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埼玉県 寄居町 秋まつり の"いっぽんばしら・一本柱山車"の魅力 

 関東各地に現存する祭礼曳山の山車・屋台の中でも異色なのが、寄居町の秋まつりの主役の8基の山車です。

 我が国の祭礼曳き山の歴史に造詣の深い研究家の文献(*注)によりますと、元禄の初期の頃の山王祭りに出た各組(町)の曳山(ひきやま)の一覧表とも云える「祭礼番附」の載った古文書が現存しており、その祭礼番附の中に載っている曳山総数の三分の一の15基が、吹貫(ふきぬき)と書かれた曳山です。吹貫とは旗の一種で、円形もしくは半円形の輪に長い絹の布を張り、竿に付けたもので、戦国時代には戦場での目印として用いられたもので、端午の節句の鯉のぼりの吹き流しの様なものです。2輪の台車の中央に一本柱を立てて、柱の頭にこの吹貫を垂らした構造が吹貫型山車の基本スタイルでした。やがて、吹貫だけでなく柱の先端に鶏や猿の像が乗り、曳行は牛によって牽引されました。柱の先端に笠や万灯を付けたものや、松や竹や花で飾ったものや、一本柱の周囲に支えの骨組みを設け、四角注・円柱状に幕で一本柱を囲んで、吹貫は外してしまった形式、更に一本柱も省いて鉾台型の山車形式へと発展していったのです。

 画像は江戸・山王祭の曳山一覧絵図の冒頭部分で、左から、諫鼓鶏の山車(大伝馬町) 猿の山車(南伝馬町) 女猿の笠鉾(麹町一、二、三丁目) 水車に剣の山車(山王町、南大坂町、丸屋町)で、人が担ぐ舁山(かきやま)型の女猿の笠鉾(かさぼこ)以外は一本柱吹貫型の山車で、二輪式で牛が牽引してます。
(*注:作美陽一氏著「大江戸の天下祭り」河出書房新社)

今回ご紹介する山車見聞録の寄居町の秋まつりの山車は、江戸初期から中期にかけて、曳山の代表格として、大いに祭礼を賑わした一本柱吹貫山車を今に継ぐ、貴重な山車なのです。 各地のお祭りを見て思うことですが、どこの祭りにも共通して云えることは、その町、村の歴史が祭りに中に、如実に現れていることです。ですから、よその町へ出掛け、祭りを見物・観覧する時は、事前にその町の歴史などを少しでも下調べしておくことが、大変有意義なります。特に山車や屋台などは、物資や人の交流を通じて、他の地域の文化が影響し合っておることを示す生きた証人と云っても、過言ではありません。

寄居町は、安土桃山時代に遡る長い歴史を持つ城下町なのです!

 寄居町は埼玉県の北西部に位置する町です。秩父山系の北東縁部を占め、山間から平野部に流れ出る荒川が、川左岸に形成した河岸段丘上に、寄居町があります。荒川を挟んで今の寄居市街地に向き合う崖上に、かって領主北条氏邦の居城の鉢形城(はちがたじょう)の城址があります。町の各所から奈良・平安時代の文化遺産が出土する寄居は北埼玉地方の中心地であったようで、武家時代になった鎌倉期以降、当初地方豪族の館があったこの鉢形の地に城砦が築かれ、室町時代に山内上杉家の重臣、長尾景春によって、鉢形城の体裁が整った。その後、鉢形城は、山内上杉家の譜代の家臣で、近隣の花園城主であった藤田康邦の持ち城になっていた。


 戦国の世、上杉家が川越の夜戦で、小田原の北條氏康に攻め滅ぼされると、藤田康邦は北条氏康に闘わずして、降伏。氏康の三男氏邦を自分の娘の婿に迎え、氏邦が鉢形城に入城し、自分は城を去り、隠居した。新城主の北条(藤田)氏邦は、鉢形城郭の大修築を行い、荒川の断崖で背後を固め、荒川の支流の深沢川の谷を前面の防御線とした、堅固な平山城を構築した。改装なった鉢形城は、武州一帯から、上州(群馬)の厩橋(うまやばし・前橋)、箕輪(みのわ・高崎近郊)、沼田、安中、松井田などの諸城を束ねる北条氏の北関東経営の拠点となった。


 城郭の外曲輪は武家屋敷が立ち並び、荒川対岸は庶民の家々が軒を連ねたいたと、 江戸期の文献に、当時の鉢形城下の寄居の繁盛ぶりが記録されてます。領主北条(藤田)氏邦には二人の兄、小田原城主北条氏政、八王子城主北条氏照がおりました。他に弟3名も関東の諸州を治めていて、戦国の世ではあったが、後北条と呼ばれた北条早雲一門の北条家の隆盛絶頂期の当時の寄居は、関東各地はもとより、城主の兄の治める小田原、八王子の町との間には、当然、物資や人の交流が頻繁にあったものと想像できます。


天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原城攻めが開始されると、北条氏支配下の支城も次々と落城し、5万の豊臣勢に包囲された鉢形城も3千の城兵で防戦、籠城の末、降伏。今では、本丸・二の丸・三の丸跡など、土塁と深い堀で固めた城郭跡が現存し、国の史跡に指定されている。

参照文献:ふるさと文化遺産郷土資料事典(11)埼玉県版(株ゼンリン発行)、鉢形城址を訪ねて(寄居町発行)

 寄居町に現存する山車の繊細な彫刻類を見ると、各地の先進の文化が寄居の町にもたらされていたことが、想像できます。ページの冒頭でご紹介しましたが、寄居町の山車は、その仕様、形態が江戸初期の山車の仕様であった一本柱吹貫型であり、明治、大正以降に造られた山車の形式は、江戸末期の山車形式の鉾台型山車が主流であったので、山車文化の変遷を知るのに意義のある貴重な文化財であります。

寄居秋まつりは、宗像(むなかた)神社例大祭なのです

 昔の寄居町は四季ごとに祭りが行なわれていた。最近になって12月の冬祭りはやらなくなったが、今でも、4月の北条まつり、釜山神社例大祭、7月の八坂神社夏祭り、8月の玉淀水天宮祭そして、11月の宗像神社秋まつり と、寄居では年間、多くの祭りが行われていて、近隣の町村からの見物人が詰めかけてます。江戸初期から、北武州の中核地として、国内各地との人の交流、交易が盛んに行われ、発展して来た長い歴史をもつ町の寄居。日本の各地から秀でた宮大工、彫り師、飾り金具師などが町に招かれ、現存する優れた山車の製作基盤が築き上がれて行った、と云えるのではないでしょうか。

 以下は、境内にあった宗像神社の由来を記した掲示板の要約です。
 宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に、荒川の氾濫を鎮め、舟や筏の交通を護るために、福岡県宗像郡玄海町の宗像大社(元官幣大社)の御分霊を移し祀ったものです。宗像大社は、文永・弘安の役(蒙古襲来)など、北九州の護りは海上の安全に神威を輝かした。この地に宗像大社の御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、花園城主藤田氏、後の城主北条氏の祈祷・祈願所にもなったので、寄居周辺一帯の庶民の崇敬を篤くして、今日に至ってます。

平成13年11月3日、"寄居秋まつり" 2日目の山車巡行の見聞録・・

  寄居町はJR八高線、東武東上線、秩父鉄道の3線の乗り換えが出来ます。池袋・寄居間75qを結ぶ東上線は沿線の住宅化で、埼玉県内はもとより、都心迄の通勤、通学の貴重な脚となってます。同様に、八高線は東飯能で西武線に連結し、所沢、池袋への通勤・通学に、そして八王子迄のベットタウン化した埼玉西南部と東京都下の各都市を結んで、首都圏の欠かせぬ鉄路のひとつになってます。

 寄居駅(画像左・南口)の裏手の北口を出ると、目に前に町役場(画像右)の近代的なビルが聳えております。現在人口 3万8千人の町とはいえ、その将来の発展が窺える思いがします。
 実は、秋まつりの丁度一週間前に、この町役場の商工観光課を訪問しました。目的は寄居秋まつりの情報を得たいと、思ってのことでした。応対下さった係長さんから、秋まつりの行事予定の一覧表と、よその山車祭では殆ど見られない"諫鼓鶏(かんこどり)"を載せる寄居・茅町の山車の貴重な資料を頂くことが出来ました。


 寄居駅南口駅前の商店街の軒先には紙の四手(しで)を吊した綱が張られ、店先には祭提灯が提げられ、ガラス戸には祭の大きなポスターが貼られてました。祭半纏を着て、足早やに前を行くひとの後について、本通り方向へと歩きました。

 本通りへ出る手前右側に、仮宮が鎮座しており、その隣りがお祭り本部でした。
時刻がまだ午前11時前でしたので、本通り、中央通りには山車の姿が一台もありませんでした。

 事前に役場から貰っていた資料の中の祭案内地図にある各山車の会館を訪ねてみようと、本通りを東へ行って、最初に寄ったのが茅町の会館でした。会館のそば迄行くと、山車がすぐに目に入り、会いたい人に会えた時の様に思わず気持ちが緊張しました。大きな山車蔵と小振りの会館が山車の直ぐ脇にありました。
 実は私は、この寄居秋まつりを一昨年の平成11年とその前の年と、既に2回見聞してました。2回とも、同じ日に行われる寄居に近い町の児玉町や本庄市の山車祭と掛け持ちでの見聞でしたので、今回は時間の余裕を持って、じっくり寄居秋まつりの山車を鑑賞しようと計画してました。会館の前に、法被を羽織った人が3人おりましたので、早速 質問をさせて頂きました。

茅町会館前に待機する山車。宗像神社と書かれた万度が載せられている。


 一昨年の前の年、平成10年の秋まつりの時に、茅町の山車だけに山車人形が載っておりました。しかも、載っている人形 (・・人形でなく、正しくは鶏の模型・ 造物・つくりもの かな?)は、江戸時代の天下祭りの山車巡行の際には、常に隊列の先頭を受け持ったという大伝馬町の山車の天辺を飾ったという「太鼓の上に止まって、翼を拡げる鶏」・・即ち、"諫鼓鶏"(かんこどり)でした。
 駐車中の山車に鶏が載ってないので、諫鼓鶏はどうしたのかと尋ねたところ、3人の中のお一人の茅町の区長さんが、わざわざ私を山車蔵の中へ案内して下れて、鶏の入った木箱を示しながら、来年は乗せますよ、と答えてくれました。一昨年の秋まつりに訪問した時に、鶏が茅町の山車に載ってなかったので、その時、どうしたのかと尋ねたら、修理中との回答でした。そんな経験があったので、修理が遅れているのかと思い、尋ねたのでしたが、道路の電線が障害となり、かなり相当以前から人形の搭載はやってなかったようです。諫鼓鶏はどこにでもあるものではなく、大変貴重です、と区長さんに申し上げました。関東でも鶏を載せた山車は少ないようで、寄居以外では栃木市の一台しか、管理者は見ておりません。

 諫鼓鶏の載る茅町山車の画像は平成10年の秋まつりで、管理者が撮影したものです。電柱のトランスが邪魔してますが、太鼓の上で、翼を拡げる鶏。やはり、鶏が載った山車の姿は、全体の均衡がよくなり、安定感と優美さが一層増し、品格が備わって、益々見映えがよくなります。今では貴重な画像。


 諫鼓鶏の諫は、いさめる、意見して止めさせる、忠告するを意味する諫言(かんげん)の諫です。諫鼓とは、中国の昔、人民の中で、天子をいさめたいと思う者はこれを打ち鳴らせといって、朝廷の門外に備え置いた太鼓。"いさめつづみだいこ"(諫鼓)に乗った鶏。天子のまつりごとが正しければ、国は富み、民も豊かになり、諫鼓は鳴らない。代わりに、平和な夜明けを告げる元気な一番鶏の声が国中に響く、との祈願をこめて、先人達は山車に諫鼓鶏を載せたのではと、想像します。
 著名な祭礼研究家のお話しですと、江戸の大伝馬町の諫鼓鶏は、必ず翼を拡げていたのに対し、関西の諫鼓鶏は翼を閉じているそうです。


 茅町の山車の歴史について、ご存知のことがあったら教えて欲しい、と申し上げましたら、山車蔵を案内してくれた茅町の区長さんが、わざわざ家迄取りに行かれ、「茅町の山車"閑古鶏花車製作の概要" 昭和48年十二月十五日 茅町」とのタイトルのA5サイズ紙10枚綴りの冊子を持って来られました。この冊子は、茅町の諫鼓鶏山車の文化財指定の申請資料の一部の写しでした。以下は、その冊子の内容そのままを記述しました。

 茅町の山車は、明治初年「宿押中」(町の中を曳行中)に、本町で溝に入り、転覆大破した。当時、茅町の総戸数は約20戸、全町内人は花車の再建を図る為、極めて強固な意志の下に一丸となって、筆舌に尽くし難い物心両面の辛苦を重ねて、約十年の歳月と、当時としては、まことに巨額な金銭を拠出し、労務を自ら提供して、明治十三年頃完成したものです。

 花車全般の構想・設計・指導及び主要なる彫刻物等は、当時日本における彫刻師の最高権威者といわれる後藤功祐師(現、武町 田島儀一郎氏の四代前の田島くに女 の父。明治二十年没、墓所 東京都本所小梅、常泉寺)の作であると、古老から言い伝えられ、その優美・華麗な「閑古鶏」の構想は、花車として稀な着想にもとづくものであり、天下泰平のシンボルとされている。

 尚、各細部の分担及び経費は次のとおりである。

一、金物御錺金七拾五円也熊谷市本町二丁目五拾九番地錺屋 卯之助
二、彫り物金五拾八円也上毛国新田郡尾島村彫 士 高沢 介之助
三、太鼓金  六円也武州中山道鴻巣箕田太鼓屋 成塚 滝之助
四、塗物金 三十円也川越町塗り師 常五郎
五、人形師金額不明出身地不詳人形師 中西 重蔵

その他、花車の台、車輪、骨組 その他のものについては、照明する書類がなく、不明である。特に後藤功祐師に対する謝礼が、どのような形で行われていたか一切不明であるが、明確なる合算額は、壱百八拾三円也。 以上が明治十一年から明治三十二年までの間に支払われている。
   

 管理者が、事前に寄居町役場から貰いました資料は、この文化財指定申請にもとづくその後の実物調査の顛末を纏めたレポートの抜粋でした。資料の冒頭には、茅町の"閑古鶏"花車の文化財申請にもとづく実物調査が昭和48年12月15日に行われた。この調査に引き次いで、翌年の49年4月14日に、埼玉県文化財調査委員会による茅町山車蔵及び茅会館階上広間に陳列された白木彫刻等について、精密詳細なる調査が行われた・・と記述し、調査終了後の調査委員の坂本才一郎先生の講評がレポートされてます。その内容は、別ページの「寄居町の一本柱形式の山車と笠鉾の構造について」の中の「高い評価を受ける寄居町山車彫刻」にありますので、ご覧下さい。

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