高崎の山車の歴史
旧高崎藩主、大河内家の先祖を祀る頼政神社の祭りは、江戸時代の高崎の祭礼を代表す
るものであったが、その記録の大河内家文書(無銘書一)の頼政神社史料の中に、山車
と言う呼び名は出てこない。
江戸時代の記録の中に出てくるものを列挙すると、餝
屋台(かざりやたい)、餝物、出し物、囃子ねり物、踊台、造り物、出しねり物、踊屋
台、飾台、居台、花かさ,ほこ飾物、万度(まんど)、屋台、家台。この様な呼び名は
文書の中にあり、その物についての説明はない。以上のように種々の名称が出ており、
また頼政神社の祭礼に限らず、これらを分類すると飾り物をして移動するもの、囃子や
何か芸事を見せながら移動するもの、移動はするが固定させて芸事をするものなどであ
る。(中略)
踊台、踊屋台、屋台、家台の類は明らかに屋台形式のもので、舞台と
楽屋の組合せ、又は、舞台のみで囃子方は歩行或いは別の乗り物で行うものと考えられ
る。以上の様に屋台や山車は一定の型式はなく、その時々に作ったものが多かった。寛
政時代には飾り台の上に何かの飾りものをして引き廻しており、(中略)山水、人物、
鳥獣、草木、機材の形の巧を尽くして、飾りものも毎年、趣を異にしており、祭礼の度
に造ったのである。文化文政時代になり、漸く各町の飾り物が一定するようになり、祭
礼の度に同じ飾り物を飾り台に飾るようになった。その型式は埼玉県川越市の氷川神社
祭礼絵額、同祭礼絵巻に見ることが出来る。
即ち2輪、又は3輪の車の付いた高欄
付き飾り台に、一本柱を立て、その上に高欄の付いた胴枠を置き、中心に人形飾りをし
た。上高欄の枠には曲釘が打たれ、これに2尺ほどの幕をたらした。下の高欄の付いた
台には囃子方が乗り、綱を付けて引いた。これが現在の山車の原型と考えられる。明治
3年、高崎宿の出入り口にあった木戸や、武家屋敷と町家を区切っていた木戸も廃止さ
れ、それまでは武家屋敷を通って頼政神社に通じる狭い一本の路地(屋台小路)しかな
かったたのが、町中のどの道も山車が通れる様になって、小型の山車に甘んじていた町
人は時を移さず大型の山車の制作にとりかかった。
しかし、大型と云ってもまだ旧
態依然とした3輪に標木の型のものであった。山車が大型になりつつある時に、3輪の
山車様式でない別型の山車もでてきた。2段の櫓を組み、上下の勾欄の迪(せ)りがつ
き、囃子台には向拝型の唐破風屋根の付いた型の山車が導入された。川越市の氷川神社
の祭礼絵図には文久年間にこの型の山車が2、3台あり、他はまだ3輪標木型である。
高崎へはそれから10年ほどしては入ってきている。高崎で造られたものは、川越のも
のと同様に、大型のものであったが、川越と異なる点は山車に舵取りが付いたことであ
る。
即ち、4輪の内、後輪2輪は大きく固定し、前輪は小さく自在とした。高崎は
道幅が狭く、大型の山車の辻廻しが容易でなかったことと、明治になり鉄の加工が進み
、ボルト、ナットの類が輸入されたことによるもので、近県では類を見ない画期的なも
のとして、以後、舵取りが急速に普及した。明治維新は祭りを変えたばかりでなく、町
の姿も変えていった。電柱が立ち、電線が張られ、明治40年代には市内を走っていた
鉄道馬車は市内電車になった。こうなると大きな山車を造ってみたものの引き廻すこと
ができなくなってしまった。町の中央を通る旧中山道は、道幅10メートルほどで、そ
こへ道路にはみ出して電柱が建ち、道路中央には市内電車の軌道が敷設されたからです
。
高崎藩主の庇護があったからこその頼政神社の祭礼であったためか、時代が変わ
ると祭りの形も変わり頼政神社の祭典でも、山車の引き廻しがなくなった。その代わり
に、各町内での道祖神の祭りに山車を引くようになった。道祖神の山車は特に決められ
た道順があるわけでなく、各町が勝手に道順を決めて引いたが、他町内を通る時には、
その町内の詰め所に挨拶をするようになり、挨拶を受けた町はこちらからも山車を引い
て答礼をした。中には狭い道の町内もあり、山車を引き入れても、大きな山車では身動
きならない事が起きていた。その後、大正天皇の御大典のために山車を造った町などは
再び、小型のものを造るようになった。
かくして徐々に各町の山車は作り替えら、
その度に大型の山車は売却された。隣町の現、渋川市史には高崎から購入した山車の記
録があり、中の町は大正3年に高崎の田町から、坂下町は大正2年に高崎の赤坂町から
購入した。長塚町が大正6年に高崎の鞘町から購入した山車は、購入当時、囃子台の上
に唐破風の屋根は無く、欄間のみであった。この様な型の山車は川越市に3台現存して
おり、栃木市のものは全て同じ型である。その他、高崎の大型の山車は次々と、周囲の
町村(松井田、倉賀野など)へ売却され、そのうちの幾台かは今でも現存している。
高崎の山車はこの様な経緯で現在の山車が固定したのである。その型は川越の山車
と類似した箇所もあるが、先ず小型であること。そして、轅(ながえ)が梶棒を兼ねて
自在である点が特徴として上げられる。そして上段、中段の勾欄は櫓を組み、巻き取り
式の迪(せ)り上がり式で、山車の土台ともなる地覆又は枠といわれる所は前へ突き出
し、向拝の様な囃子台には唐破風の屋根が付き、棟を飾る鬼板や、懸魚には彫り物を配
し、上櫓には四方幕、下櫓には後幕を張り趣向を凝らした図柄の刺繍を施している。高
崎の山車の大まかな型はこの様なもにであるが、各町少しづつ変化があり、それぞれの
特長といえる。
高崎の山車が現在の型に定まって既に、100年近くになろうとしてい
る。その間に西上州では高崎の山車を模して造られたものも多く、高崎近辺の松井田市
、富岡市、吉井町などの祭礼に、西上州の山車の型として広まりつつある。
高崎の山車囃子
の歴史
「高崎の山車」(発行:高崎市商工部商業
観光課)の中の土屋喜英氏の山車囃子より引用。
高崎の山車囃子の元は東
京の神田囃子といわれている。その神田囃子にも元曲があり、それは葛西囃子(かさい
ばやし)といわれている。
葛西囃子は古くから葛西方面に伝わるもので、亨保の始
め頃、葛西領鎮守香取神社(現、葛西神社)の神主、能勢環によって創始された囃子と
いわれ、次第に近隣に普及し、宝暦3年、関東代官の推薦で江戸神田祭に出演した。関
東代官とは関東郡代と思われ、関東八州の幕府直轄領、即ち天領を支配しており、この
頃の郡代は伊奈半左右衛門忠辰で、江戸町奉行、勘定奉行と並ぶ権力者であった。
関東郡代の口利きで出演した神田祭りとは、通称神田明神と言われた神田神社のお祭り
で、神田神社は、天平2年の創建と伝えられ、後に平将門の霊を合祀、江戸幕府が開か
れると江戸城の鬼門除けの守護として、歴代将軍の尊敬を得て、江戸総鎮守の神社とな
った。神田祭りは総鎮守の祭りとして華美を極め、江戸城内に参入し将軍の上覧に供し
、ご用祭り、天下祭りといわれ、氏子の各町は山車やねりものに競って趣向を凝らし、
その行列は尽きることがなかったという。
将軍の上覧となれば、当然在府の大名は
その席に連座していたことはいうまでもなく、各大名は華やかな祭りに眼を見張ったで
あろう。このようにして神田祭りの形態、神田囃子は関東一円に広まっていったが、徳
川氏が江戸に幕府を開く以前の関東には伝承された大きな祭りや、囃子は無かったと考
えられ、神田祭りの形態が広まった要因と言える。
神田囃子の元の葛西囃子であ
るが、その構成は、七穴の通称トンビといわれる篠笛が1人、シラベといわれる締太鼓
が2人、オウドという大太鼓が1人、ヨスケという鉦(かね)が1人の5人で演奏する
。囃子の中心となるのは常に笛で、笛が無ければ葛西囃子は成り立たないこの葛西囃子
の創始者といわれる能勢環は、笛が得意であったと想像される。中略。
葛西囃子は
昭和28年に東京都の無形文化財に指定され、葛西囃子保存会も結成され、昔から伝承
された囃子を受け継いでいる。しかし、山車囃子としては不向きなところがあり、神田
祭りには多くの山車や'ねりもの'といわれる飾り屋台が町中を練り歩いており、一説に
は元禄時代、既に江戸城内に繰り込んでいるともいわれ、それには山車を引く一定のリ
ズムを持った囃子が無ければ盛り上がらず、かくして神田囃子が誕生したと思われる。
神田囃子は神田大工町の新井喜三郎によって創作されたともいわれ、又新しい曲の神田
丸、亀井戸、麒麟、葛鼓など加えられた。
神田囃子は祭囃子として、江戸町人に親
しまれるようになったが、二つの形を持ったものと考えられる。一つは山車の囃子台で
囃子方と共に、様々の面を付けて、身振り手振り、曲に合わせて舞うのである。一つは
江戸に生まれた江戸木遣りに合うように考えられた囃子で、前者はリズミカルな軽快な
曲であり、後者はゆっくりとした重みを感じさせるもにである。
神田囃子は成立時
において祭りに参加する町の趣向によって囃子の形が定まったと考えられ、それらの囃
子が江戸を中心とした街道を伝わり、大名の肝いりで伝えられていったがその形は様々
で、曲名は同じであっても変化したものが伝えられ、また、土地柄により新しい曲が生
まれていった。山車と囃子が別々に伝わった所もあり、川越市、栃木市がその例で、比
較的リズミカルなもので、中山道筋に伝わったものはゆっくりしたもので、本庄市、高
崎市などがその例である。しかし、同じ中山道の熊谷市の山車のように、大きな鐘を数
基並べて叩く囃子もあり、群馬県伊勢崎市近辺に発展した囃子が中山道筋へ伝わったも
のもあり、江戸を中心とした規則的な扇状の伝達ではない。
高崎では葛西囃子が成
立した享保年間には大河内氏が再度入城して、先祖である源 頼政を祭った神社を建立
し、盛大な祭りが行われるようになり、町人達も各町で飾り屋台やねりものを造って、
祭りに参加している。中略。神田囃子が高崎へ伝わり、自然に変化して伝承されてきた
が、ほぼ現在の囃子に固定したのは明治時代と思われる。各町が現在のような山車を製
作し始めると、囃子台が決まり、締太鼓が2、大太鼓が1、笛、鉦といった標準的なス
タイルが出来上がったことによる。その後も変化して中には囃子が絶えてしまった町も
あって、それぞれの町が独自の囃子を伝えているといってよい。楽器の名称も所により
変わる。高崎で小太鼓または金太鼓といわれるものは、締太鼓、しらべといい、大太鼓
は大胴(おおど)、笛をトンビ、鉦(かね)をよすけと呼ぶ。
現在、高崎で演奏さ
れている曲のなかには、名称は異なるが、曲は変わらないもの、又その逆なものもあり
、それらの曲名を列記すると、@葛西囃子、神田囃子と同名のもの
屋台囃子、仕丁
舞、昇殿、鎌倉、仁羽(みんばと呼ぶ)岡崎ともいう、葛鼓、麒麟、神田丸。
A 葛
西囃子、神田囃子の変化したもの
新屋台囃子、仁羽くずし、仕丁舞くずし
B高
崎近辺で演奏されているもの
雨だれ、三てこ、数え歌、松くずし、三挺子、梅が枝
、春はうれしや、一つや、かわり玉、おかぐち、かご丸、七草、御大典囃子、おうま、
高崎田町。このような曲が演奏され、出、玉、きり などは共通している。倉賀野には
高崎とは異なった曲名がある。きざみ、えどわか(えどばかともいう)、あいのやまな
どで、山名町には変わった曲名があり、ばかばやし、シンベイ、スガアキ、ダラチュウ
、ナイシなどで、八幡町には、かんだまる、はやわたり、打つがい。石原町の指出は、
練り出しという曲を持っている。
以上が高崎で演奏されている囃子であるが、曲名
が違っても曲が同じであったり、同じ曲名でも囃子が合わなかったりするが、それぞれ
の地域で、また町で、現在の囃子を変化させず伝承していくことが重要で、何処の囃子
が古く、正しいとか、元祖だとかいうのではなく、いずれも家元なのである。
高崎
の山車や囃子は西上州に影響を及ぼしたことは山車の項でも述べたが、鏑川の奥の下仁
田町にも同じような山車囃子が伝わっている。その曲名は、しちょうま、さんてこ、や
たいばやし、しょうめ、かごまわり、はやわたり、みやかぐら、とおりばやし、かまく
ら、しょうでん、まつりばやし、おかざき、ししばやし、おうま、わかばやし、ひとつ
とや、けんかばやし、やっさいばやし、すけてんばやし、ちゃらぼこばやし、たかさき
たまち。
以上であるが、高崎同様に同じ曲を異なった名称で呼んでいるものもある。
根小屋町周辺では、囃子のことを「シャギリ」といい、囃子を演奏することを「シ
ャギル」という。高崎藩主であった大河内輝貞が一時越後の村上へ転封されたことがあ
り、この村上には「おしゃぎり」といわれる豪華な屋台がある。「おしゃぎり」と「シ
ャギリ」は何か関係がありそうである。
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高崎の山車囃子の流派
引用文献:高崎市史民俗調査報告書第6号
「旧市域の祭りと町内会」(発行、高崎市)
高崎の山車囃子に現在のような流派が初めて現れたのは、昭和20年代のことである。それ以前の道祖神祭りにおける囃子は、各町内の古老から次世代へと伝えられてきた町内独自のものであったと思われる。山車囃子の継承は口伝によるものであり、伝えられる途中で他の囃子の要素が少しずつ取り入れられて、様々な調子の囃子に生まれ変わっていく。そうした中で、やがて何人かの指導者が現れ、高崎の祭囃子の流派が形成されていったものと考えられる。現在、旧市域にみられる代表的な流派としては、長谷川流と秀山流をあげることができる。高崎に江戸系の祭囃子をもたらした人物に、本町一丁目で旅籠(屋号、銀杏屋)を経営していた銀杏屋源兵衛こと高橋勇三氏(1884〜1937)がいる。(高橋家当主は代々源兵衛を襲名)高橋氏は歌舞音曲に優れ、東京にあった神田囃子などを習得して、高崎に広め、現在の山車囃子の基礎を作ったといわれる。現在に伝わる高崎の山車囃子の曲目は、江戸祭り囃子と共通している。
長谷川流
銀杏屋源兵衛から山車囃子を受け継ぎ、発展、定着させたのが長谷川万次郎氏である。長谷川氏は、源兵衛の伝えた江戸祭囃子と古来の囃子を融合させ、現在の長谷川流と呼ばれる囃子を作った人である。昭和22年頃、長谷川氏は九蔵町の大雲寺の東、現在の高野成果店の裏辺りに住み、囃子の笛を教えていた。
終戦直後のことであり、また病弱でもあったらしく、定職を持たなかったという。長谷川氏はワラ紙に自分の判を押して、1枚10円のチケットのようなものを作り、数枚綴りにしたものを売って、指導料代わりにしていた。笛を習う人は、一回指導して貰うのに10円のチケット一枚持っていくのである。長谷川氏一回に1曲を教えるのではなく、1曲の中の1区切り(節)ずつを教えた。そして、それぞれの節を完全に覚えると、1曲全体を通して教えたという。
昭和40年(1965年)には、長谷川氏の弟子達によって「高崎山車ばやし保存会」が結成された。
秀山流 秀山流は下和田町(現在の下和田町四丁目)の金井政吉氏(1893〜1971)が興した流派である。金井章次著「父と祭り」(平成5年)によれば、金井政吉氏は北通町に生まれ、大正6年に下和田町で酒饅頭の店を開業、鳴り物好きで商売の傍ら山車囃子、太鼓をはじめ、尺八、バイオリン、民謡など、あらゆるものを習ったという。昭和3年の御大典には、北通町の山車の上で笛を吹いて、活躍したり、昭和9年に下和田町の山車ができると、道祖神祭りの笛と太鼓を指導した。尺八の号を「秋桂」、山車笛の号を「秀山」といい、これが秀山流の名の起こりとなった。
終戦後、昭和20年代に入ると、金井氏は本格的に山車囃子の指導を始めた。その一方で、沢山の笛を作り、神社へ奉納したり各種団体へ送ったりした。金井氏が神社へ奉納した神楽笛は92管、各町内その他へ贈呈した山車笛は、137管に及ぶという。
昭和36年の市制60周年記念の高崎祭りでは、金井氏の指導した女の子が初めて、山車の上で笛を吹き、高崎における女性の笛吹きの第1号となった。
金井氏は、昭和45年(1970年)の市制70周年記念の高崎祭りの山車列に参加したのを最後に引退した。昭和60年(1985年)4月1日、「秀山流花車ばやし保存会」が結成された。(中略)
このように高崎の山車囃子をほぼ2分している長谷川流と秀山流であるが、その内容的の相違点はそれほど顕著なものではない。囃子の中身は共通であるが、笛の流儀と太鼓の奏で方が異なっているという。長谷川流では囃子の間のツナギに「玉(たま)」が入るが、秀山流では「キリ」が入るのが建前だという。笛の形態からいえば、長谷川流では長めの笛を用い、秀山流では短めの笛を用いている。そのため、笛の音色は長谷川流の方が低音である。また、秀山流では手作りの笛を使う人が多いことも特徴の一つであろう。
しかし、以上のような相違点はあるものの、祭りの興奮の中で聴く囃子にはそうした違いは余り気にならない。むしろ囃子の笛の指導者によって、現在の流派があると理解したい。そして、お互いの技を競い合うことで、現在の山車囃子の隆盛をみたのである。
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