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群馬県下仁田町 平成14年 "諏訪神社秋季例大祭 "を訪ねて 
左:当番町旭組祭典委員長大嶋良雄氏より提供頂いた平成14年の祭礼ポスターを複写。 右:平成14年当番町の旭組の山車。10月12日、諏訪神社前にて管理者撮影。
はじめに、下仁田町とは、どんな町か、ご紹介します  

 西上州と呼ばれる群馬県南西部の西端に位置する下仁田町は人口10,878人、世帯数3,574世帯の山間の町です。

平成14年4月1日現在、群馬県企画部統計課「移動人口調査」より抜粋

 町史をめくってみますと、江戸期始めは幕府直轄領であったが、天明期から幕府領と旗本小笠原氏領とに分れ、麦、芋、麻、粟、蕎麦、大根、豆などを産し、農業の合間には男は薪拾い、女は養蚕を行い、絹・麻布を作り、冬と春に紙をすき、毎月2,5,9の日に九斎市が立ち、近在ばかりか信州佐久からの人たちで賑わい、米、絹、雑貨、麻、紙、薪などが売買された。特に下仁田ネギの産地として知られ、徳川将軍家へも献上され、別名を殿様ネギとも呼ばれたそうです。上州南西域を流れ、利根川につながる鏑川(かぶらがわ)の上流河岸としての下仁田河岸が、江戸期に存在していたと思わせる通船が行われていたことを示す文書が現存するなど、信州佐久米などの年貢米、大豆、麻、茶、葺き板などが、中山道の脇往還であった川越街道(国道245号)や鏑川を経て、江戸へ運び出され、塩、茶、乾鰯、綿などの日用品が江戸方面から持ち込まれるなど、江戸と信越方面の物資中継地、宿場としての地理的条件があって、山間とはいえ下仁田は日本の各地の文化に触れる機会が多かったと思われる。

 この中継地としての象徴的事件が幕末に起きた下仁田戦争です。水戸藩の尊皇攘夷派の天狗党が茨城の筑波山で決起し、日光経由で上洛の途中、下仁田の商家に陣を張った。天狗党討伐の幕命を受けた高崎藩と鏑川を挟んで砲撃と突撃の末、高崎藩を撃破した天狗党は、鏑川の源流に沿った現在の長野県佐久市と下仁田町を結ぶ川越街道(国道254号線)の内山峠を越えて、信州に入ってのです。現在は内山トンネルができて快適な道になり、上信越自動車道や中山道(国道18号線)の抜け道として利用されている。

 この画像は、関越道高崎インターを降り、脇道に入った時に眼にとまった遠望を管理者が撮影したものです。西上州の山並みです。右側の尖った形の山が、群馬県民が上毛三山と呼ぶ群馬の代表的な三つの山のひとつの妙義山(みょうぎさん)です。 左の航空母艦の形をした平らな山が下仁田町の西に聳える荒船山です。地元、下仁田町のホームページの観光案内には、この山を群馬県中央部から見ると荒波に漂う船のように見えることからこう呼ばれている、と紹介しております。そう云われて画像を見ると、確かにそう見えます。

 国道254号を挟んで荒船山の北方の丘陵地帯に、明治20年、日本初の洋式牧場として誕生した神津牧場があります。長野県北佐久郡の一青年、神津太郎が新酪農の理想をもとめて、下仁田の西端の物見山の官有地を借地し、牛舎を作って開設したのが始まりだそうです。現在、150頭ほどの乳牛が広い牧場でゆったりと草を食む眺めが、北海道でなく内地で見られるのは驚きです。妙義山、神津牧場そして荒船山を含む一帯が「妙義荒船佐久高原国定公園」に指定されてます。

 明治5年の町制の後、諏訪神社の社務所に町役場が、郵便局や竜栖寺を仮校舎にした下仁田学校、隣町の富岡警察の分署などが次々と設置され、下仁田と周辺33か村を管轄する県の区務所が開設されるなどして、富岡町(現、富岡市)と並ぶ西上州の中核をなす町になる素地が出来ていった。明治になってから、町域内の養蚕業が盛んになり、兄貴分の官営富岡製糸場の今で云う子会社が下仁田町にも誘致され、群馬の生糸生産の中心地のひとつ迄になった。明治30年、上野鉄道(現、上信電気鉄道)の下仁田〜高崎間が全通し、町内産の鉱石や石灰、砥石、そして下仁田・富岡からの生糸の搬出が加速された。同じ県内の織物の町、桐生がそうであったように、明治期の近代産業でもあった生糸生産という生産性の高い仕事に携わった下仁田町には、町ばかりでなく個人のなかにも財力に余裕ができたお金もち・篤志家が出てきても不思議ではなかったと、想像できます。

 五穀豊穣・疫病撃退を願う庶民感情を具体的に表現する町の祭礼に、財をなした篤志家が町内有志を誘い、自らも多額な寄付を申し出て、祭礼を賑やかす曳きものである屋台や山車を造って、街中に曳き廻し、町民が一体になって祭りを楽しむ慣習が次第に定着していったのが、現在も各地に残っております「屋台・山車まつり」です。なかでも、住民の帰依が大きい神社が係わる祭礼は、祭りの運営・手順がしっかりと決まっていて、御輿による祭神の渡御や還御、付け祭りの山車の宮入などが例年同じように実施されるのが普通です。下仁田諏訪神社例大祭もその典型的な祭礼のひとつではないかと、今回の祭りを見聞した管理者の感想です。


初日昼間、6基の山車諏訪神社前出発式と町内巡行見聞録 

 12日午後1時過ぎ、下仁田駅前通りを西に進み、常盤館の角を北に向うとスーパー大型店、南に向うと信用金庫方面、直進すると上町商店街を歩いてみました。祭礼提灯が吊るされた中心商店街の商店や家の軒下には純白の紙四手の縄が張られ、入口ガラス戸には祭礼ポスターが掲示されてました。最初に出合ったのは、駅南側の通りを神社へ向う東町の山車でした。電線を避けるために鉾台と人形を低く下げておりましたが、破風屋根をもった堂々とした江戸鉾台型の山車でした。

 次ぎに観たのは、えびすやの角で出発の準備をしていた仲町の山車でした。仲町の山車を一見して気が付くのは、お囃子をする囃子台の屋根が破風式の屋根でなく、平らな板を斜めにした、庇(ひさし)、建築言葉でいうと"水きり"に似た屋根でが付いていることです。江戸時代の天下祭りを記録した絵巻には、囃子台に屋根が無い山車が描かれております。屋根無しでの日射を敬遠したのか、囃子台に日除けの天幕を張った「囃子台天幕型山車」が一時流行しましたが、山車の型の傾向は依然、屋根無しが大勢でした。

 江戸末期から、屋根が無いのは変わらないのですが、囃子台を囲む様に四つの隅に柱を立てて、囃子台の前と左右の上部に欄間を設けて、屋根の無い「囃子台欄間型山車」が主流になりました。
囃子台に本格的な屋根が付けられた「屋根付鉾台型山車」は、明治になってからで、それも江戸・東京では僅かな台数しか造られてなく、埼玉・群馬などの東京周辺地域でこの屋根付き山車が盛んに造られました。

囃子台欄間型の成田市幸町の山車

 今年の当番町である旭組(旭町)や祭り実行委員会が編集・作成した祭りチラシの裏面に、上州・下仁田秋祭り特集が載ってます。そのなかで、下仁田各町の山車の生い立ちを紹介してます。それによりますと、仲町の山車の1台目は、明治39年に東京日本橋本町二丁目の山車を譲り受けたもので、永年曳かれて老朽化したので、昭和36年に2台目山車を地元の宮大工の手で新調することになった。山車新造に際しては、1台目の山車の特徴を引き継いで、屋根も同形に残した、とあります。

 管理者の推測になるのですが、日本橋から購入したという仲町の1台目の山車の囃子台には最初から屋根がなく、下仁田で平板の屋根が載せられたのではないか、または欄間型であったので、欄間の上に平板を載せたのではないか、と想像します。それにしても、仲町の山車は、下段、中段、上段の勾欄の飾り金具と漆黒の対比がよく映えて、朱色も鮮やかな四方幕に庇型の屋根がうまく調和して、大型の御所車式の車輪も豪華で、清楚で格調の高い風貌を持った山車です。

 諏訪神社への山車の勢揃いの時刻が近づいて来たので、商工会館の前を通って、諏訪神社へ向いました。



 平成14年 下仁田諏訪神社秋季例大祭の祭事のスケジュールが、祭礼ポスターに次ぎのように掲示されておりました。

初日12日 "山車巡行" 

午後2時
 諏訪神社前出発式 町内巡行

午後5時
 夕食休憩  商工会館付近(1時間)

午後6時
 歩行者天国内巡行

午後8時20分
 解散式(えびすや米穀店付近)


さぁ、いよいよ、諏訪神社前の山車勢揃いだ! 

 当番町の編集した案内に、以下の紹介があります。上州・下仁田の秋祭りは、諏訪神社のお祭りです。近年では土、日に行われるようになりましたが、神社としての祭礼は、十七日と決められております。神社創立年代は約四百年前とされ、元来は、八幡社でありましたが、戦国時代に武田信玄により、諏訪神社に勧請されたと、伝えられいます。江戸時代になって、龍栖寺が創立されてからこの寺の住職が代々別当(管理者)として管理してきました。明治四年にい住職別当兼務制が廃止になり、別当が神官となり、村社となり下仁田町外六か村の総鎮守となりました。本殿、拝殿の彫刻は素晴らしく、飛騨高山の工匠の作といわれてます。


 境内には既に、札番が1番の当番町の旭町・旭組の山車が到着していて、隊列札番号二番の上町・上組、三番川井・か組、四番仲町・な組、五番下町・下組、六番東町・東組を出迎える準備をしてました。午後1時過ぎから、山車の到着・入場が始まりました。広場入場の1番手は、隊列番号六番の東組でした。ここで、妙なことに気が付きました。

>左右両画像とも、左側は駐車中の旭組の山車。右側が「せり」を挑む東組の山車です。左右どちらかの画像をクリックして、「せり」の仕組みの図解をご覧下さい。ブラウザーの左上の"←" 戻るで、このページにお戻り下さい。

 それは、入場した東組の山車は広場整列指定場所に向わずに、そのまま、当番町の旭組の山車の真正面に向って進んで行くのです。東組の山車は、旭組の正面に近づくと梶を右へ執ってから、直ぐに梶を反対方向の左へ大きく戻して、東組の山車が旭組の山車の真正面に向うようにしながら、山車を近づけます。東組の山車は自分の正面に突き出ている提灯懸けが相手の提灯懸けにスレスレに接近するまで山車を進めます。提灯同士がぶつかる寸前に東組の山車が停止します。

 これが、下仁田山車巡行の梶とりの"秘技"、"妙技"として、知るひとぞ知る下仁田山車巡行名物の「せり」または「せり合い」と呼ばれるものです。右から左へ梶を戻しながら、山車を相手の真正面に向き合わせて、しかも提灯懸けの提灯同士の間隔を限りなくゼロに近づけることを競うものです。当然、せりを仕掛けられる山車は、梶棒が邪魔にならぬように梶棒を90度曲げて置きます。

「せり」を受ける山車は、常に前輪を真横にして駐車をする必要があります。「せり」をし掛ける山車の梶とり衆の腕を競うものですから、相手が山車でなくても、板塀や石壁に向って練習ができます。ポイントは相手に接近しながら、一度右か左へ梶を執って、直ぐに反対方向へ梶を戻しながら、山車の本体を相手に正対させて、間隔を短く停止する。

 言葉だけの説明では分かり辛いので、「せり」の仕組みを図解しましたので、上の2枚のせりの画像のどちらかをクリックして、ご覧下さい。下仁田の「せり」と同じものが、よその山車まつりでやっているかどうか、と考えてみたのですが、ちょっと思いつきません。せりの仕組みから考えると、左右二本の前輪が一本の車軸で連結されていて、車軸がその中央の支点で回転ができる可動式であること、梶棒を90度一杯に切ったときに、前輪が山車の車台からはみでない構造であること、などの条件が山車の構造上、うまくクリアされないと、「せり」はむづかしいと思います。下仁田の山車が昔から、たまたま「せり」ができるような構造であったのか、又は、「せり」を意識して、そのような構造に造り上げたのか、そのどちらかでしょう。


左画像:左から、旭組、上組、か組です。 右画像:左から、な組、下組、東組です。 両画像とも、クリックすると拡大します。ブラウザーの戻るで、このページへお戻り下さい。

 東町(東組)に続いて仲町(な組)、下町(下組)、上町(上組)、そして最後が川井(か組)の順番で神社前広場に入場して、今年の合同巡行の札番順に整列しました。

 澄んだ秋空の下、山車の梶方衆の中には動くと汗が出るので、鯉口シャツは脱いでしまって、腹掛けだけになるほどの温和な祭り日和に恵まれて、街中の巡行では降ろしてしまう鉾台と人形を思いきり上へ伸ばして整列した山車6基の眺めは、ほんとうに壮観です。

 それぞれの山車のお囃子台には、この日の為に毎夜練習に励んだ子供達が、掛け声を交わしながら一生懸命にバチを振ってます。叩いている太鼓に隠れてしまいそうな可愛いい保育園生(ほんとうに、かわいかった!)から、中高生のお兄さんやお姉さん、笛を吹き太鼓を叩く子供達にとって、他の大勢の人達から自分のしておることが注目される、他の大勢の人達が自分に興味を示してくれるなんてことは、普段の生活ではなかなか味わえないことですから、このような経験を通して、子供達に自信や誇りが自然と芽生えると思います。ひいては、子供達に学業にも自信や積極性が出て、生れ育った郷土を愛する心を培う機会のひとつである、とお祭りを考えるのもいいのではないでしょうか。


山車出発式・神官の"お祓い"

 諏訪神社を囲む高い木立の梢を越えて、ひろく下仁田の街に響き渡っていた各組の山車のお囃子の音が一斉に停止しました。出発式の始まりです。諏訪神社の各町の氏子総代が揃いの神社祭礼衣装を羽織って、架設の壇上に並びます。各組のお囃子衆はバチを置いて、山車の前で横に整列した組の棟梁、曳き手衆とともに、正面の架設台に注目します。
司会につづいて、来賓の祝辞、今年の当番町旭組祭典委員長大嶋良雄さんの挨拶と祭りスケジュールの説明などがあり、この後、諏訪神社の正装した神官が整列した各組の山車の前で、お祓いをします。神社祭礼の付け祭りとしての山車巡行に対する神社側からの祝儀と入魂の儀式である出発式は目出度く終了しました。


 再び各組の山車はお囃子を高らかに、巡行札番に従って、広場を出発し、八千代橋へと向いました。

 神社前広場での各組の山車の整列の様子を各組毎に別のページにまとめました。内容は、管理者の観覧の感想を「各組の山車の概要」のタイトルで、もうひとつは、平成14年の下仁田町諏訪神社例大祭のポスター裏面の各山車の紹介の内容を「各組の山車の変遷」のタイトルでご紹介します。


次ぎの表の山車名をクリックしますと、各組の山車を紹介するページにジャンプします。是非、ご覧下さい。
隊列一番隊列二番隊列三番隊列四番隊列五番隊列六番隊列七番
旭 町上 町川 井仲 町下 町東 町吉 崎

 平成14年の下仁田諏訪神社の秋季例大祭の見聞は、初日の昼の山車の神社前整列から、合同巡行の様子だけでした。初日の夜の中心街の山車巡行は観られませんでした。街頭のあちこちで「せり合い」が交換されて、対面する山車同士が奏でるお囃子には熱が入って、叩き合いの囃子の音と歓声で、祭りが最高潮の盛り上がりを見せたことでしょう。

 この度、下仁田諏訪神社例大祭の一部だけですが、見聞させて頂いて気が付いたことですが、各町・各組の皆様が、どこの組も山車に対する思い入れが大変強く、真剣に取り組んでおられる様子が窺えました。誰もが、自分達の町の山車に対しての誇りを持たれておられるのが、観ていてよく分かりました。少子化と云われながらも、子供達が大勢参加してましたし、山車の前後には、町・組を支える大人の男女の皆さんの姿が多く目に付きました。

 どの山車も汚れはなく、綺麗に磨かれていて、大幕の装飾紐もキチンと提げられており、普段の山車の手入れが行き届いているのが分かります。祭り衣装ひとつをとっても、各組とも、独自のデザインのものを用意し、巡行に参加する全て人が着用しておることです。一見当たり前のことのようにも思えますが、たとえ自弁で衣装代を払っても、それを着て祭りに参加するんだとの意欲が、町・組の連帯感を一層高めるものであり、自分達の町を愛する気持ちとつながるのだと、管理者は信じております。

 伝統ある祭りに仕上げ、これまで続けてこられた下仁田町の先人達のご努力を、こんにちの下仁田町の皆さんが立派に引き継いでおられることが充分感じられた下仁田町の山車見聞でした。


2日目13日 "神輿渡御"と"山車巡行" 

午前8時 諏訪神社宮出し 町内全域渡御

正午 諏訪神社還御・宮入

午後2時30分
 えびすや米穀店出発 町内巡行

午後4時
 夕食休憩  商工会館付近(1時間)

午後5時30分
 歩行者天国内巡行

午後7時45分
 各町お囃子奉納・手打ち式(諏訪神社)

 見聞はしておりませんが、下仁田諏訪神社例大祭2日目の内容です。


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