吉崎地区は、平成14年下仁田諏訪神社秋季例大祭の山車台巡行には出場しておりません。平成13年、吉崎地区の皆さんの待望の新しい山車がお目見えしましたが、未完成の部分と諸般の準備が今年の例大祭に間にあわず、諏訪神社の秋季例大祭当日に、吉崎区内での試験曳きだけを行いました。 ここに掲載した吉崎・よ組の画像は、初日昼間の町内合同巡行の山車隊列を牧口橋の手前で出迎える為に、橋際に駐車してお囃子を奏でる吉崎の山車を撮影したものです。
正に、21世紀、New Millennium 、新世紀の山車の誕生です。構造は、前後各二輪の四輪式で、両端に前輪が取り付けられた前車軸は、車台と"すべり軸受け"構造になっているので、前車軸と一体の梶棒を左右に振ることで、山車の進行を楽に変えられます。尚、後輪の大きな御所車は、外周部から、轂(こしき)、輻(や)に至るまでの全てが鋳鉄製の車輪です。木調の表装仕上げになってますから、外観だけでは木製の御所車と区別はできません。
吉組の新世紀型の山車の構造・形式は、諏訪神社前に整列した6基の山車の形式を踏襲しており、車台や梶棒は「せり」が出来る様に施工してあります。しかし、吉組の山車の外観というか、山車を最初に観た時の印象は、江戸鉾台型山車のイメージには遠い感じがしました。彫刻が破風の殆どを覆い、山車の背面の全面が彫刻で覆われてます。吉組の棟梁に、ざっくばらんにお尋ねしましたところ、案の定、外国で加工した部材を使用して、組立てた山車でした。どの部分までが輸入部材かは聞いてませんが、彫刻類は全て、外国で造られたものとのお話でした。
囃子台の柱に巻き付く龍は大きく、まことにリアルですので、グロテスクにさえ感じられます。山車の後部の屋根は、滋賀県大津の石山寺の多寶塔の一層の庇を思わせる形で、反りも大きく、立派な仕上がりですが、その上の御幣束が載っている箱は二層目の鉾台なのでしょうが、外観的には、デザインが横浜中華街の店の屋根を連想させて、山車の鉾台のイメージには遠い感じがします。人形を載せるには、迫り上がり式の、外観的にバランスのとれた大きさの鉾台を期待します。そうすれば、一層、素晴らしい新型の山車になると思います。あくまでも管理者の私見ですが、如何なものでしょうか。
それにしても、半端なお金で山車を新調することは出来ません。かなりまとまった支出を覚悟で、山車造りを決意した吉崎の皆さんへ、大きな拍手を送りたいです。自分達も山車を持って、祭りに参加したいという積極的は思いを吉崎の皆さんが持って居られたから、実現できたものと、思います。大人だけでなく、大勢の子供さん達がお囃子や曳き手として、祭りに参加しておりました。来年から例大祭に参加できるように、関係者の皆さんへ、管理者からもお願いします。
吉崎地区は鏑川と南牧川(かぶらがわ・なんもくがわ)の合流点の南側で、上町や旭町とは両川の対岸に位置します。両川も上流にダムができて、鏑川の水量が少ないですが、清流で周囲の山を綺麗に映しております。画像の二つの橋は右が牧口橋、左が新合之瀬橋。川の左岸が吉崎地区です。下仁田町・青岩公園付近。 拙作の山車見聞録をご覧下されて、下仁田まつりの貴重な情報をお寄せ下された上町にお住まいの岩井さまのお話ですと、吉崎地区は、いままでは正式な山車はなかった。
6,7年前頃から、元々下仁田町上町地区に住んでいて吉崎地区に転居された方がお囃子のお師匠さんとなり、お囃子の練習を始めた。 当初は、手作りの4輪タイヤのリヤカーぐらいのものに太鼓をのせて、吉崎地区内のみで運行していたが、その後、平成11年に富岡市の公園通り地区の山車を譲り受け、12年度までその山車で運行していた。13年度からは現在の新しい山車を製作し、今までの山車は、隣の南牧(なんもく)村の磐戸(いわど)地区に譲渡された、とのことです。
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