仲町の山車を一見して気が付くのは、お囃子をする囃子台の屋根が平らな板を斜めにした庇(ひさし)、建築言葉で水きりが付いていることです。江戸時代の天下祭りを記録した絵巻には、囃子台に屋根が無い山車が描かれております。屋根無しでの日射を敬遠してか、囃子台に日除けの天幕を張った「囃子台天幕型山車」が一時流行しましたが、山車の型の傾向は依然、屋根無しが大勢でした。 江戸末期から、屋根が無いのは変わらないのですが、囃子台を囲む様に四つの隅に柱を立てて、囃子台の前と左右の上部に欄間を設けて、屋根の無い「囃子台欄間型山車」が主流になりました。
囃子台に本格的な屋根が付けられた「屋根付鉾台型山車」は、明治になってからで、それも江戸・東京では僅かな台数しか造られてなく、埼玉・群馬などの東京周辺地域でこの屋根付き山車が盛んに造られました。
今年の当番町である旭組(旭町)が編集した祭りチラシの裏面に、上州・下仁田秋祭り特集が載ってます。そのなかで、下仁田各町の山車の生い立ちを紹介してます。それによりますと、仲町の山車の1台目は、明治39年に東京日本橋本町二丁目の山車を譲り受けたもので、老朽化して、昭和36年に2台目山車を地元の宮大工の手で新調することになった。山車新造に際しては、1台目の山車の特徴を引き継いで、屋根も同形に残した、とあります。
管理者の推測になるのですが、日本橋から購入したという仲町の1台目の山車の囃子台には最初から屋根がなく、下仁田で平板の屋根が載せられたのではないか、又は、欄間型であったので、欄間の上に平板を載せたのではないか、と想像します。それにしても、仲町の山車は、下段、中段、上段の勾欄の飾り金具と漆黒の対比がよく映えて、鮮やかなレンガ色の四方幕に庇型の屋根がうまく調和して、大型の御所車式の車輪も華麗で、清楚で格調の高い風貌を持った山車です。仲町の人形の大楠公の拡大画像です。