西上州と呼ばれる群馬県南西部の西端に位置する下仁田町は人口10,878人、世帯数3,574世帯の山間の町です。 平成14年4月1日現在、群馬県企画部統計課「移動人口調査」より抜粋 町史をめくってみますと、江戸期始めは幕府直轄領であったが、天明期から幕府領と旗本小笠原氏領とに分れ、麦、芋、麻、粟、蕎麦、大根、豆などを産し、農業の合間には男は薪拾い、女は養蚕を行い、絹・麻布を作り、冬と春に紙をすき、毎月2,5,9の日に九斎市が立ち、近在ばかりか信州佐久からの人たちで賑わい、米、絹、雑貨、麻、紙、薪などが売買された。特に下仁田ネギの産地として知られ、徳川将軍家へも献上され、別名を殿様ネギとも呼ばれたそうです。上州南西域を流れ、利根川につながる鏑川(かぶらがわ)の上流河岸としての下仁田河岸が、江戸期に存在していたと思わせる通船が行われていたことを示す文書が現存するなど、信州佐久米などの年貢米、大豆、麻、茶、葺き板などが、中山道の脇往還であった川越街道(国道245号)や鏑川を経て、江戸へ運び出され、塩、茶、乾鰯、綿などの日用品が江戸方面から持ち込まれるなど、江戸と信越方面の物資中継地、宿場としての地理的条件があって、山間とはいえ下仁田は日本の各地の文化に触れる機会が多かったと思われる。 この中継地としての象徴的事件が幕末に起きた下仁田戦争です。水戸藩の尊皇攘夷派の天狗党が茨城の筑波山で決起し、日光経由で上洛の途中、下仁田の商家に陣を張った。天狗党討伐の幕命を受けた高崎藩と鏑川を挟んで砲撃と突撃の末、高崎藩を撃破した天狗党は、鏑川の源流に沿った現在の長野県佐久市と下仁田町を結ぶ川越街道(国道254号線)の内山峠を越えて、信州に入ってのです。現在は内山トンネルができて快適な道になり、上信越自動車道や中山道(国道18号線)の抜け道として利用されている。 この画像は、関越道高崎インターを降り、脇道に入った時に眼にとまった遠望を管理者が撮影したものです。西上州の山並みです。右側の尖った形の山が、群馬県民が上毛三山と呼ぶ群馬の代表的な三つの山のひとつの妙義山(みょうぎさん)です。 左の航空母艦の形をした平らな山が下仁田町の西に聳える荒船山です。地元、下仁田町のホームページの観光案内には、この山を群馬県中央部から見ると荒波に漂う船のように見えることからこう呼ばれている、と紹介しております。そう云われて画像を見ると、確かにそう見えます。 国道254号を挟んで荒船山の北方の丘陵地帯に、明治20年、日本初の洋式牧場として誕生した神津牧場があります。長野県北佐久郡の一青年、神津太郎が新酪農の理想をもとめて、下仁田の西端の物見山の官有地を借地し、牛舎を作って開設したのが始まりだそうです。現在、150頭ほどの乳牛が広い牧場でゆったりと草を食む眺めが、北海道でなく内地で見られるのは驚きです。妙義山、神津牧場そして荒船山を含む一帯が「妙義荒船佐久高原国定公園」に指定されてます。 明治5年の町制の後、諏訪神社の社務所に町役場が、郵便局や竜栖寺を仮校舎にした下仁田学校、隣町の富岡警察の分署などが次々と設置され、下仁田と周辺33か村を管轄する県の区務所が開設されるなどして、富岡町(現、富岡市)と並ぶ西上州の中核をなす町になる素地が出来ていった。明治になってから、町域内の養蚕業が盛んになり、兄貴分の官営富岡製糸場の今で云う子会社が下仁田町にも誘致され、群馬の生糸生産の中心地のひとつ迄になった。明治30年、上野鉄道(現、上信電気鉄道)の下仁田〜高崎間が全通し、町内産の鉱石や石灰、砥石、そして下仁田・富岡からの生糸の搬出が加速された。同じ県内の織物の町、桐生がそうであったように、明治期の近代産業でもあった生糸生産という生産性の高い仕事に携わった下仁田町には、町ばかりでなく個人のなかにも財力に余裕ができたお金もち・篤志家が出てきても不思議ではなかったと、想像できます。 五穀豊穣・疫病撃退を願う庶民感情を具体的に表現する町の祭礼に、財をなした篤志家が町内有志を誘い、自らも多額な寄付を申し出て、祭礼を賑やかす曳きものである屋台や山車を造って、街中に曳き廻し、町民が一体になって祭りを楽しむ慣習が次第に定着していったのが、現在も各地に残っております「屋台・山車まつり」です。なかでも、住民の帰依が大きい神社が係わる祭礼は、祭りの運営・手順がしっかりと決まっていて、御輿による祭神の渡御や還御、付け祭りの山車の宮入などが例年同じように実施されるのが普通です。下仁田諏訪神社例大祭もその典型的な祭礼のひとつではないかと、今回の祭りを見聞した管理者の感想です。 |