彩色の彫刻を飾った豪華な寄居町型笠鉾です。最上部には榊が立てられ、その下に一層の笠を持ち、笠には緋の水引幕を吊る。

宮本区の笠鉾。常木区と同じで、笠は車台中央に立つ一本柱に取り付いており、その柱を囲むように四本柱が立つ。笠には緋の水引幕。最上部には榊と万度 が飾られ、笠の軸部には造り花を上向きに差込み、周囲へ放射線状に垂らしてます。 四本柱からは彫刻を施した持ち送りが、四隅へ上下2段に出て、提灯掛けを受ける。四本柱の下部に蹴込彫刻がはめられている。腰回りは腰支輪と組物で重厚な腰組に仕上げてます。これらは茅町、武町などの山車と同じ様式と取り入れてます。

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