昼食休憩後の午後1時15分、いよいよ、筒井町 山王祭の初日の山車曳きの開始です。 祭り支度をして待機していた筒井町内の大人と子供達が、延ばされた曳き綱を握りますと、12名の楫方衆が梶棒の前に整列します。全員が拡げた黒地に日の丸の扇子を口元にあて、音頭取りの発声に続いて、神皇車の上山を仰いで、喉から絞り出すような声で 木遣り(きやり)の奉納が始まりました。エーィヨゥーイェー、曳いてはーヤァーレー...〜と、続きます。
この木遣りは物を運ぶ時に唄うものだそうで、唄い終わる直前に山車は曳き出されます。
山車囃子も、軽やかに!
出発した神皇車は、道行きの囃子の中では定番の「車切(しゃぎり)」を演奏します。また途中で、同じ道行きでも少し雰囲気の違う「狂言神楽」を気分転換に演奏もします。このふたつの曲は似ておりますので、聴き慣れない私には、同じものに聞こえます。ここでは、狂言神楽を聴いて頂きます。
この図は、筒井町天王祭の初日、昼間の2両の山車の曳き回しの経路を示した山車曳行図です。
本陣前を楫方衆の木遣りで曳き出された神皇車は、商店街を東へ進み、筒井4丁目のカツラギ医院の角を右折して進み、広い通りにでたところで、その道を別方向より進んできた湯取車を迎えます。筒井町4丁目が保有する同僚の山車は湯取車です。筒井天王祭の山車は僅か2両とはいえ、尾張藩の江戸時代に製作された由緒ある文化財として、名古屋市の保護を受けております。祭り初日で、湯取車も氏子町の筒井4丁目を巡行しており、この場所で、2両の山車が落ち合って、暫くの間隊列を組んで巡行するのです。湯取車を先に進めて、神皇車は、今来た道をUターンして、湯取車を先頭にした、山車2台の隊列ができました。2台の山車は、囃子や、前棚人形、からくり人形を披露しあいながら、進行します。
2両とも、お互いに相手を意識してか、楫方、曳き手の掛け声も一層、大きくなって気合いが入るようです。こんどは、カツラギ医院の角を左折して、商店街通りを西に進み、私が朝、地下鉄を降りて歩いた細い商店街(車道通り)との交差点を左折して、細い商店街(車道通り)を南へと楫を執りました。
山車巡行での最高司令官は、"綱頭(つながしら)"です。綱頭と大書された大きな団扇を持って曳き綱の先頭に立ちます。進むも止まるも全て、この綱頭の号令がなくては出来ません。運行に際しての絶対の権限を持っており、誰もが綱頭に従うしかありません。綱頭を補佐するのが、二人の"宰領(さいりょう)"です。宰領は、綱頭の指示を楫方へ伝え、楫棒操作の号令をします。
楫棒を担ぎ上げ、山車の車輪を浮かせて、山車の向きを変えることを"どんでん"と呼びますが、浮かした山車を下に降ろすタイミングなどの細かい指示を宰領が行います。
お囃子は山車の大幕の中で行われます。大太鼓1、付け太鼓3、笛は、能管(のうかん)と篠笛とで合わせて、十数本です。鼓(つづみ)は、ありませんでしたが、導入の準備をしておるそうです。
神皇車の大太鼓は直径が1メートル(3尺5寸)もある大きな太鼓です。神皇車の年賦では昭和27年購入した大太鼓で、「平和の太鼓」と記されてます。この年は、敗戦した我が国が、講和条約で独立した年だったと思います。作者の勝手な注釈です。楽屋の板敷きの上に座布団を持ち込んで囃子の演奏を行います。
実際に大幕の中の楽屋は、楽器類と太鼓4名と笛1名の演奏者でもう一杯です。あとの笛の奏者は、山車の後部に腰を掛けるか、歩きながら演奏します。元気で張りのある笛の音を響かせるには、笛の奏者が最低5、6名は必要です。お囃子衆は全員が浴衣姿です。
犬山、半田亀崎に続いて、この名古屋の筒井町と、つづけて短い間に尾張地方の山車囃子をいろいろ、堪能させて貰いました。その中で気づいたのは、こちらの山車囃子が、関東周辺のそれと異なっている基本的に違いは、"能管"と、"からくり人形"の存在だと思いました。
尾張地方は京、大阪と並び、室町から安土桃山時代の我が国の政治、文化の中心地でした。当時の音楽と云えば宮廷神楽の庶民版であった「さとかぐら」が神社祭礼の音楽であり、それに武士階級がたしなんだ能楽の笛、太鼓、鼓の調べが混ざって、今の山車祭り囃子に発展してきた伝統のあるものだ、と云われてます。そして、からくり人形の存在が「人形囃子」という独特の祭り囃子も生んできたのでしょう。
「能管」は、能楽に用いる7穴の笛です。篠笛と違い最初は使い方が、複雑で難しいのですが、熟練すると素晴らしい響きと音がでる笛です。
画像の笛演奏の方は、幼少より神皇車で笛を奏しておられる方で、今回の筒井町天王祭の見聞に際し、数々の祭り情報をご提供頂きました。
お囃子のもうひとつの主役は、大太鼓です。神皇車の平和の大太鼓の響きは、聴く人のお腹にずっしりと響く、深みがある好い音です。神楽太鼓に似た胴の短い平胴は、尾張地方周辺、紀和京阪地方周辺の山車のように、幕の中の楽屋で囃しを演奏するのには、胴の短い方が具合が好いです。
祭り初日は、氏子町内を巡行して、山車の出陣の挨拶をし、祝儀の寄進を受けますと、寄進者宅前の路上で、返礼のからくり奉納が行われます。祝儀の記録は、綱の一番前を歩く紋付き袴姿の役員が当たります。大福帳を持って、寄進者と金額を記帳してました。祭事はお金が掛かりますから、町内の顔役の立場を生かして、縁の下の支えに徹して下さい。
上山の人形が新調されました!
平成5年から平成11年に掛けて、神皇車の人形の復元修理が順次、大垣市の能面師後藤秀美氏の手で始められております。平成11年に人形4体の全ての復元修理が終わります。平成9年に完了した面かぶり巫女人形の真新しい顔は生き生きと輝いておりました。
復元の経過を神皇車山車保存会の野々山会長さんからお聞きしたところ、平成5年に武内宿禰、平成6年に采振り人形、平成9年に面かぶり巫女人形が完了して、平成11年に神功皇后人形の復元が完了しております。新調した各人形の貴重な画像を、神皇車山車保存会長さんから提供して頂きましたので、人形名をクリックして、ご覧下さい。(この項は、平成13年3月6日に追加更新)