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平成12年「高崎まつり」山車巡行 2日目、8月6日のスナップ画像

 翌日の2日目は、山車巡行の終了時刻が前日の時よりも2時間早い午後7時で、従って巡行開始も約2時間早い午後3時でした。この日も夕刻から雷が鳴りだしましたが、降雨は僅かで、しかも、早く止んでもくれたので、山車にビニールシートを被せるほどのことはなく、日中は晴天の酷暑の中、観客も多く、各町の山車とも、お囃子と歓声で、盛り上がった山車巡行が出来ました。

 このページは、山車巡行2日目の様子の一部をスナップ画像で紹介します。巡行初日の様子と合わせて、ご覧下さい。これら、初日及び2日目のスナップ画像は、高崎市在住の鈴木 晃氏、塚越邦明氏 そして 伊藤幸彦氏の撮影の画像を借用し、掲載しました。従って、コピーによる別掲載はお断りします。

お堀端通り


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塚越邦明氏撮影

北地区9台の隊列の七番の本町一丁目です。この日の北地区の巡行路は、お堀端道路を進み、大手前通りのススランの角で右折となっていたのですが、成田町が右折した時、その先が詰まっていて進めず、やむを得ず成田の後に続く山車からは右折せずに、そのままお堀端通りを進行しました。その時の本町一丁目とその後に二丁目、三丁目が続く山車巡行の心躍るgoodな眺めです。本町の3台の山車の構造仕上がりの豪華さでは、八島町、連雀町と並んで高崎を代表する山車で、高崎の山車の五傑と思っております。江戸鉾台型山車の伝統を受け継いだ"高崎型山車"の雛形として、これからも大切に維持保存を関係者にお願いしたい。

大手前通り

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伊藤幸彦氏撮影

中央地区9台の隊列5番手の柳川町です。中央地区は北地区と同様に、この日の巡行路はお堀端通りを進み、大手前通りのスズランの角で右折して、音楽センター前(もてなし広場前)を進み、シンフォニーロードに出て、勢揃いをしました。

柳川町は昔、遊郭のあった町で、今でも料亭や飲食店の多い花街です。従って、粋な衣装の芸子さんが手古舞姿で山車の先頭に立ち、木遣り、火消し奴の隊列など、古式豊かで派手な山車巡行で、いつも人気がありました。近年はトーンダウンしてますが、時代の変化で仕方ないと思います。でも、お囃子衆から曳き手全員の半纏が贅沢な"絽"なんてのは、この柳川町だけです。 

大手前通り

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伊藤幸彦氏撮影

中央地区の新紺屋町です。昭和50年代始め頃迄の高崎で一番の繁華街、一番の商店街と云えば、それは映画館街でもあった高崎中央銀座通りでした。中央銀座通りの主要な町のひとつが新紺屋町です。商人の町ですので、昔から山車については関心が高かった。町内に演劇小屋があったりしたので、三番叟の人形を採用したとのこと。
従来は破風屋根を支える左右の柱(向拝柱)の間に、小太鼓2個、大太鼓1個を据えての計3人でお囃子を演奏してましたが、ここ数年の間に山車の囃子台を改修した山車が多くなった。この新紺屋町もその例なのですが、向拝柱の前に囃子台が拡張されて、そこに小太鼓(金太鼓)3個、大太鼓1個の計4人でお囃子をしてます。

大手前通り

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伊藤幸彦氏撮影

中央地区の連雀町です。中央銀座通りに代わって、高崎の中心繁華街として、伸びておる町。山車囃子の師匠格の三輪 昇氏は、長谷川万次郎の弟子として長谷川流を修得し、現在は高崎山車囃子保存会を結成し、長谷川流の山車囃子の普及保存に活躍されております。
新紺屋町の山車とは違って、連雀町は今でも向拝柱2本の間に、小太鼓2個、大太鼓1個を据えて、お囃子を演奏しております。このオーソドックスな囃子台のままでいいのではないか、と思ってます。金太鼓が3個でないと駄目だ、との理由がよくわかりません。いづれにしろ、江戸鉾台型山車の伝統を受け継いだ「高崎鉾台型山車」の雛形として、保存伝承を期待します。

大手前通り

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塚越邦明氏撮影

中央地区の寄合町です。町の記録で昭和55年に大改造したとなっておるので、その時に変えたのかもしれませんが、囃子台を向拝柱より前方に大きく拡張してます。改造した囃子台の先端から計った囃子台の奥行き幅は、向拝柱と鉾台までの奥行き幅の倍の長さです。金太鼓は3個ですが、なんと大太鼓が縦に2個据えられております。江戸鉾台型山車の原型は囃子台に屋根がなかったのですが、さしずめ「寄合町鉾台型山車」と云えるかも。また、チョットいじり過ぎかも。

シンフォニーロード

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伊藤幸彦氏撮影

中央地区の並榎町坂下です。中央地区の9台の山車は、シンフォニーロードと呼ばれる音楽センターの前の道路に勢揃いしました。市役所の真ん前でもあります。山車が勢揃いする反対側の片側二車線を使って、車は対面交通しており、落ち着きません。せめて2日間だけは、全面交通止めができなかったものか。このシンフォニーロードと新町通り、連雀町通り、田町通り、本町通り、柳川町通り、お堀端通りを結ぶ四角形の巡行路を、半分づつの山車が右回り、左廻りの対面巡行すれば、すれ違う山車同士の"ひっかわせ"と云われる叩き合いやパフォーマンスの交換が出来、盛り上がった山車巡行になること必定です。この四角形ルートの道路は既に、電線の地中化も完成してますので、思い切り背を伸ばした山車が巡行する眺めは、"江戸の天下まつり"の再現になります。是非、次回の総出場の時は実現させたいです。

シンフォニーロード


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伊藤幸彦氏撮影

作者の住む成田町です。北地区の勢揃い場所を出発したばかりの場面です。この後、新町交差点を左折して、田町通りに向かいました。高崎現有の江戸鉾台型山車の中で、一番細身です。向拝柱の間には小太鼓が2個据えられるだけで、大太鼓は柱の外に置くしかありません。白木ニス塗りで、彩色はありませんが、幼少時代から親しんだ愛着のある山車です。身びいきで云うのではありませんが、この画像を見ても、均整の執れた清楚な優美さを醸し出しております。他町の例にあるような囃子台の改造はやらないこと。屋根の上で、お囃子に合わせて扇子を大きく振って、曳き手を煽る人は、これを始めて既に20年にもなる常連の有名人?の新井さんです。

シンフォニーロード

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伊藤幸彦氏撮影

北地区の本 町一丁目です。今や高崎の象徴の市役所ビルを背景に、広いシンフォニーロードを悠然と進む本町一丁目で、その後に 二丁目、三丁目が続く山車巡行の心躍る見事な眺めです。山車大好き人間には正に堪えられない山車巡行の場面です。本町一、二、三丁目の3台の山車は、その大きさと形、彫刻や幕類、漆、装飾金具や金箔の彩色など、全て一流の豪華さを保持し、八島町、連雀町と共に、高崎の山車を代表する山車五傑になっております。八島町の駅前通り、郊外に問屋町が出来るまでは問屋さんが軒を並べていた連雀町と田町通り、そして本町一丁目から三丁目の本町通りは旧中山道で、江戸時代からの北関東の交通の拠点で"あきんど"(商人)の町として発展した高崎の中心街を占め、五町の財力は大きかった。

新町通り

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塚越邦明氏撮影

画像をクリックして、八島町のお囃子演奏の一部分の"動画"(Real Player ストリーミング)をご覧下さい。

 リアルプレイヤーはリアルネットワークス社(RealNetworks, Inc.)より、無償でダウンロードできます。

西暦2000年、新ミレニヤアムの最初の年が高崎市の市制施行100周年となった祝賀「高崎まつり山車巡行」に出場した38台の山車の札番の一番山車の八島町です。南地区13台の一番をも兼ねます。ともかく、八島町の山車は、関東を代表する山車の"江戸型"としての構造と仕上がりを持ち、その豪華さと品格は一番山車としての資格充分なものがあります。
 本町の3台と連雀町、八島町の5台は、今はなき江戸鉾台型山車の伝統を引き継ぐ「高崎鉾台型山車」の雛形です。 

新町通り

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塚越邦明氏撮影

初日の山車勢揃い場所は「もてなし広場」でしたが、2日目は市役所前のシンフォニーロードと旧中山道の新町通りから連雀、田町通りが勢揃い場所となりました。シンフォニーロードに勢揃いしたのは中央地区と北地区の合わせて18台で、新町交差点から田町北交差点迄の間に勢揃いしたのは南地区、東地区の合わせて20台です。

田町通り

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伊藤幸彦氏撮影

北地区の相生町です。平成7年の高崎まつりの山車巡行の当番町は、北地区と中央地区でしたが、相生町はこの年に欠場して、更に平成9年(隔年輪番制ですので、前年の平成8年は南と中央両地区が当番町)も欠場した。北地区の他町から、相生の連続欠場をいぶかる声が出ていた中、平成11年も結局、相生町は出て来なかった。5年間も山車に空白が出ると、お囃子から山車の組立などの伝承が途絶えてしまう心配があるので、昨年、作者も何故 相生町はこう続けて欠場なのかを市役所へ尋ねました。必要なら市からの助成も検討しても、相生町の山車を残す努力をお願いしました。そして、今年 久しぶりに相生町の源為朝を拝顔でき、嬉しかったです。

田町通り

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塚越邦明氏撮影

中央地区の常磐町です。1981年(昭和56年)11月、隣家からの貰い火で山車倉と共に大正6年製作の山車を一瞬のうちに焼失させてしまった。一時、もう山車は諦めの声も出たが、町の伝統を絶やしたくないとの雰囲気が高まり、町の有志と一般町民の協力で、昭和57年10月に復元出来た。

八間道路交差点

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伊藤幸彦氏撮影

中央地区の叩き合いの場面です。右端は新紺屋町、左端は田町123です。高崎の叩き合いは、関東各地の山車祭りでよく行われております山車のすれ違い時に行う "ひっかわせ"とは若干ニュアンスが違ってます。予め参加する山車が輪状に整列して、代表者の慰労の言葉の後、決めたお囃子の曲を一斉に叩き、曳き手衆は歓声と手拍子、足拍子の踊りで祭りの無事終了を喜び合い、次の祭りでの再会を約束し合うのです。

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