管理者の住む上州・群馬の歴史に少し触れさせて下さい。群馬県の東南に位置する新田郡の新田町と尾島町の両町と、その東側に隣接する太田市の一部とを合わせた一帯は、12世紀の初め頃、八幡太郎義家の孫、義重が新田の荘を開き、新田氏の祖となり、子孫には鎌倉幕府倒幕の端緒の武功を立てた新田義貞はじめ、中世に勇名を馳せた武人を輩出した新田氏一族の故郷でした。その一帯は現在、"新田荘遺跡"と呼ばれる国指定史跡になってます。 新田氏の始祖である義重の子、義季(よしすえ)は親・義重から荘園の一部を譲られ、今の尾島町世良田一帯を世良田郷として開拓し、郷内を流れる利根川流域を徳川と命名し、自らを徳川義季と称した。徳川家康の始祖である。義季より数えて9代目の徳川親氏は南朝側にいたため、勢いを増した北朝側に徳川郷を追われ、三河松平郷に落ち延び、松平姓を名乗った。その7代目が三河を統一した家康であって、世良田郷を開拓した徳川義季にあやかり、徳川に改姓した。
徳川二代将軍秀忠が造営した日光東照宮を全面改装したの三代将軍家光は、徳川発祥の地の守護神として、旧日光東照宮の多宝塔、唐門、拝殿を世良田の地に移築し、本殿は新造して東照宮を勧請した。世良田東照宮の誕生でした。このように、徳川氏のかかわりが深く、江戸時代を通じて、中央の文化・文物と交流が多かったことなど、寺社造営に欠かせぬ彫刻文化がこの世良田地区を中心とした界隈に発展し、多くの彫り師が江戸初期から中、後期に渡って活躍できた素地があったと思われる。
上州花輪村(現在の勢多郡東村)は、尾島町の西隣りです。江戸初期に、花輪村出身の彫刻師高松又八郎は、優れた彫刻技術を十数人の門人に受け継がせ、花輪彫刻村の黄金時代を築いた。門人のひとりに石原家があり、初代石原常八が活躍した寛政年間(1751〜1800)頃の花輪村は全国にも類をみない彫物師の里となった。石原常八の二代目常八、石原主信(もとのぶ)の子のひとりに、石原改之助・知信がいた。三代目常八・恒蔵と協力して、各地の社寺に優れた彫刻を残している。
明治に入り、尾島村(現尾島町)に居を移し石原姓から地名の高沢に改姓して、高沢改之助と称した。尾島三丁目屋台人形・スサノオミコトや中瀬の屋台彫刻などがあるが、尾島阿久津の稲荷神社拝殿の向拝の龍、深谷の鬼子母神社の登り・降り龍、亀岡の亀岡神社など、関東一円に渡って、社寺の彫刻作品が多い。明治18年頃より、宮内庁の仕事を担当。明治24年9月18日、東京にて客死。58歳。
このページの記述内容のひとつ「高い評価を受ける寄居町山車彫刻」の中で記述しました・・・埼玉県文化財調査委員会の文化財専門調査委員の綿密な調査が行われた。調査終了後の調査員の講評を、寄居町議の長谷川弘一氏が纏めた報告書・・の記述の中で、・・・近隣の熊谷の河ケ戸に飯田岩次郎師という彫刻師が居り、当地方随一の技術者として、多くの作品を残されているが、現在では介之助師の方が上だと評価されている・・・の中にある飯田岩次郎師は、花輪村の初代石原常八の門下生のひとり、飯田仙之助の息子で彫り師飯田家二代目後継ぎで、秩父出身の山車研究家のお話では、夜祭りで名高い秩父の屋台の彫刻も手がけておるほどの彫りの名手であったわけです。その飯田岩次郎師も花輪村出身の彫師でした。同時代に活躍した岩次郎師と改之助は、お互いがよいライバルであったのでしょう。
以上の"上州尾島村の彫り師 高沢介之助については"、尾島町教育委員会文化財事務所のご好意で提供を受けた「たくみの里・花輪の名彫工 石原常八と星野政八」の冊子と尾島町観光協会のホームページを参照しました。